源氏物語(光源氏)のモデルとされる平安時代の代表者 藤原道長 ~摂関政治の栄華を極めた男の生涯をたどる~

はじめに

今年の大河ドラマ「光る君へ」では紫式部の生涯とともに、藤原道長の半生が物語のもう一つの軸として描かれています。

今回は藤原道長の生涯を、彼にゆかりのある人々との関係を交えて紹介していきます。

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1.藤原道長とは

1)道長誕生

藤原道長は966(康保3)年、藤原兼家の五男として誕生します。母は時姫です。なお、母を同じくするきょうだいには道隆と道兼、詮子(円融天皇の后)が、異母きょうだいには道綱(母は『蜻蛉日記』の作者)などがいました。

『光る君へ』では道長は当初地位や権力に関心がないように描かれていました。

しかし、『大鏡』という歴史物語には、道長が若い頃から野心や度胸の強さを持ち合わせていたエピソードが記されています。

【兼家は自分の息子たちを集めてこう言いました。「お前達は頼りない。それに比べて藤原公任(道長のいとこ)は何事にも秀でて頼もしい。お前達は公任の影も踏めないだろう」と。

兼家の発言に対し、道隆や道兼は黙っていただけだったものの、道長だけは「影は踏めなくとも、公任の面を踏んでやる」と答えました。】

とはいえ、五男である彼が出世する可能性は限りなく低い状態でした。

2)道長の出世と結婚

ところが、986(寛和2)年、一条天皇が即位し、兼家が摂政になると風向きが変わります。

同年、道長は昇殿を許されると、蔵人、少納言、左近衛少将、左京大夫と1年の内に出世をしました。

この間、道長は結婚もしています。987(永延元)年、道長は源倫子(左大臣だった源雅信と穆子(ぼくし)の娘)と結婚します。

なお、『栄花物語』という歴史物語(赤染衛門作と言われている)には雅信は倫子と道長の結婚に反対していたものの、穆子が道長の将来性を見抜いて説得させた、というエピソードが記されています。

また、988(永延2)年には源明子(源高明の娘。ただし高明は政変で失脚していたため、詮子が引き取って世話をしていた)とも結婚をしています。

やがて倫子との間には彰子・頼通・妍子・教通・威子・嬉子が、明子との間には頼宗・顕信・能信・長家・寛子・尊子が生まれます。

後に彰子は一条天皇の、妍子は三条天皇の、威子は後一条天皇、嬉子は後朱雀天皇の后となり、道長は栄華を極めることになります。

3)兼家の死と道隆の栄華

さて、990(正暦元)年、兼家が亡くなると、道隆がその跡を継ぎます。

道隆は定子(道隆の娘)を一条天皇のもとに入内させ、中宮とします。この時、中宮大夫になったのが道長でした。

道隆は父の兼家同様、自分の子供達を急速に出世させます。

特に伊周(道隆の次男。なお、長男の道頼は兼家の孫養子になっていた)は991(正暦2)年に参議になると、995(正暦5)年には21歳の若さで内大臣となり、道長を超えて出世をしました。

こうして、道長の前に伊周が立ちはだかることになります。

4)道隆の死と道兼の「七日関白」

しかし、道隆の栄華は終わりを迎えます。

995(長徳元)年の春頃から道隆は体調を崩し、関白の辞表を出します。

『栄花物語』には道隆がやたらと水を飲んだという記述があり、糖尿病であったと考えられています。

死を覚悟した道隆は伊周に自らの地位を継承させるため、伊周に関白を代行させようとします。

しかし、一条天皇は道隆が病の間、伊周を内覧(関白に準じる役職)に任じただけで、伊周を関白にすることはありませんでした。

こうして995年4月10日、道隆は43歳の生涯を閉じました。

道隆の死後、関白となったのが道兼です。

しかし道兼は関白の慶申に参内してから7日後、疫病によって亡くなりました。

この頃、疫病(天然痘と考えられている)が大流行しており、伊周や道綱を除き、道長よりも上位の人間がことごとく消え去りました。

その結果、伊周と道長が主導権を巡って争います。

5)道長の内覧就任

この権力闘争に勝利したのが道長でした。同年、一条天皇は道長を内覧に任じます。

このとき道長を推挙したのが詮子です。詮子は991年、病を理由に出家すると、「東三条院」の院号を与えられ、天皇家で大きな影響力を保持していました。

そんな詮子は道長の方が伊周より人柄も資質も優れていると考えており、一条天皇の寝所に押しかけ涙ながらに一条天皇を説得しました(道長は姉に感謝をしており、のちに詮子が四十の年賀を迎えた際には盛大に祝いました)。

