江戸時代前期の大きな事件を起こした由井正雪。
時の将軍を拉致しようとした大胆な計画がドラマや小説の題材としてよく使われています。
今回は
- 由井正雪の生い立ちと経歴について
- 由井正雪の乱とは?
- 由井正雪の最期とは?
について紹介します。
こちらを読めば、謎の多い由井正雪の生涯についてよくわかります。
時代劇では、ちょっと癖のある役者さんが演じることの多い由井正雪をもっと楽しく見ることができます。
ぜひ最後まで読んでください。
由井正雪の生い立ちと面白い逸話とは?
由井正雪の生い立ちは、諸説あります。
いわゆる後付けで武田信玄の生まれ変わりというものもあります。
これは、幕府転覆を企んだ犯罪人をヒーローのように持ち上げることを嫌い、幕府が由井正雪に関する資料を抹消させたためです。
楠木正成や豊臣秀吉に憧れていた
今回は一番有力とされている経歴を紹介します。
- 慶長10年(1605年) 駿河国由井(現在の静岡市清水区由比)にて生まれる
父は岡村弥右衛門で、4人兄弟の次男として生まれました。
岡村家は農家と紺屋を兼業しておりましたが、正雪は仕事を手伝うことを嫌った為、寺に預けられます。
そこで読み書きや学問を習った正雪ですが、そのまま僧侶になることはせず、郷里に戻り、しばらくは近所に住んでいた浪人から、軍記や歴史書の講義を受けていました。
このころ、正雪が心惹かれたのが、「太平記」や「太閤記」です。
正雪は、楠木正成や豊臣秀吉に憧れていたのです。
- 元和8年(1622年) 江戸に住む親類の鶴屋弥次右衛門が営む菓子屋に奉公する
- 寛永3年(1626年) 鶴屋に婿入りして店を継ぐ
軍学を学び始める
しばらくは菓子屋の主人としての務めをしていた正雪ですが、やがて武士や浪人たちと付き合うようになります。
時期ははっきりわかりませんが、このころに正雪は、楠木不傳(ふでん)という学者の門かに入り、軍学を学ぶようになります。
名前からわかるように、楠木不傳は楠正成の子孫だと名乗っていました。
本当かどうかはわかりませんが、正雪はとても熱心に学び、不傳にも信頼されるようになっていきます。
鶴屋と離縁、その後再婚
菓子屋の主人としての仕事をしない正雪に、鶴屋は離縁を突きつけました。
でもすっかり不傳に心酔していた正雪は「ラッキー!」と思っていたのではないでしょうか。
正雪は、鶴屋を出ると、不傳の娘と再婚します。
そして、不傳から軍学書などの一切を相続しました。
正雪という名は、この頃から使い始めています。
正の字は楠木正成からとったものです。
楠木正雪と名乗ったり、実家の地名である由井も使っています。
私塾「張孔堂」を開く
正雪は、軍学者として「張孔堂(ちょうこうどう)」という塾も開きました。
塾名は、三国志の時代劉邦に使えた軍師:張良子房と劉備に使えた軍師:諸葛亮孔明からそれぞれ一字もらって付けました。
どちらも中国の優れた軍師です。正雪は無名に農家の次男でしたが、このような名前をつけることで、自分も歴史上有名な軍師に並ぶ人間になろうという意志を示していたのです。
「張孔堂」は、大変繁盛し、大名や旗本にも弟子になる人がいたほどです。
徳川御三家の紀州藩主徳川頼宜(よりのぶ)や備前藩主池田光政なども正雪と親交がありました。
正雪の門弟は3000人を超え軍学者としての実力は、確かなものとなっていきます。
このまま軍学者として人々に教えと授けているだけなら良かったのですが・・・。
自害し亡くなる
- 慶安4年(1651年)7月 由井正雪の乱(慶安の変)
由井正雪の大胆不敵な計画は、未然に制圧され、正雪は幕府に捕まる直前に自害しました。
由井正雪の乱とは一体どんなもの?
