家康の正室・築山殿(瀬名)と嫡男・松平信康はなぜ暗殺されたのか? その理由を最近の研究から改めて考えてみる

昨年度の大河ドラマ「どうする家康」は徳川家康がいくつもの転機を迎えながらも、天下人へとのし上がっていく様子が描かれました。

家康にとっての転機の一つに「築山殿事件(松平信康事件)」があります。

築山殿事件とは、家康の正妻だった築山殿(「どうする家康」では瀬名という名前でした)と嫡男の松平信康が武田勝頼に内通していたことなどを理由に処刑された事件です。

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1.事件の背景

まずはこの事件の背景について振り返ってみたいと思います。

①築山殿と松平信康について

築山殿は、徳川家康の最初の正妻です。

「築山」という名前の由来は岡崎で「築山」という場所に居住していたことに由来します。


(築山殿:出典Wikipedia)

築山殿の生年は天文八~九(1539~1540)年説や天文十一(1542)年説など諸説有ります。

築山殿の父は関口氏純で、今川家御一家衆(同じ一族に属する人々)の一人でした。

弘治二(1556)年頃、松平元康(のちの徳川家康)と結婚します。

その後、二人の間には信康と亀姫が誕生します(信康は1559年、亀姫は1560年に誕生したとする説が有力です)。

永禄三(1560)年、元康は岡崎へ入部します。桶狭間の戦いで今川義元が敗死したため、家康に織田方との抗争を任せようとしたと考えられます。

これにより、築山殿は亀姫とともに岡崎へ移ります。

なお、「どうする家康」では元康が信長についたために駿府にいた築山殿らが人質となり、のちに人質交換によって岡崎へ来たように描かれていました。

しかし、戦国から江戸初期の国内政治などを記した『当代記』によると、元康が岡崎に帰還したことに続けて築山殿と亀姫が岡崎に移ったことが記されています。

ただしこのとき、信康は駿府に残されました。

その後、元康は今川方から離反します。

これにより築山殿は今川および実家と断絶状態になります。

なお、父の関口氏純は今川氏真によって切腹を命じられたとかつては考えられていましたが、永禄九(1566)年までは生存したことが分かっています。

ただし、所領の一部を氏真に返還しているため、苦しい立場に置かれたのは確かです。

駿府にいた信康が岡崎に来たのはそれから2年後のことです。

永禄五(1562)年、元康は上之郷城(現在の現在の愛知県蒲郡市にあった城)を攻略します。

この際、城主鵜殿長照(今川義元の家臣)の子息二人を捕虜とし、人質交換の交渉が行われます。この結果、駿府にいた信康が岡崎へとやってきました。

※松平元康から徳川家康への改名について

徳川家康は今川家に属していた頃は「松平元康」と名乗っていました。

しかし、今川家から離反した後、永禄六(1563)年に「家康」と改名しました。

その後、永禄九(1566)年、三河一国(現在の愛知県の一部)を支配下におさめた家康は、朝廷に「徳川」名字への改称を要請します。

三河を支配する「戦国大名」であることを今川氏など敵対的な周辺の大名たちに示すためと思われます。

朝廷に認められ、「徳川家康」と名乗るようになりました。

この記事ではこの後「徳川家康」で表記を統一します。

②家康が浜松に移り、信康が岡崎城主になる

家康は元亀元(1570)年、信長の要請に応え本拠を浜松に移します。しかし、築山殿と信康、亀姫は岡崎に残りました。

その後、岡崎に残った信康は元亀二(1571)年、13才で元服し、岡崎城主となりました。

2.事件の要因を探る

さて、本題の築山殿事件ですが、五徳(織田信長の娘。信康に嫁いでいました)から送られた書状を見た信長が、酒井忠次(家康の有力家臣。徳川四天王の一人)を呼び寄せ、尋問したところ、忠次は弁明することができなかったため、信長は家康に築山殿と信康の処刑を命じたと、以前は考えられていました。

しかし、最近の研究では、家康の判断で築山殿と信康を処刑させたと言われています。

今回は、家康が築山殿と信康を処刑することを決定づけたと思われる要因を7つ取り上げていきます。

[要因その1] 信康と五徳の不和

そもそも築山殿事件の発端は五徳が信長に対して信康の不行状を記した書状を送ったことでした。

この書状の中には

①鷹狩りで獲物がなかった腹いせに帰りに出会った僧侶を馬に縛って引きずり殺した

②踊りが下手だ、といって町の踊り子を射殺した

③その他悪行

④家康から不信に思われていること

といった信康の行動面に関するものや、

⑤築山殿の不行儀

⑥武田家から唐人医を呼び寄せて謀反を計画した

など築山殿と武田氏の内通に関するものもありました。

けれども、信康は五徳が書状に書いたとおりの乱暴者だったのか実際のところはわかりません。

とはいえ、五徳と信康が不和であったのは確かです。

築山殿事件や後述する大岡弥四郎事件のことを記した『岡崎東泉記』では、築山殿が信康夫妻のもとを訪れたときのこと、五徳が築山殿に対して嫁としての礼儀を欠いた態度をとったため、信康がとがめた、という話が載っています。