6) 伊周の転落と定子の死

一方、権力闘争に敗れた伊周は996(長徳2)年、弟の隆家とともに花山法皇に弓を射かける事件を起こします。この一件で伊周の旗色は悪くなります。

またこの頃、詮子が病気がちになっており、何者かが呪詛をしたことが原因である、という噂が流れます。

折しも詮子の寝所の床下から呪いの人形が出たこと、伊周が法琳寺で密かに大元帥法(密教の儀式。ただし臣下が勝手に行うことは許されていなかった)を行ったことから伊周に疑いがかかりました。

この結果、伊周は大宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷されることが決定します。

けれども、伊周と隆家は病と称して定子のいる御所に立てこもります。

そこで、一条天皇の命令を受けた検非違使が御所に突入しました。この結果、隆家は捕らえられ、伊周は逃走を続けたものの最終的に諦めて都を出立しました。

大宰府と出雲へ左遷されるはずだった伊周と隆家ですが、実際は播磨と但馬(ともに現在の兵庫県の一部)に留め置かれました。

理由は病気の療養のためです。

けれども、伊周は密かに入京し定子のもとに潜伏していたことが発覚します。

そのため、伊周は今度こそ大宰府へ送られることになりました。

この事件の一番の被害者は定子です。

定子は御所を荒らされた恥辱と悲嘆からその場で髪を切って出家してしまいます。

それでも一条天皇は定子を愛し続け、定子は三人の子(脩子内親王・敦康親王・媄子内親王)を産みます。

しかし定子は1000(長保2)年、媄子内親王を出産した際に亡くなってしまいました。

7)一条天皇の時代の道長

ところで、主導権を握った道長は彰子を一条天皇のもとに入内させ、中宮にします。

この際、中宮だった定子を皇后に据えたことで一人の天皇に二人の后がいる異例の状態となりました。

彰子を入内させた道長が次に望むことは「皇子が誕生すること」でした。

そこで道長は皇子誕生を願い、金峯山詣を行います。

その甲斐あって1008(寛弘5)年、敦成親王(後の後一条天皇)が誕生します。

『紫式部日記』には道長は喜びの余り朝晩構わずに皇子に会いに行ったことや、皇子からおしっこをひっかけられると、うれしそうに濡れた服を乾かしたことなどが記されています。

なお、こののち敦成親王は三条天皇の皇太子に選ばれます。

こうして、道長は将来を見据えた地盤固めを以後行っていくことになります。

8)一条天皇の死と三条天皇の即位

1009(寛弘6)年、彰子と一条天皇の間に敦良親王(後の後朱雀天皇)が生まれます。道長と一条天皇の関係は強固になるはずでした。

ところが、一条天皇は1011(寛弘8)年、病に倒れてしまいます。

一条天皇は居貞親王に譲位し、出家した後に崩御しました。

こうして居貞親王が三条天皇として即位します。

道長は三条天皇から関白を打診されたものの、内覧にとどまり続けました(摂政や関白になると中央の政治から排除されるため)。

また、道長は妍子を入内させ、天皇との関係強化を図ります。

しかし、三条天皇は眼病を抱えていました。

特に1014(長和3)年以降、症状が悪化し片方の目が見えなくなっていました。

目が見えないと叙位(官僚に位階を与えること)や除目(官僚に官職を与えること)といった重要な政務を行うことができません。

そこで、道長は政務の停滞を防ぐため、三条天皇に譲位を迫るようになります。

その結果、1016(長和5)年、三条天皇は敦成親王に譲位しました。

9)後一条天皇の即位と道長の最盛期

1016(長和5)年、敦成親王が後一条天皇として即位します。

このとき道長は摂政に就任したものの、すぐにその地位を頼通(倫子との間に生まれた長男)に譲ります。

けれども実権は道長が握り続けていました。

道長は敦良親王を皇太子にするとともに、威子を後一条天皇のもとに入内させ、中宮にしました。

1018年10月、威子を中宮とする儀式の後、宴会で道長は戯れにある和歌を詠みます。

その歌が「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」です。

こうして、道長は栄華を極めました。

2.藤原道長に関わる人々(藤原行成・藤原実資)

