あなたは由良御前という女性をご存知でしょうか。
平安時代末期、源義朝の正室となり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の母となった女性です。
大河ドラマ「平清盛」では女優の田中麗奈さんが演じられていたのでご存知の方も多いかと思います。
では由良御前という女性はいったいどのような生涯を送っていたのでしょうか。
そこで今回は由良午御前の
- 生涯
- 性格
- 平清盛や常盤御前との関係性
についてご紹介いたします。
これを読めば由良御前の生涯や性格、平清盛や常盤御前との関係性について知ることができますよ。
田中麗奈さん演じる #由良御前 、最後までステキだった~~。 pic.twitter.com/hjhCbsbv
— t-kaori (@TAI_KAORI) 2012年6月24日
由良御前の生い立ち。父母兄弟や夫子供、家系図は?
「由良御前(ゆらごぜん)」とは本名ではありません。
愛知県にある熱田神宮(現在の愛知県名古屋市熱田区神宮)の伝承では由良姫と呼ばれていたため由良御前と呼ばれるようになりました。
しかし家系図には「大進局」と記されています。
本名や生年月日など、詳しいことは分かっていませんが、熱田大宮司・藤原季範の娘として現在の愛知県にあたる尾張国で誕生しました。
母親は分かっていませんが兄弟には
- 藤原範信(男子)
- 藤原範雅(男子)
- 藤原範綱(男子)
- 範智 (男子)
- 長暹(男子)
- 祐範(男子)
- 上西門院女房千秋尼(女子)
- 待賢門院女房大進局(女子)
- 源師経室(女子)
がいたとされています。
この熱田神宮とは、景行天皇43年(113年)に創建されたとされ
- 天照大神(あまてらすおおかみ)
- 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
- 日本武尊(やまとたけるのみこと)
- 宮簀媛命(みやすひめのみこと)
- 建稲種命(たけいなだねのみこと)
が祀られている非常に歴史のある神社です。
もともと父・藤原季範の母方である尾張氏が代々、大宮司職を務めていましたが永久2年(1114年)に外孫である父・藤原季範に大宮司職が譲られ、これ以降、大宮司職は父・藤原季範の子孫により受け継がれていくこととなりました。
由良御前の生涯から死因まで。源義朝の正妻になり源頼朝の母になった人物はどんな性格だった?
熱田神宮の大宮司職を務めた者の多くは
- 男子なら後白河院の北面武士になる者
- 女子なら後白河院母の待賢門院や姉・統子内親王(上西門院)に仕える女房となる者
が多かったとされ、由良御前も統子内親王(上西門院)の女房であったと推測されています。
いつ由良御前が結婚したのか分かっていませんが、源義朝(みなもと よしとも)の正室として迎え入れられ、2人の間に
- 久安3年(1147年)に源頼朝
- 仁平2年(1152年)に源希義
- 久寿元年(1154年)または久安元年(1145年)に坊門姫
が誕生しました。
源頼朝とは後に鎌倉幕府を開く人物です。
夫・源義朝の簡単な生い立ち
夫である源義朝という人物は源為義の息子です。
由良御前にとって義父にあたる源為義は朝廷の護衛を行う検非違使という職に就いていました。
また源氏のリーダーのような存在でありましたが、多くの問題行動を起こし、白河院や朝廷から信頼を失い、またこの頃になると平家が台頭してきたため、源氏にとって報われない時期が続いていたとされています。
少年期は父・源為義から離れ東国(関東地方)で育った夫・源義朝は関東で多くの豪族を味方につけ、また有力豪族との間に婚姻関係を結ぶなどしました。
こうして夫・源義朝は由良御前を正室に迎えるまでの間に、20代半ばで東国の豪族をまとめるまでとなりました。
仁平3年(1153年)には31歳で従五位下・下野守に任じられ、とうとう検非違使であった父・源為義の地位を超すこととなり、父に代わり源義朝は源氏のリーダーとなったのです。
保元の乱の勃発
そんな中、保元元年(1156年)7月、保元の乱が勃発します。
この保元の乱とは後白河天皇と崇徳上皇による家督争いで、武力闘争に発展した政変です。
天皇家だけが武力闘争を起こしたのではなく源氏や平家も巻き込まれ、朝廷や武士らは後白河天皇方、崇徳上皇方に分かれることとなりました。
夫・源義朝は平清盛と手を結び後白河天皇方に味方しましたが、父・源為義や弟の頼賢・為朝らは崇徳上皇方に味方し、夫・源義朝の家族もばらばらになったのです。
この戦いで、妻である由良御前も力になろうと、自身の実家である熱田大宮司家に兵を送ってほしいと要請し、夫・源義朝に兵を送って援護しました。
結局、この保元の乱は後白河天皇方の勝利となり、夫・源義朝の父・源為義や弟の頼賢・為朝らは捕えられ、夫・源義朝は自身の手で源為義や弟の頼賢・為朝らの首を斬ることとなりました。
その後、夫・源義朝は親殺しのレッテルを貼られ、世間から大バッシングを受けることとなります。
勝利するも親を殺し、世間から大バッシングを受けた夫・源義朝に対し、同じく後白河天皇方に就いた平清盛は出世を果たし、権力を手に入れ、平家一門は優遇されるようになりました。
このように平清盛との差に夫・源義朝は不満を抱いていたとされています。
由良御前の最期
夫・源義朝が不満を抱く中、由良御前は保元の乱から3年後の保元4年(1159年)3月1日に亡くなりました。
由良御前の性格に関する史料は残されていませんが、保元の乱の際、夫・源義朝に兵を送り援護していたことから、源義朝を支え続けた女性であったことがわかります。
由良御前の死因は残念ながら分かっていません。
由良御前(大進局)は平清盛や常盤御前とどんな関係にあった?
