歌川国芳の生涯や絵師としての経歴。代表作品は?

2019年3月現在、東京美術館で「奇想の系譜典江戸絵画ミラクルワールド」が開催されています。

この展示会は、美術史家である辻惟雄さんが出版された『奇想の系譜』で紹介された数々の作品を展示したものです。

主に、『奇想の系譜』で取り上げられた

  • 岩佐又兵衛
  • 狩野山雪
  • 伊藤若冲
  • 曽我蕭白
  • 長沢芦雪
  • 歌川国芳
  • 白隠慧鶴
  • 鈴木其一

8人の絵師の作品が展示されています。

この記事ではそのうちの1人である歌川国芳の生涯や絵師としての経歴をご紹介したいと思います。

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歌川国芳の生涯や絵師のしての経歴。代表作品は?

歌川国芳の生い立ち

歌川国芳は寛政9年(1798年)11月15日に現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目あたりで誕生しました。

参考までに、「奇想の系譜展」で展示されている主な画家の生没年を記しておきます。

  • 岩佐又兵衛 (1578年~1650年)
  • 狩野山雪(1590年~1651年)
  • 伊藤若冲(1716年~1800年)
  • 曽我蕭白(1730年~1781年)
  • 長沢芦雪(1754年~1799年)
  • 白隠慧鶴(1686年~1769年)
  • 鈴木其一(1795年~1858年)

ちなみにかの有名な歌川広重も1797年に誕生したとされています。

歌川広重の性格と経歴。生涯の代表作品は?面白いエピソードも

歌川国芳の絵師としての経歴

幼少期から絵を学ぶ

三囲神社碑文によると歌川国芳は幼少期から絵を学んでいたとされ、7、8歳頃には

  • 北尾重政の『絵本武者鞋』
  • 北尾政美の『諸職画鑑』

を模写していました。

その後、12歳の時に歌川国芳は「鍾馗提剣図」を描きます。

その絵は初代歌川豊国の目に留まることとなり、15歳で歌川豊国の弟子入りとなりました。

歌川国芳が絵師として活動を始める

歌川豊国のもとで絵を学んだ歌川国芳は入門から数年後の文化11年(1814年)頃、『御無事忠臣蔵』の表紙と挿絵を担当します。これが歌川国芳のデビュー作となりました。

翌年の文化12年(1815年)の錦絵「市川市蔵の金輪五郎今国・三代目中村歌右衛門のおみわ」から一枚絵を描き始めたとされ、文化13年(1816年)には錦絵「浅尾勇次郎・五代目岩井半四郎・七代目市川団十郎」を描きました。

弟子入りした歌川国芳でしたが、この時月謝を払えるほどの経済力はなかったため、兄弟子・歌川国直の家に居候し、歌川国直の仕事を手伝いながら絵の制作を行っていました。

また歌川国芳は挿絵や役者絵を描くなどの仕事をしていましたが、あまり人気はなかったとされています。

文政初年となった頃、『平知盛亡霊図』や『大山石尊良弁滝之図』などの錦絵を描き、一時期、人気を得ます。

再び文政6年(1823年)頃に錦絵を出しましたが、師匠・歌川豊国や兄弟子の歌川国貞の人気の陰に隠れることとなり、再び不遇の時期を過ごすこととなりました。

人気絵師の仲間入りを果たす

師匠・歌川豊国が文政8年(1825年)1月7日に亡くなります。

その後の文政10年(1827年)頃に発表した『水滸伝』シリーズの大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』が人気を得ることとなり、歌川国芳は人気絵師の仲間入りとなりました。