「光る君へ」の中では道長に関わる多くの人々が登場します。

ここでは、藤原行成と藤原実資の二人を取り上げます。

[1]藤原行成

1)藤原行成について

藤原行成は藤原義孝の長男として誕生します。

祖父は藤原伊尹で、摂政を務めた事もありました。

しかし、行成が幼い内に祖父・父が亡くなってしまいます。

当時の貴族にとって、長生きして子供を引き立てることは何より重要でした。

そのため、後ろ盾のいない彼は出世が遅れます。

そんな彼は995年、蔵人頭に抜擢されます。

通常は蔵人頭を2~3年務めたら他のポストに栄転するのですが、行成は一条天皇に気に入られて蔵人頭を7年務めることになり、出世が遅れてしまいました。

2)行成と道長の関係

「光る君へ」の中で行成が「私は道長様びいき」と言っているように、行成は道長のために行動します。

例えば、道長が彰子を一条天皇の中宮にしようとしたとき、一条天皇を説得したのが行成でした(このとき、定子は出家したものの、まだ中宮だったため)。

行成は「定子は出家していて中宮の仕事(神社の祭祀など)をしていない」、「このままだと定子は廃后になるかも」などと半ば脅しをかけて彰子を中宮にするため奔走します。

その甲斐もあって彰子は中宮となりました。

また、一条天皇が譲位する際、次の皇太子を誰にするかが問題になっていました(一条天皇が即位した時のとりきめで次の天皇は居貞親王と決まっていた)。

なぜなら皇太子候補には敦成親王(彰子と一条天皇の子)のほかに敦康親王(定子と一条天皇の子)がいたからです。

しかも敦康親王の方が敦成親王よりも年長でした。

当時は中宮の産んだ第一皇子が天皇となっていたため、本来ならば敦康親王が皇太子になるはずでした。

けれども行成は敦成親王を皇太子にするよう進言します。

定子が既に亡くなっていたことや、敦康親王が天皇になれば道長とうまくいかない可能性があったことなどが要因だと考えられます。

最終的に一条天皇は敦成親王を皇太子にしました。

3)行成の苦悩

ここまで見ると行成は道長のしもべとして動いているように見えますが、内心かなり苦悩していたと思われます。

なぜなら彼は一条天皇の側近だったほか、定子にも仕えていて、さらに敦康親王の別当(敦康親王を守る立場)でもあったからです。

それでも彼は苦悩の末、国のため、道長のために行動しました。

4)行成のその後

ところで、行成は書に秀でた人物でした。

当時、貴族が宴会を開いた際には招待された客が主催者に対し馬などを贈り物として献上しました。

けれども、行成の場合は書を書いただけで馬以上の価値があったと言われています。

そのため、後に行成の子孫達は出世できずに没落していくものの、一族は書道の名門(世尊寺流)として生き残ることになります。

[2]藤原実資

1) 藤原実資について

藤原実資は藤原斉敏の四男として誕生します。

後に祖父であり、関白を務めたこともある実頼の養子になりました。

名門で、才能もあり、人格も素晴らしいということで、彼は円融、花山、一条の三代の天皇のもとで蔵人頭を務めました(通常は天皇が代替わりすると蔵人頭も交替する)。