由井正雪の乱(慶安の変)は、一言でいうと徳川将軍を正雪自身が担ぎ上げて政治のトップに立とうと計画したクーデターです。
現在の世の中に当てはめることは、難しいですが、
塾生の多くは浪人だった
正雪の塾には、大名や旗本などのれっきとした武士も通いましたが、多くは浪人でした。
このころ幕府は、幕府に対して謀反を起こす疑いが少しでも見えるような藩は、容赦なく改易していました。
大大名なども改易され、その度に1万人以上の浪人が出ていたのです。
まだ戦国の空気が抜けきっていない頃でしたので、浪人になっても何かあれば出世できる、もう一度主君を持つことができると考えている者も多く、そんな浪人たちが正雪の元にも集まってきました。
野心を抱く人々が、大望をもった正雪の元に集まれば、何かが起こるのは自然の流れでした。
幕府に対しクーデターを起こす
慶安4年(1651年)3代将軍徳川家光が亡くなり、まだ11歳の家綱が4代将軍となりました。
幼い将軍を補佐する幕閣は、紀州藩主徳川頼宜を警戒するようになります。
徳川頼宜は、家康の10男として、家康に直接養育されています。武将としての才も覇気もあり、幕府から見ると幼い家綱にとって代わろうとしかねない危険人物として考えられていました。
正雪は、幕府の状況を把握したうえで、頼宜の捺印した書によって同志を募っていきます。
乱後の調べでは、頼宜の捺印が偽物だったとされていますが、本当のところはわかりません。
正雪の計画は大まかには次のようなものでした。
- 江戸城の火薬庫に火を放ち爆発させる
- 同時に江戸の町各所にも火を放ち、混乱させる
- 混乱に乗じ、将軍を江戸城から連れ出す
- 将軍を駿河の久能山へ連れて行く
- 鉄砲隊を組織して、将軍を取り戻そうとする幕府軍を迎え撃つ
- 京や大坂や主な都市も同時に掌握する
- 久能山に本拠地を置いて、正雪が将軍の補佐をする形で幕府の指揮を執る
久能山は、徳川家康が埋葬されている霊地でしたので、新たに政権を築くには最適の場所と考えたのでしょう。
このクーデターに賛同した者は、5000人以上いました。
この多くは浪人でしたが、幕府の政治のやり方に不満を持っていた人が、少なくなかったということは確かです。
もし正雪が本当に将軍の補佐として天下を取っていたら、賛同した者たちも立身出世ができると信じていたのです。
でも現実は違いました。
途方もない計画
この途方もない計画は、あまりにも目立ちすぎていたため早くからその全貌が幕府に捕まれていました。
正雪は、あまりにも大胆に人を集めすぎたのです。5000人もいれば幕府の密偵が一人や二人混じっていてもわかりません。
幕府にとっては、正雪を捕まえることは簡単なことでしたが、その後ろにいる頼宜を抑え込む為にしばらくは正雪を泳がせていました。
由井正雪の最期とは?そのエピソードに見える人物像
正雪が計画を実行に移す時が近づいたため、幕府は正雪たちの捕縛に動きます。
まず、将軍を連れ立つ役目を担っていた丸橋忠也が江戸で捕縛されます。
すでに駿河に到着していた由井正雪は、何も知らずに宿で同志たちを待っていました。
ですが来たのは、町奉行です。
正雪は「紀州頼宜様の家臣である」と偽り、その宿から出ませんでした。
計画が発覚したことを確信した正雪は、町奉行の包囲を討ち破って逃げようといった同志を制し、1人で宿から出てきます。
正雪は、「背が小さく、色白、ひげが黒く、目がクリクリとし、額が狭く、唇が広い」という外見だったと記されています。
再び頼宜の名を出してその場を切り抜けようとしますが、町奉行も引きません。
追い詰められていく正雪でしたが、その態度は落ち着き払っていました。
肝が太く、腹が座った人物だということがよくわかります。
正雪は「これから準備をして出ていきますのでしばらくお待ちください」と言って中へ入ります。
しかし再び出てくることはありませんでした。
不審に思った役人たちが宿に踏み込んだ時には、正雪以下同志たちが自害して果てた後でした。
正雪は、自害する前に遺言書を書いていました。
その中で徳川頼宜との関係を否定しています。
名まえを利用したために頼宜に迷惑がかからないように配慮したためです。
正雪は、計画は失敗しましたが、その最期は冷静に潔く受け入れたのです。
由井正雪の乱の後、徳川頼宜は正雪との関係についてはもちろん一切否定しています。
ですが、幕府の頼宜への監視はより強くなり、もしも頼宜が密かに将軍の地位を狙っていたとしても、または誰かが頼宜をみこしにして何か企てようとしても、それは到底無理なことになってしまいました。
また、正雪の計画が現実性を見せた第一の要因であった多くの浪人は、すべて住居の登録が義務付けられ、事件の予防や調査をやりやすくしました。
浪人が増える原因である諸大名の改易もこの後は減っていきます。
このような幕府の方針転換により、幕府の基盤は安定し、武断政治から文治政治への変換を迎えます。
正雪は、自分の意図とは違った形にはなりましたが、結果的には浪人を減らし世の中を安定へ導いたのです。
そして楠木正成と同じように歴史に名を刻んだのです。
まとめ:由井正雪の生涯とその最期、エピソードからわかる人物像
今回は、由井正雪についてまるで小説のような人生を紹介しました。
簡単にまとめておきましょう。
- 由井正雪は優れた軍学者
- 由井正雪は幕府への反乱を起こした人
- 由井正雪は間接的に社会の不安を解消した
由井正雪は、謎が多い経歴から小説や漫画、ドラマにもよく登場しています。
由井正雪に興味がある人は、ぜひこのような作品もご覧ください。
ドラマティックでわくわくするようなひとときが楽しめますよ。
小説
- 慶安太平記 南條範夫 2005年
- 由井正雪 柴田錬三郎 2001年
漫画
- 佐武と市捕り物控 第二巻 石ノ森章太郎 1960年代
ドラマ
- 柳生十兵衛七番勝負最後の戦い NHK時代劇 2007年
以上「由井正雪の生涯と逸話から見る人物像」でした
コメント