平清盛との関係性
由良御前は源義朝の正室となった女性でした。
夫・源義朝は保元の乱の際、平清盛とともに後白河天皇方に味方し、勝利に導きました。
しかし崇徳上皇方に味方した
- 父・源為義
- 弟の頼賢・為朝
らは、処刑されることとなり、夫・源義朝が自らの手で父・源為義や弟の頼賢・為朝の首を斬るといった非常に悲しい出来事がありました。
そのため、周囲の人間から源義朝は親殺しと非難されるようになります。
一方、ともに戦った平清盛は順調に出世コースを歩み、権力を握ると、平家一門は全盛期を迎えることとなります。
このような格差が生じたため源義朝は不満を抱くこととなり、由良御前が亡くなった9か月後の平治元年(1160年)12月9日、藤原信頼と手を結び平氏打倒を掲げ平治の乱を起こします。
しかし、平清盛率いる平家軍に襲撃を受け、源義朝は平治2年(1160年)1月3日、38歳で亡くなりました。
由良御前と平清盛との間に関わりがあったかどうかは分かっていません。
しかし由良御前にとって夫・源義朝を追い込んだ平清盛は憎い存在であったのではないでしょうか。
ですが、夫・源義朝にとって平清盛とは戦友でもあり、ライバルとなった存在でした。
常盤御前との関係性
常盤御前とは源義朝の側室となった女性です。
もともと近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女でしたが、非常に美しい女性であったため源義朝に気に入られ側室となりました。
いつ側室に迎えられたかは分かっていませんが、源義朝との間に
- 仁平3年(1153年)に阿野全成(今若)
- 久寿2年(1155年)に義円(乙若)
- 平治元年(1159年)に源義経(牛若)
が誕生しています。
由良御前と常盤御前は、ともに源義朝の妻となった女性ということとなります。
まとめ 女優田中麗奈が演じた美人由良御前の作品は?ほかにドラマや映画や小説はある?
由良御前の生涯や性格、死因や平清盛や常盤御前との関係性についてご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 熱田神宮に仕えていた藤原季範の娘
- 源義朝の正室となり、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝を授かる
- 保元の乱で兵を集め源義朝を援護
- 平治の乱の9か月前に亡くなる
- 常盤御前は由良御前と同じく源義朝の妻となった女性
由良御前は源義朝の正室となり、後に鎌倉幕府を開く源頼朝の母となった女性でした。
しかし残念ながら由良御前の本名や生年月日、母親や死因など詳しいことは分かっていません。
そんな由良御前が登場する有名な大河ドラマは「平清盛」です。
この作品では
- 由良御前を女優の田中麗奈さん
- 源義朝を俳優の玉木宏さん
- 平清盛を俳優の松山ケンイチさん
- 常盤御前を女優の武井咲さん
が演じられています。
源義朝の側室であった常盤御前は非常に美しい女性であったとされていますが、由良御前がに美人であったかどうかは分かっていません。
ですが、田中麗奈さん演じられる由良御前も、武井咲さん演じられる常盤御前もどちらも美しい女性ですね。
由良御前が主人公の小説や映画は残念ながらありませんでした。
これを機に由良御前に興味を持った方は大河ドラマ「平清盛」を見てみてください。
以上「由良御前の性格や生涯、死因を分かりやすく解説!源義朝の妻で源頼朝の母親、田中麗奈が演じた大進局と平清盛・常盤御前との関係性」についてのご紹介でした。
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