2) 実資の日記『小右記』

そんな彼が60年以上にわたって書き続けたのが『小右記』という日記です。

この時代、儀式を行う際は過去のやり方を遵守することが何よりも重視されていました。

そのため、貴族達は儀式の手順を子孫に伝えるため、日記を書いていました。

実資も『小右記』の中に朝廷の政務や儀式の詳細を記していました。

けれども、実資はかなり個人的な内容も『小右記』の中に記しています。

例えば、藤原道綱(道長の異母兄)が自分を追い越して出世した時には「無能のくせに出世するのは許せない」と日記に記しています。

わざと道綱を「通縄」と書き間違えているあたり、実資の怒りがよく表れています。

また、藤原行成や源俊賢(明子の兄)のような道長の顔色ばかりうかがう人のことを「道長の家来」と批判します。

さらに、藤原顕光(道長のいとこ)が儀式で失敗をしたときには、失態をいちいち書き記していました。

このように他人に厳しい実資ですが、それは「自分は天皇や国家に仕えている」という強い意識の裏返しでもありました。

3)道長と実資の関係

実資は道長のこともいろいろと『小右記』に記しています。

道長と伊周が取っ組み合いをしたことを載せていますし、道長が三条天皇に退位を迫ったときには「大不忠の人」と道長を批判しています。

けれども、実資が道長のことを批判するのは道長が朝廷や天皇をないがしろにしているときだけで、基本的には良好な関係を保っていました。

例えば、彰子が一条天皇の女御になった日、道長主催の宴会に出席しています。

また、威子が後一条天皇の中宮になった日の宴会に実資も出席していたからこそ、「望月の歌」が後世まで残ることになりました。

4) 実資のその後

実資は1021(治安元)年、65歳にして念願の右大臣に就任します。

喜びのあまり、日記の中で「右大臣は僕」と記すほどでした。

実資はその後、1046年に90歳で亡くなるまで、25年にわたり右大臣を務めあげました。

3.道長の愛人? ~紫式部と道長の本当の関係~

「光る君へ」で特に描かれているのが、紫式部と道長の関係です。

光源氏は道長がモデルという説や、紫式部は道長の愛人だったという説があります。

ここでは、道長と紫式部の関係について、実際のところはどうだったのかを検証していきます。

1)「紫式部=道長愛人説」の由来

そもそも、「紫式部愛人説」は『紫式部日記』の次のエピソードに由来します。

【『源氏物語』が中宮彰子の元にあるのを見た道長が、紫式部に対し、「あなたは浮気者と評判が高いので、見かけた人は誰でも口説かずにはいられない」と冗談で和歌を贈ります。

それに対して紫式部は「わたしはだれにも口説かれたことがないのにそのような噂は侵害である」という返歌を詠みました。

その夜のこと、紫式部が休んでいるところに、何者かが戸を叩く音が聞こえます。

紫式部は恐ろしさのあまり、応答もせずに一晩を過ごしたところ、翌朝道長から「一晩中、戸を叩き続けて夜を明かした」と戸を開けてくれなかった紫式部を嘆くような歌が届きました。】