天保元年(1830年)頃になると住居を新和泉町玄冶店に移し、ここで絵の制作を行います。

この頃は

  • 武者絵
  • 洋風風景画
  • 美人画
  • 魚類画
  • 風刺画

などを制作していたとされ、「朝桜楼」の号を用いていました。

その後、天保6年(1835年)、歌川芳宗が入門します。

天保の改革によって一転、活躍の場を失う

人気絵師の仲間入りを果たした歌川国芳でしたが、天保の改革によって一転します。

この天保の改革とは老中・水野忠邦によって天保年間(1830年から1843年)に行われた幕府財政の再興を目的とした政策で、これによって

  • 風俗取締り
  • 寄席の閉鎖
  • 芝居小屋を江戸郊外へ移す

など庶民の娯楽が制限されるようになります。

そのため天保13年(1842年)には歌川国芳の人情本や艶本も制限の対象となり、絶版処分となります。

浮世絵や役者絵、美人画も対象となり、絵師にとって大打撃となる政策でした。

この頃に描かれた『源頼光公館土蜘作妖怪図』は江戸幕府による理不尽な弾圧を風刺した作品とされています。

Warrior Minamoto Raiko and the Earth Spider LACMA M.2006.136.292a-c (1 of 2).jpg
By Utagawa Kuniyoshi (Japan, 1797-1861) – Image: http://collections.lacma.org/sites/default/files/remote_images/piction/ma-1330476-O3.jpg

 

弘化元年(1844年)歌川国芳は葛飾北斎の門人である大塚道菴を通して葛飾北斎と面会したとされています。

赤穂浪士を描くも打ち切りに

歌川国芳が56歳の頃、新たなシリーズの製作に取り掛かります。

そのシリーズは赤穂浪士を描いたものでした。

しかし、当時公儀に逆らった赤穂浪士を称え称賛することはご法度でありました。

そのため、すぐに打ち切りとなったとされています。

歌川国芳の最期

安政3年(1856年)初め頃、歌川国芳は中風を患います。

中風とは現在では脳血管障害の後遺症とされています。

後遺症を患っていたため、歌川国芳が描く作品の描線に鈍さが見られるようになります。

万延元年に歌川国芳は横浜絵の制作を始めますが、文久元年(1861年)65歳で亡くなりました。

歌川国芳の代表作品

ここで歌川国芳の代表作品をご紹介いたします。

歌川国芳の代表作品:「相馬の古内裏」

Mitsukuni defying the skeleton spectre invoked by princess Takiyasha.jpg
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弘化2から3年(1845から1846年)頃に描かれた作品です。

文化3年(1806年)に刊行された山東京伝の『善知鳥安方忠義伝』をもとに描かれた作品です。

描かれる髑髏は学術的に正確に描かれているとされています。

それもそのはず西洋の解剖学の書物を参考にしていたのです。

歌川国芳の代表作品:「みかけハこハゐが とんだいゝ人だ」

At first glance he looks very fiarce, but he s really a nice person.jpg
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弘化4年(1847年)に描かれた作品です。

人が集まり、人の顔を作り出した不思議な作品です。

歌川国芳はこのような仕掛けで見る人を楽しませました。

歌川国芳の代表作品:「其のまま地口 猫飼好五十三疋」

Cats suggested as the fifty-three stations of the Tokaido.jpg
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嘉永元年(1848年)に描かれた作品です。

東海道五十三次の宿場町名を猫で表した作品で、計53匹の猫が描かれました。

猫尽くしの作品となっています。

歌川国芳の代表作品:「猫のけいこ」

Japanese traditional furry art1.jpg
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天保12年(1841年)に描かれた作品です。

こちらも猫が描かれています。

歌川国芳は無類の猫好きであったとされ、数十匹の猫に囲まれながら絵の制作を行っていたとされています。

歌川国芳の作品には猫が多く登場します。

本当に猫が好きだったのですね。

まとめ 歌川国芳のドラマや映画はある?

歌川国芳の生涯と絵師としての経歴、代表的な作品をご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 幼少期から絵を学んでいた
  • 歌川豊国の弟子となる
  • 歌川広重とは同じ時期に活躍していた
  • 無類の猫好きであり、猫が登場する作品が多く残る
  • 葛飾北斎と交流を持った
  • 65歳で亡くなる

 

歌川国芳は、歌川豊国に弟子入りし多くの絵を描きました。

歌川国芳が登場しているドラマや映画は残念ながらありませんでした。

しかし現在、東京美術館で開催されている「奇想の系譜典江戸絵画ミラクルワールド」ではここでご紹介した「相馬の古内裏」「みかけハこハゐが とんだいゝ人だ」の他に数々の作品が展示されていますよ。

ちなみに、歌川国芳の他にも岩佐又兵衛の作品も魅力的ですよ!

岩佐又兵衛の生涯や絵師の経歴。作品の代表作は?

これを機に歌川国芳に興味を持った方はぜひ東京美術館で開催されている「奇想の系譜典江戸絵画ミラクルワールド」に足を運んでみてください。

以上「歌川国芳の生涯や絵師としての経歴。代表作品は?」でした。

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