「紫式部とは?『源氏物語』の作者と称され、平安時代を生きた女性の人生を探る?」


(出典:Wikipedia)

今年の大河ドラマ「光る君へ」は紫式部が主人公です。

紫式部といえば『源氏物語』の作者であること以外は謎に包まれた人物です。

そこで、今回は紫式部の人生と、彼女にゆかりのある人物、そして『源氏物語』が後世に与えた影響を紹介していきます。

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紫式部の生涯

紫式部は970年~978年の間に誕生したと考えられています。

970年誕生説、973年誕生説など諸説あります。

なお、「紫式部」というのは通称であって本名は不明です。


(紫式部_石像(宇治))

父は藤原為時です。式部丞、越前守、越後守を歴任したほか、『本朝麗藻』という漢詩集に13首収録されているなど漢詩文に優れた文人でもありました。

また、母は藤原為信の娘です。ただし、彼女は紫式部が幼いうちに亡くなっています。

さらに、きょうだいには惟規がいました。

なお、大河ドラマ「光る君へ」では紫式部の弟となっていますが、紫式部の兄とする説もあります。

『紫式部日記』には幼少期、惟規が漢詩を習っていたものの、そばで聞いていた紫式部の方が先に覚えてしまい、為時が「紫式部が男だったら良かったのに」と嘆いたというエピソードが載っています。

紫式部は996年に為時が越前守に任命されたのにともない、越前国(現在の福井県)へ赴きます。

その後、998年~999年頃、藤原宣孝との結婚を機に京に戻りました。

宣孝との間には娘の賢子が生まれます。

賢子も大弐三位として後に中宮彰子に仕えることになります。

ところが、1001年に宣孝は亡くなってしまいます。

夫に先立たれ、先行きの見えない状況の中で彼女が書き始めたものが、『源氏物語』でした。

この『源氏物語』の評判が藤原道長の耳にとまり、1005年(1006年説もあります)から藤原道長の娘、彰子に仕えます。

『紫式部日記』には、敦成親王(彰子と一条天皇の第一皇子)出生前後の出来事が記録されています。

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『眠れないほどおもしろい紫式部日記』

晩年の紫式部については謎に包まれています。

紫式部は1019年までは生存していたと考えられていますが、その後の消息は不明なため、いつ亡くなったかも不明のままです。

なお、紫式部の墓は京都市北区紫野西御所田町(堀川北小路下ル西側)の、小野篁の墓のそばにあります。

また、『源氏物語』執筆の場であり、紫式部の邸宅址である廬山寺には顕彰碑が建てられています。

永遠のライバル?清少納言と紫式部はお互いをどう意識していたか

紫式部の話をする上でよく引き合いに出されるのが清少納言です。

清少納言は『枕草子』の作者で、藤原道隆の娘の定子に仕えました。


(出典:小倉百人一首)


(出典:Wikipedia)

この二人はほぼ同時代を生きていたこともあり、ライバル関係に見られることが多いです。

その理由は彼女たちが仕えた主人と関係しているかもしれません。

なぜなら、清少納言が仕えた定子は藤原道隆の娘、紫式部が仕えた彰子は道長の娘で、道隆と道長は一族とはいえライバル関係にあったからです。

それでは、実際のところ、彼女たちはお互いをどのように意識していたのでしょうか。

実は清少納言は紫式部のことをどのように思っていたかは不明です。

『枕草子』の中には紫式部に関する記述は見当たらないからです。

しかし、清少納言は紫式部の夫、宣孝についてやや批判めいたことを記しています。

清少納言は『枕草子』のなかで、金峰山詣のときの宣孝の行動をこう記しています。

『よき男の若きが、御嶽精進したる。(中略)

なほ、いみじき人ときこゆれど、こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ。

衛門佐宣孝といひたる人は、

「あぢきなきことなり。ただ浄き衣を着て詣でむに、なでふことかあらむ。かならずよも、『あやしうて詣でよ』と御嶽さらにのたまはじ」

とて、三月晦に、紫のいと濃き指貫・白き襖・山吹のいみじうおどろおろどしきなど着て、隆光が主殿助なるには、青色の襖・紅の衣・摺りもどろかしたる水干という袴を着せて、うちつづき詣でたりけるを、還る人も、いま詣づるも、めづらしうあやしきことに、