このエピソードや紫式部の系図に「道長妾云々」という記述があったことから、「紫式部=道長愛人説」が産まれました。

2)「紫式部=道長愛人説」の真相

しかし、実際に紫式部が道長の愛人だったとは言いがたいです。

なぜなら、上記のエピソードの頃(1009年)、道長は43歳と当時では老齢にさしかかっていたことに加え、健康状態が悪かったからです。

また、紫式部の方にしても、系図以外に明らかに道長の愛人だったと言える証拠はありません。

残念ながら、紫式部は道長の愛人だったという可能性は限りなく低いでしょう。

3)道長と紫式部の本当の関係

それでは、本当の二人の関係はどうだったのかというと、ビジネスパートナーのような関係だったと考えられます。

例えば、道長は『源氏物語』の製本作業をする紫式部達に対して、墨や筆を与えて作業のサポートをしています。

一方、紫式部は道長のために『紫式部日記』を書いています。

というのも、道長は皇子誕生やその後行われた儀式を記録させ、後世に役立てようと考えていましたからです。

しかし、出産の場は男性が立ち入ることはできません。

だからこそ、紫式部は『紫式部日記』を書き、その中で敦成親王(彰子と一条天皇の子)が誕生したときのことや、皇子誕生の際に行われた儀式を克明に記しました。

紫式部と道長は愛人ではなかったものの、良きパートナーであったのは確かです。

4.藤原道長の晩年

栄華を極めた道長ですが、その晩年は幸福とは言いがたいものでした。

1)自身の健康悪化

晩年、道長は健康を害していました。

『小右記』(藤原実資の日記)や『栄花物語』(赤染衛門作と言われる歴史物語)には、道長がしきりに水を飲むことや、目が見えなくなっていたことが記されています。

おそらく道長も糖尿病にかかっていたと考えられます。

他にも道長は胸の病気を発症し、腫瘍もできていたと言われています。

2)道長の子供の死

また、彼の子供達にも相次いで先立たれます。

1025(万寿2)年には寛子(明子との子)、嬉子(倫子との子)が亡くなります。

特に嬉子は敦良親王(のちの後朱雀天皇)との間に子(のちの後冷泉天皇)を産んだばかりで、道長は悲嘆に暮れました。

また、1027(万寿4)年には妍子(倫子との子。三条天皇の后だった)や顕子(明子との子)も亡くなりました。

3)浄土教への傾倒

道長は今までライバルを蹴落としてきた分だけ、祟りを恐れていました(当時は政変など理不尽な目に遭った者は、死後、怨霊となって祟りをもたらすと考えられていた)。

そのため、道長は浄土教に傾倒していきます。

1019(寛仁3)年、道長は出家すると無量光院の造営に取りかかります(後に法成寺と改称)。

道長はその中に阿弥陀堂(阿弥陀仏をまつる場所)を設け、9体の仏像を造らせました。

1027年12月、死期を悟った道長は阿弥陀堂に入り、9体の仏像からそれぞれ5本の糸を垂らし、合計45本の糸を握りながら、浄土へと旅立っていきました。

5.道長死後の藤原氏一族 ~道長一族に焦点を当てる~

1)道長の後継者 藤原頼通

1016年、道長に代わり摂政となった頼通は、3代の天皇(後一条・後朱雀・後冷泉)の間、50年近くにわたって摂政・関白を歴任しました。

けれども、頼通は父道長のように天皇と外戚関係を築くことはできませんでした。

頼通自身が子供に恵まれなかったこと、養女などをとって何とか天皇に入内させても、皇子が産まれなかったことが原因でした。

なお、頼通の弟たち(同母弟の教通や異母弟の能信)も娘を天皇に入内させますが、やはり皇子は産まれませんでした。

2)外戚関係のない天皇の即位

こうした中、1068年、あとつぎのいない後冷泉天皇に代わって後三条天皇が即位します。

藤原氏と外戚関係にない天皇の登場によって、「藤原氏が天皇と外戚関係を築いて栄華を極める時代」は終わりを告げました。

3)その後の道長一族

しかし、道長一族は摂関家(摂政・関白につくことのできる家)として生き残ります。

時代が下って、鳥羽天皇(後三条天皇の3代後の天皇。当時は祖父の白河上皇が院政を行っていた)が即位したとき、

外戚関係になかった忠実(頼通のひ孫)が摂政に選ばれました。

これ以後、道長の一族は天皇との外戚関係に関わらず、摂政や関白に就任するようになりました。

その後、道長一族は近衛・鷹司・九条・二条・一条の5つに分裂するものの、鎌倉幕府や室町幕府など時の権力者と結びつき、朝廷の中で一定の地位を築き続けました。

6.おわりに

ここまで、藤原道長の生涯を見てきました。

藤原道長は多くのものに「恵まれた」人物だったことがわかります。

・子供

まず、「自分の子」に恵まれていました。

特に倫子が産んだ娘はいずれも天皇や皇太子の后となり、ほとんどが皇子を産みます(ただし妍子と三条天皇の間に皇子は産まれなかった)。

娘が産んだ皇子が次の天皇になることで、道長は権力を維持し続けることができました。

・味方

次に、「味方」に恵まれていました。

詮子が一条天皇を説得しなければ道長が内覧に就任することはありませんでした。

加えて行成がいなければ彰子が中宮になることは困難でしたし、紫式部がいなければ敦成親王誕生の際に行われた儀式を知ることはできませんでした。

道長の人柄を慕い、味方になってくれる人に道長は恵まれていたことがわかります。

・運

さらに、「運」に恵まれていました。

疫病で道長より立場が上の人間がほとんど死に絶えたことやライバルの伊周が自滅したことで、彼の地位は不動のものとなりました。

・実力

しかし、道長はただ「恵まれて、運が強い」だけではありませんでした。

道長は、一旦権力の座につくと、実力でその地位を維持し続けました。

彼はあえて関白にならない(摂政や関白になると中央の政治から排除されるため)ことで中央の政治の主導権を握り続けるとともに、娘を入内させることで、天皇との関係を維持し続けました。

藤原道長。

彼の人生を総じて振り返ってみると、多くの幸運と、幸運を自分のものにする実力を兼ね備えた人物だったと言えるでしょう。

※.注(人物編)