五徳としてはこの仕返しに信長に書状を送ったのかもしれません。

けれども、五徳が送った書状には築山殿が武田方に密通しているという内容があったため、事態は大きくなってしまいました。

[要因その2] 築山殿の立場の変化

最初に触れたとおり、築山殿は今川家御一家衆、関口家の人間です。

そのため、家康と結婚した当初は築山殿のほうが家康よりも圧倒的に立場が上でした。

ところが、家康が今川方から離反し、織田方と手を結ぶと状況が一変します。

永禄三(1560)年に築山殿は家康の本拠・岡崎に移住したものの、城下の築山屋敷に居住し、家康とは別居状態になりました。

ただし別居していたからといって家康と築山殿が不仲だったとは言い切れません。

なぜなら、徳川家の奥向き(当主である家康の生活空間)のことは築山殿が管轄をしていたからです。

そのため、家康とはある種ビジネスライクな関係だったと言えるでしょう。

しかし、家康が浜松へ本拠を移し、信康が岡崎城主になると、築山殿は家康よりも信康のことを第一に考えるようになります。

[要因その3]  大岡弥四郎事件が発生

その矢先に起きたのが、大岡弥四郎事件です。

この事件は天正三(1575)年、岡崎町奉行の大岡弥四郎と松平新右衛門が中心となって武田軍を岡崎城に引き入れ、三河一国を武田領にしようと画策した事件です。

この企みは仲間の一人だった山田八蔵の裏切りや物見(監視役)を任されていた塩商人からの情報によって未然に防がれます。

しかし、この事件には家老の石川春重や、同じく家老の鳥居九兵衛の家臣だった小谷九郎左衛門、倉地平左衛門尉、松平一族の松平清蔵親宅など信康の家臣団が多数関与していました。

この時、築山殿も武田方に内通していたと考えられています。

当時、岡崎領には甲斐の口寄せ巫女(神仏の意思を語る女性)が大勢来ていました。

武田勝頼は口寄せ巫女を利用して築山殿の懐柔を図ります。

巫女は築山殿の下女や上﨟(女性家老)に接触し、ついには築山殿と面会するまでになります。

勝頼は巫女に対し「五徳を勝頼の味方に引き込めれば、築山殿を勝頼の妻にし、信康を勝頼の嫡男にして天下を譲らせる」と託宣をさせ、築山殿を味方に引き入れようとしました。

この頃、武田勝頼は三河へ侵攻しており、徳川方は劣勢に立たされていました。

領地の三分の一を失っていたほか、要衝の地だった高天神城(現在の静岡県掛川市にあった城)を勝頼に奪われていました。

武田氏に屈服せざるを得ないと考える者が岡崎の中にいてもおかしくはありませんでした。

また、この時代は軍事的に劣勢な戦国大名家や国衆家において、嫡男や有力一族が敵方大名とつながり、当主を追放、あるいは滅亡させることで家の存続を図ろうとするのはよくある話でした。