「すべて昔よりこの山に、かかる姿の人見えざりつ」と、あさましがりを、四月朔に帰りて、六月十日のほどに、筑前守の辞せしに、なりたりしこそ、「げに、いひけるにたがはずも」と、きこえしか』

【身分高い男性で若いのが、御嶽精進している様子は、しみじみと感動させられる。(中略)どんなに偉い人だといっても、徹底的に粗末な服装でお参りすべきだ。

衛門佐だった宣孝という人は、「面白くないことだ。世間並みに参詣したって、たいしたご利益はあるまい。

まさか必ず『粗末な身なりで参詣せよ』と権現様も決しておっしゃるまい」といって三月の末に紫の指貫・白い狩衣・山吹色のたいそう派手な袿を着て、主殿助の隆光には青色の狩衣・紅色の袿、手の込んだ摺り模様の水干を着せて、供揃えも長々と参詣したらしいので、吉野から京へ還る人も、これから参詣する人も、珍しく奇妙なことであるとして、「一体全体昔からこの山でこんな身なりの人は見かけたことがない」とあきれかえったものだが、四月の初めに下山して、六月十日のほどに筑前守が辞職した後釜に任ぜられたものだからたまらない。

「なるほど、言っていたことが当たった」と評判になったことだ】

通常、金峰山詣の前に御嶽精進といって粗末な格好で一定のあいだ精進潔斎をしてからお参りするのですが、清少納言は宣孝が大層派手な格好で参詣したことを批判しています。

金峰山詣から2ヶ月後に宣孝が筑前守の後任になったことも清少納言は不満でした。

NHK大河ドラマ「光る君へ」より

一方、紫式部は清少納言のことをかなり意識していたようです。

仕えた主人の関係のほかにも、『枕草子』の中で自分の夫を貶されたことや清少納言の人となりを受け入れられなかったことも関係しているかもしれません。

『紫式部日記』の中で紫式部は清少納言を次のように言っています。

『清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

かく、人に異ならんと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかよくはべらん』

【清少納言はまことに得意顔もはなはだしい人です。あれほど賢ぶって、漢字を書き散らしていますが、その程度もよく見ると、まだまだ不足な点がたくさんあります。

このように、人に格別すぐれようとばかり思っている人は、やがてきっと見劣りがし、将来悪くなってばかりいくものですから、いつも思わせぶりに風流ぶっている人は、ひどく不風流でつまらない時でも、しみじみと感動しているように振舞い、ちょっとした情趣も見逃すまいとしているうちに、自然と、感心しない軽薄な態度にもなるに違いありません。