・円融天皇:第64代天皇。円融天皇と藤原詮子の間に一条天皇が生まれた。
・花山法皇:第65代天皇。兼家の策略で出家させられた。
・一条天皇:第66代天皇。円融天皇と藤原詮子の子。兼家の外孫。
藤原道隆は定子を、藤原道長は彰子を入内させ、それぞれ中宮にした。
・三条天皇:第67代天皇。冷泉天皇(第63代天皇)と藤原超子(兼家の娘。道長や詮子の姉)の子。皇太子の時の名前は居貞親王。道長は妍子を入内させ、妍子と三条天皇の間には禎子内親王が産まれた。後に禎子内親王は後朱雀天皇に入内し、後三条天皇を産むことになる。
・後一条天皇:第68代天皇。一条天皇と彰子の子。皇太子の時の名前は敦成親王。道長の外孫。
・後朱雀天皇:第69代天皇。後一条天皇の弟。皇太子の時の名前は敦良親王。後に藤原嬉子が入内し、後冷泉天皇が生まれた。
・後冷泉天皇:第70代天皇。後朱雀天皇と嬉子の子。藤原頼通は寛子(頼通の娘。道長の娘とは別)を入内させたが、皇子は産まれなかった。
・後三条天皇:第71代天皇。禎子内親王と後朱雀天皇の子。
・白河上皇:第72代天皇。院政を開始した。
・鳥羽天皇:第74代天皇。

※注(用語編)
・昇殿:内裏の清涼殿(天皇の私生活の場)の殿上間に上がることを許されること。平安時代になると政治は清涼殿で、限られた人間だけで行われるようになる。そのため昇殿を許されることは政治に参加できる資格を持つことを意味していた。
・蔵人:機密文書の保管などを行う要職。
・少納言:政治にまつわる役職。日常の小さな政務を天皇に上奏したり、天皇の詔勅を伝えたり、天皇の印や太政官(政治を行う役職)の印を管理したりする。
・左近衛少将:近衛府の次官。もともと近衛府は護衛などの役割を担っていたが、10世紀には騎射などの武芸儀礼や相撲節・競馬など武力に関わる行事などを担当するようになった。
・左京大夫:京職(都の民政を担当する役職)の長官。
・内大臣:政治に関わる役職。左大臣(実質No.1の役職)や右大臣(No.2の役職)が不在の時に政務を司った。
・内覧:関白に準じる役職。太政官が作成した文書に目を通し、天皇を補佐する。
・大宰権帥:九州の防衛と外交にあたる役職。ただし平安時代には名ばかりの役職となっており、人を左遷するときにこの役職が選ばれた。
・出雲権守:出雲国(現在の島根県の一部)の国司(地方政治を担当する役職)を補佐する役職。ただしこちらも名ばかりの役職だった。
・検非違使:平安京の警備や裁判などを担当する役職
・外戚:天皇の母方の親族。藤原氏は娘を天皇のもとに入内させ、娘と天皇との間に生まれた皇子が天皇になった際、外戚関係を利用して主導権を握った。
・入内:天皇と婚姻すること。天皇は内裏の中に殿舎(妻が生活する空間)と設けて、妻となる人を迎えた。
・皇后:天皇の正妻
・中宮:本来は皇后の別称。ただしこの時期にはこちらも天皇の正妻を意味するようになった。
・女御:天皇の后。ただし中宮よりも位は下だった。

※.参考文献

・倉本一宏 『平安貴族とは何か -三つの日記で読む実像-』(NHK出版、2023年)
・大津透 『日本の歴史<06> 道長と宮廷社会』(講談社、2009年)
・大津透 『日本史リブレット 人019 藤原道長 -摂関期の政治と文化-』(山川出版社、2022年)
・宮崎莊平『新版 紫式部日記 全訳注』(講談社、2023年)
・山中裕 『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
・木本好信・樋口健太郎 『図説 藤原氏 -鎌足から道長、戦国へと続く名門の古代・中世-』(戎光祥出版株式会社、2023年)-

『平安貴族とは何か -三つの日記で読む実像-』(倉本一宏)

『日本の歴史<06> 道長と宮廷社会』(大津透)

『日本史リブレット 人019 藤原道長 -摂関期の政治と文化-』(大津透)

『新版 紫式部日記 全訳注』(宮崎莊平)

『図説 藤原氏 -鎌足から道長、戦国へと続く名門の古代・中世-』(木本好信・樋口健太郎)

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