だからこそ築山殿は徳川家の滅亡を防ぐために武田方とつながったと考えられます。

結局、この事件は未然に防がれたからよかったものの、信康の家臣団が多数関与していたことは家康にとって衝撃的でした。

全員を処罰してしまえば信康の家臣団が崩壊し、ひいては武田氏との抗争に支障をきたす恐れがありました。

だからこそ、家康は築山殿を不問に付し、大岡弥四郎ら首謀者だけを処罰することで、事態の収拾を図ろうとしました。

けれども、この事件は家康と築山殿の関係を悪化させたのみならず、家康と信康の関係をも変えることになりました。

[要因その4] 家康と信康の対立

松平家忠の日記『家忠日記』には家康と築山殿・信康との注目すべき動きが記されています。

なお、松平家忠とは松平一族で、三河深溝(現在の愛知県額田郡幸田町)に本領を持つ有力家臣です。

当時は岡崎城下に屋敷を持って妻子と居住し、岡崎城に出仕していました。

『家忠日記』によると、天正六(1578)年2月に築山殿が家忠に書状を出したことや、6月には信康が家忠のもとを訪れたことが記されています。

築山殿や信康の行動は、家忠を味方に引き入れるための何らかの工作であったと考えられます。

これに対し、家康は築山殿・信康を牽制する動きをとります。

元々家康は三河に所領を持つ有力家臣(以下、三河衆と表記します)に対し、岡崎城に出仕させるとともに、岡崎城下に屋敷を構えさせ、妻子との居住を命じていました。

けれども家康は同年九月、三河衆に対し、岡崎城下屋敷での居住を禁止し、本領での居住を命じます。

これに対し三河衆はすぐに実行しなかったため、家康は酒井忠次を通じ改めて有力家臣に対して命令を通達しています。

さらに家康自ら岡崎に出向くこともありました。

今までは三河衆を岡崎城に出仕させ、城下の屋敷に住まわせることで、徳川による有力家臣の統制を行っていました。

ただし、統制を行っているのは浜松にいる家康であり、信康には領国統治に関わる権限は与えられていませんでした。

しかし、家臣の中には信康を主君と認識しかねないことや、信康と築山殿が有力家臣に接触を図っていることは家康にとって望ましい状況ではありません。

そこで、家康は有力家臣を岡崎城下から引き離すことで、有力家臣と信康の関係を絶とうとしました。

[要因その5] 武田氏との抗争状況

家康がこのような行動をとったのは、武田氏との抗争が関係しています。

この時期、家康は武田氏と一進一退の攻防を繰り広げていました。

岡崎は武田氏との抗争が激しい場所からは離れていたものの、戦費などの負担は強いられていました。

そのため、武田氏との戦争継続を考える家康および家老たちと、武田氏との戦争継続を見直そうとする信康および三河衆との間で路線対立が起きていたことが考えられます。

折しも五徳の書状によって築山殿が武田氏と内通していたことや大岡弥四郎事件に三河衆も多数関与していたことが信長に知れ渡っていました。

家康は築山殿らを処罰しなければ自身の立場に支障が出ることや、家臣たちを「武田氏との戦争継続」という方向でまとめようと考えたことから、築山殿と信康の処罰を考えるようになったのではないかと考えられます。

[要因その6] 秀忠の存在

そうした中、天正七(1579)年、徳川秀忠が誕生します。

母はお愛の方(西郷の局とも)で、もとは徳川家の奥向きの女中として出仕していた人物でした。

実は「家康の子」と認められるのは大変なことでした。

なぜなら奥向きを管轄する築山殿には家康に仕える女中を差配する権限のほか、別の妻や妾、彼女らと家康の間に生まれた子を承認する権限があったからでした。

というのも、家康には天正元(1573)年、お万(長勝院殿とも)との間に秀康をもうけます。

しかし、江戸初期に成立し、秀康の誕生の経緯を記した『中村家御由緒書』という史料によれば、築山殿がお万の妊娠を承認していなかったため、お万は浜松城から退去させられたことが記されています。

浜松城から退去したお万は家康の手引きで遠江敷智郡宇布見村(現在の浜松市)の有力住民中村源左衛門の屋敷に預けられ、翌天正二(1574)年、秀康を生みました。

当然、秀康は「家康の子」として認められませんでした。

秀康が家康の子として認められるのは築山殿死後のことです。

けれども秀忠の誕生に関しては築山殿が何か干渉したという記述はありません。

すでに家康と築山殿の関係が悪化していたこともあり、家康は築山殿の許可を取ることなく秀忠を認知したものと推測されます。

これによって信康に代わる後継者を得たと思った家康は信長に対して信康の廃嫡を打診します。

当時、家康は信長に従属する立場であったため、廃嫡にも信長の許可が必要だったことや、信康の廃嫡は五徳との離縁、すなわち織田家と徳川家の婚姻関係の解消を意味していたからです。