そのように実意のない態度が身についてしまった人の行く末が、どうして良いはずがありましょう】

紫式部は清少納言を痛烈に批判していることがわかりますね。

なお、大河ドラマ「光る君へ」では紫式部と清少納言は漢詩の会や打鞠の観戦で対面を果たしていますが、実際には二人に面識はなかったと考えられています。

なぜなら、紫式部が彰子に仕え始めた頃にはすでに清少納言は宮仕えを辞めて零落していたからです。

紫式部は面識がない清少納言のことをここまで散々にこき下ろしているので、二人が本当に会っていたら大変なことになっていたのかもしれません。

波瀾万丈 紫式部の宮仕え生活

紫式部は藤原道長や為時のすすめもあって彰子に仕えますが、宮仕えの生活は気苦労の連続だったようです。

そもそも、当時は何か特別な才能を持っている女性は決して褒められる対象ではありませんでした。

そのため、『源氏物語』の作者という鳴り物入りの紫式部はすでに要注意人物扱いでした。

さらに、紫式部は一条天皇から学識を褒められたことで、紫式部を妬んだ女房によって「日本紀の御局」と陰口をたたかれてしまいます。

そんな彼女は「『一』という字すら書けない」と無知なふりをすることで、どうにか宮中になじもうとしていました。

ただし、そんな涙ぐましい努力をしている彼女にとって宮仕えはつらいものでした。

一条天皇が土御門第(道長の邸宅)へ行幸しようとしたときのこと、土御門第では天皇を迎えるための入念な準備が進められます。

しかし、紫式部は立派に手入れされた庭を見ても、物思いにとらわれて、気が重く、苦しいと心境を吐露しています。

果ては、池の水鳥を見ても、本当は水面下で足を必死に動かして苦しいのだとさらに落ち込む始末でした。

また、宮仕えしてから3年たった年の暮れのこと、里下りから久しぶりに参内した紫式部は初めて出仕したときのことを思い出します。

しかし、懐かしい日々を思い出すわけでもなく、宮仕えにすっかりなれてしまった我が身を疎ましく思い、さらに落ち込んでしまいます。

夜になって女房達が女房のもとを訪れる男性の靴音を聞いてときめいている中でも、紫式部だけは「今年も暮れて、私も一つ年をとっていく…」と寒々とした気持ちになっていました。

けれども、その一方で紫式部は小少将の君という同僚がおり、宮仕えのつらさを語り合える相手がいました。

また、他の同僚と一緒になってドッキリを仕掛けています。

ターゲットの左京の馬という年配の女性に対し、彼女の主のニセの手紙とプレゼント(プレゼントの中身は蓬莱山の絵が描かれた扇と反り返った櫛で、どちらも年をとった左京の馬を揶揄するものでした)を贈り、左京の馬の反応を見て楽しんでいました。

このように、紫式部は宮仕えになじんでいる一面もありました。

紫式部の同僚たち

「彰子に仕えた女房」というと真っ先に思い浮かぶのは紫式部です。

けれども、他にも才能あふれた女性達が仕えていました。

というのも、平安時代の女性には、

①美しく長い黒髪を持っていること。

②教養。

③和歌の上手さ                      が求められていたからです。

そこで、藤原氏は紫式部をはじめ、多くのインテリ女性達を集め、自分の娘に教養を身につけさせようとしました。

ここでは、紫式部の同僚を3人紹介します。

和泉式部


(出典:小倉百人一首)

和泉式部『和泉式部日記』の作者です。

中古三十六歌仙の一人で、女流歌人の中で最も歌が多い女性と言われています。

なお、彼女には小式部内侍という娘がいて、小式部内侍は新三十六歌仙の一人に数えられています。

けれども、和泉式部はなんといっても「恋多き女性」として有名です。

為尊親王(冷泉天皇の第三皇子)や敦道親王(冷泉天皇の第四皇子)との恋愛関係は身分違いの恋ということもあって世間を大いに騒がせました。

ちなみに、敦道親王との恋の思い出を綴った作品が『和泉式部日記』です。

なお、紫式部は和泉式部について、『紫式部日記』のなかで以下のように評しています。

『和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど和泉は、けしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。

歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。

それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらんは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず』

【和泉式部という人は、実に趣深い手紙をやりとりしたものです。

しかし、和泉式部には感心しない面があるものの、気軽に手紙をすらすらと書いた時に、その筋の才能を発揮する人で、ちょっとした表現にも色つやが見えるようです。

和歌は、とても趣があります。古歌の知識や詠作の理論などからすると、本格的な歌の詠みぶりとは言えないでしょうが、口にまかせて詠んだ歌などに、必ず魅力ある一点が、目にとまるものとして詠み込まれています。

それでありながら、他人の詠んだ歌などを、非難したり批評したりするところから見ると、さあそれほどに分かっておりますまい。

口をついて自然に詠み出されるのであろうと、思われるような詠風なのです。こちらが恥ずかしさを感じるほどのすぐれた歌人とは思われません】

紫式部は和泉式部に対し、倫理的に感心しない面があると彼女の恋愛遍歴に批評を加えるものの、一方で和歌の才能を認めています。

ただし、自分ほどではないとちゃっかりマウントをとっていました。

赤染衛門


(出典:小倉百人一首)