そして信長から信康廃嫡の許可と、婚姻関係は解消されても信長との関係は続くとの確証を得た家康は信康の排除を決定します。

決定打になったのは北条氏との同盟でした。

[要因その7] 北条氏との関係

この時期、武田氏は同盟関係にあった北条氏との関係を悪化させていました。

その原因は越後で起きた御館の乱にあります。

この出来事は、上杉謙信の死後、後継者の地位を巡って上杉景勝(上田長尾家当主)と上杉景虎(小田原城主北条氏康の子)が争った出来事です。

このとき、北条氏政(景虎の兄)の要請を受けて越後に出兵していた武田勝頼は、上杉景勝と和睦を結び、越後から撤収してしまいます。

景虎と景勝の和睦を結ばせたもののすぐに決裂してしまったことや、家康が高天神城奪取へ動き出していることが原因でした。

これにより北条氏と武田氏の間では、同盟解消を踏まえた対応がなされるようになります。

この結果、天正七(1579)年七月、北条氏と武田氏は同盟を解消します。

こうした中、北条氏は同盟の結成を求め家康と接触を図ります。

北条氏と家康が手を組めば武田氏を挟み撃ちにできるため、家康がこの話に乗らない手はありませんでした。

同年九月には北条氏と家康の間で同盟が成立しました。

こうして、北条氏との同盟成立の見通しが立ったことで、ついに家康は築山殿と信康の処罰を決意します。

3.要因総括

要因を総括して、この事件の原因をまとめてみたいと思います。

①大岡弥四郎事件が信長に知れ渡り、処罰せざるを得ない状況になった

②武田氏との抗争を続けるために不安要素を取り除く必要があった

以上のことから、家康は築山殿と信康の処罰に踏み切ったと考えられます。

天正七(1579)年八月、家康は「逆心(謀反の疑い)」を理由に信康を岡崎城から追放し、三河西端の大浜に身柄を移します。

この間、家康は榊原康政(家康の有力家臣。徳川四天王の一人)らを岡崎城に在駐させるともに、三河衆に対し信康に内通しないことを約束した誓約書を提出させます。

こうして三河衆の統制を確固なものにした家康は浜松に帰還します。

その後、堀江城(現在の静岡県浜松市中央区にあった城)に移された信康はさらに二俣城(現在の静岡県浜松市天竜区にあった城)に移され、九月十五日に自害します(なお、殺害されたとする説もある)。

享年は二十一歳でした。

信康は清瀧寺に葬られました。

一方の築山殿は信康が岡崎を追放された頃、築山屋敷で幽閉されます。

そして八月二十九日、浜松へ護送される途中、佐鳴湖畔富塚村で自害しました(こちらも殺害されたとする説もある)。

享年は三十八歳とも四十歳とも言われています。

築山殿は大樹寺に葬られた後、西北院に移されました。

4.考察:築山殿事件が起こらない可能性はあったのか

以上、築山殿事件についてまとめてきました。

最期に、築山殿事件は起こらない可能性はあり得たのかについて、考察してみます。

結論から言えば、そのような可能性は低く、すでに信康と築山殿の命運は尽きていたと考えます。

その理由は三つです。

[理由1] 信長に大岡弥四郎事件の顛末を知られているから

一つ目の理由は大岡弥四郎事件のことや、築山殿を不問に付したことを信長に知られてしまったからです。

築山殿らを処罰しなかったことで、家康が信長から「監督不行き届き」を理由に処罰される可能性がありました。

また、浅井長政といい、松永久秀といい、信長に反旗を翻した者はいずれも滅ぼされています。

自身への「裏切り」と思えるような行動を信長が許すはずはありません。

築山殿らを処罰しなければかえって徳川家が滅びる危険性もありました。

[理由2] 信康・築山殿が反家康勢力の中心になりかねないから

二つ目の理由は信康と築山殿が反家康勢力の中心となる危険性があったからです。

実際、家康は三河衆に対し岡崎城下の居住禁止および本領への居住を命じていました。

これは明らかに信康に与する家臣が出ることを警戒しての行動です。

自身に不満を持つ勢力が信康の下に結集し領国統治に支障が出るならば、いっそのこと不安の芽は摘んでおいた方が良いと家康が考えてもおかしくないと思われます。

[理由3]  信康以外の後継者がいるから

三つ目の理由は信康以外の後継者がいるからです。

このとき、お愛の方が秀忠を生んでいましたし、翌年にはもう一人男子が生まれています。

信康を後継者にこだわる必要はなくなっていました。

むしろ信康を生かしておく方が将来の禍根になると家康は考えたかもしれません。

いずれにしても、家康は築山殿と信康を処罰せざるをえなかったと考えられます。

築山殿事件は、家康にとって「絶対に避けては通れない出来事」であり、それに対する家康の決断が、その後の徳川家の命運を決定づけた大事件だったことは間違いありません。

※.参考文献

・小和田哲男 『徳川家康 -知られざる実像-』(静岡新聞社、2022年)

・黒田基樹 『家康の正妻築山殿 -悲劇の生涯をたどる-』(平凡社、2022年)

・平山優 『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎、2023年)

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『徳川家康と武田勝頼』(幻冬舎、2023年)平山優

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