赤染衛門『栄花物語』の作者と推定されています。

和泉式部と同様、中古三十六歌仙の一人と言われています。

もとは源倫子(藤原道長の正妻。紫式部とはまたいとこの関係です)に仕えていましたが、のちに彰子にも仕えました。

なお、紫式部は赤染衛門について、『紫式部日記』の中で次のように評しています。

『丹波の守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞ言いはべる。

ことにやんごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ』

【丹波の守の北の方(=赤染衛門のこと)を、中宮や殿の御所などでは、匡衡衛門と言っています。

歌が格別にすぐれているというほどではないのですが、実に歌に風格があって、歌人だからといって、いかなる場合でもことあるごとに歌を詠み散らすようなことはしないが、世間に知られている彼女の歌はすべて、ちょっとした機会に詠んだ歌でも、それこそこちらが恥ずかしくなるような立派な詠みぶりなのです】

紫式部は赤染衛門に対しては歌も人間性も一目置いていたようです。

伊勢大輔


(出典:画像は小倉百人一首)

伊勢大輔伊勢の祭主、中臣輔親の娘です。和泉式部や紫式部とも親交がありました。

ちなみに、紫式部は奈良の興福寺から献上された八重桜を受け取る、という大役を伊勢大輔に譲っています。

なお、八重桜を受け取った伊勢大輔が藤原道長に要望されて詠んだ歌が「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」という歌です。

また、紫式部は彰子の病気治癒を祈願して清水寺に参詣した際に、伊勢大輔と歌のやりとりをしていました。

このように彰子の周りには、女流文学を代表するような才能あふれる女性が数多くいました。

『源氏物語』が後世に与えた影響

実は、『源氏物語』原本は現存していません。

なぜなら、『源氏物語』の製本作業の際、原稿はバラバラにされて清書を依頼した能書家のもとへ送られたからです。

そのため、原稿はもう紫式部の元には残っていません。

しかし、『源氏物語』は何人もの人によって書き写され、世の中に広まっていきます。

菅原孝標の女は『更級日記』の中で、叔母にあたる人から『源氏物語』をもらった、という話を載せています。

『源氏物語』を書き写した一人に、鎌倉時代の歌人で、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の撰者である藤原定家がいます。

定家の写本が今のところ現存する中で最も古い『源氏物語』の写本であると言われています。

なお、今日私たちが『源氏物語』のあらすじを知ることができるのは、室町時代の作られた写本のなかに『源氏物語』のほぼすべてが揃っている写本があるからです。

このように『源氏物語』が書き写され、流布したおかげで、『源氏物語』は後世の人々にも愛読されることになります。

あの上杉謙信や織田信長も『源氏物語』の愛読者であったと言われています。

やがて、『源氏物語』は古典の研究対象にもなりました。

江戸時代の国学者、本居宣長は『玉の小櫛』のなかで『源氏物語』の本質を「もののあはれ」という言葉で表現しています。

その後、現代になると『源氏物語』は漫画や映画の題材となったほか、林真理子さんや瀬戸内寂聴さん、いしいしんじさんといった作家たちによって、小説の題材にもなりました。

こうして紫式部の書いた『源氏物語』は千年の時を超え、今も読み継がれています。

※.参考文献

・宮崎莊平『新版 紫式部日記 全訳注』(講談社、2023年)
・萩谷朴校注『新潮日本古典集成 枕草子 上』(新潮社、2017年)
・『日本の古典名著』(自由国民社2001年)
・鈴木日出男 山口慎一 依田泰共著『原色 小倉百人一首』(文栄堂、2002年)
・倉本一宏 『平安貴族とは何か -三つの日記で読む実像-』(NHK出版、2023年)
・本郷和人 『東大教授が教えるやばい日本史』(ダイヤモンド社、2018年)
・今井源衛 『人物叢書 新装版 紫式部』(吉川弘文館、1985年)

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『眠れないほどおもしろい紫式部日記』

『新版 紫式部日記 全訳注 (講談社学術文庫) 宮崎 莊平 (翻訳)』

『紫式部 (人物叢書 新装版) 単行本 今井 源衛 (著)』

『枕草子 新潮日本古典集成 上下巻セット (単行本) 萩谷朴 著』

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