「平安下級貴族の星 ~紫式部の父『藤原為時』~ 子供たちより長生きしたその波乱万丈な人生とは」 

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はじめに

 『源氏物語』の作者、紫式部の父、藤原為時。

彼は下級貴族でありながら文人(文章を重んじ、詩歌などに優れた人物のこと)として優れた漢詩の才能を生かし、大国である越前守に任じられました。

 波瀾万丈な為時の人生を見ていきます。

1.藤原為時の半生~越前守任用まで~

1)出自

 藤原為時は947年頃、藤原雅正の三男として誕生します(正確な誕生年は不明)。

実は為時は藤原兼家や道長ら摂関家と同じ、藤原北家(藤原不比等の次男房前を祖先とする一族)の人間です。

しかし、摂関家の祖先が藤原良房(房前の子孫で、人臣で初めて摂政になった人物)に対して、為時の祖先は良門(良房の弟)でした。

そのため、同じ藤原一族でありながら、為時の一族は摂関家と比べると出世において大きく水を開けられていました。

 為時は安和元(968)年、播磨権少掾(国司の定員外の役職。書記や雑務を担当した)に任じられます。

これが初めて為時の名前が歴史に登場した出来事です。

ちょうどこの頃に為時は藤原為信の娘と結婚します。

天禄元(970)年頃に紫式部が、天禄三(973)年頃に惟規が誕生しました。

2)為時の転機

 こうした中、為時に転機が訪れます。

貞元二(977)年三月、為時は東宮(後の花山天皇)の御読書始の儀(天皇や皇族男子、親王などが初めて漢籍を読む儀式)で副侍読(天皇や東宮に仕え学問を教授する。いわば教育係)に選ばれます。

 やがて永観二(984)年、東宮が花山天皇として即位すると、為時は式部丞(朝廷の人事や儀礼・人材教育を司る式部省の役人。式部丞は上から6~7番目に偉い役職)・蔵人(天皇の秘書。機密文書などを扱う)に任じられます。

為時が36歳の時のことです。

さらに翌年には式部大丞(式部省の上から4~5番目に偉い役職)へ昇進しました。

なお、「紫式部」の名は為時が式部丞だったことから由来していると言われています。

遅ればせながら為時にも出世の道が開けてきたように見えました。

3)暗転

 しかし、為時の運命は突如暗転します。

寛和二(986)年、藤原兼家らの策謀により花山天皇が出家させられると、為時は官職を失ってしまいます。

そして、以後10年にわたり官職に就けず、不遇の時期を過ごすことになりました。

※注:当時は一定の官位に応じて官職が与えられていました。しかし、官位を持つ者に比べ官職の方が少なかったため、為時のように官職がもらえない者も多くいました。

4)再びの好機到来

 そうして10年後の長徳二(996)年、為時に再びチャンスが巡ってきます。

この年の正月の除目(人事異動の一つ。人に官職を与える)で、為時は淡路守(守とは地方の政治を担当する役人のこと)に任じられていました。

しかし、淡路国(現在の兵庫県の一部)は大国ではありませんでした。

そこで、為時は申文(役人が官位や官職を得るために朝廷に提出するエントリーシートのようなもの)に以下の漢詩を添えて提出します。

【苦学寒夜 紅涙霑襟 除目後朝 蒼天在眼】

(寒夜のつらさに耐えて学問しているとき涙は血となって襟を濡らし、除目に選ばれることのなかった翌朝天はただ青々として我が目に沁みる)

一条天皇はこの詩に感じ入り、除目の決定を後悔する様子を見せます。

そこで、当時左大臣だった藤原道長が越前守(別の人間に決まっていたが急遽変更させた)に為時を任命しました。

 ところで、為時が越前守に任命されたことは他の文人貴族にも希望をもたらしたようでした。

例えば、源為憲(平安時代の学者、文人。漢詩をよく作ったほか、三方絵詞という仏教説話や児童向けの教養書をつくった)は為時が越前守になったことを引き合いに出し、同じような経歴を持つ自分も任官(官職に就くこと)できるよう天皇に奏上しています。

また、大江匡衡(平安時代の歌人。儒学者)も為時の越前守任官を心から喜び、越前に向かう為時に詩を贈ったと言われています。

 こうして、長徳二(996)年夏、為時は越前国へ向かいました。

2.越前守時代の為時

1)越前国とは

 越前国とは現在の福井県の一部に相当し、律令では「大国」と位置づけられていました。

また、紙の産地として有名で、生産される和紙は公文書や物語の和紙にも使われました。

2)宋人たちの漂着

 ちょうどこの頃、隣国の若狭国(こちらも現在の福井県の一部)では宋人70名余りが漂着していました。

 為時は宋人たちを越前国に移します。

越前国には松原客館といって渤海(7世紀末から10世紀にかけて中国東北部に存在した国)からの使者を迎える施設があり、宋人への応対に使うことができると考えたからでした。

 その際、宋人たちが為時のもとへ挨拶に来たため、為時はメンバーの一人である羌世昌と詩の贈答を行いました。

 越前守時代の為時は自らの漢詩の才能や中国への知識を活用し、宋人たちとの交渉にあたったと推測されます。

3)紫式部の結婚

 なお、為時が越前へと向かう際、紫式部も同行しています。

ただし、彼女は藤原宣孝との結婚を機に、長徳四(998)年頃京へ戻ります。

そしてその翌年には、二人の間に賢子が誕生しました。
 

4)越前守後の為時

一方の為時は、長保三(1001)年、国司の任期を終えて帰京しました。

帰京後、為時は寛弘六(1008)年まで官職を得られず、再び不遇の時期を送ることになります。

 なお、同じ頃、紫式部は夫宣孝を亡くし、『源氏物語』の執筆を始めていました。

『源氏物語』が評判を呼び、紫式部は中宮彰子(道長の娘。当時、一条天皇に入内していた)のもとに出仕することになります。

平安時代、生まれた子供は母方の実家が養育していました。

そのため、紫式部が彰子のもとに出仕している間、賢子の面倒は為時や下女が見ていたのではないかと推測されます。

3.文人としての為時

 為時の人生は、役人として見れば不遇の時代の方が多い者でした。

しかし、文人としての彼の人生は充実していたと言えます。

1)為時の和歌

 平安時代、貴族にとって和歌はコミュニケーション手段の一つであり、極めて大事なものでした。

当然、為時も和歌に長けていました。

例えば、花山天皇在位中の永観三(985)年、藤原道兼(当時の為時の上司だった)の邸宅で宴が開かれます。

このとき、為時も招待され、「遅れても咲くべき花は咲きにけり身を限りとも思ひけるかな」という和歌を詠んでいます。

 また、越前守の任期満了後、再び不遇の時期を送っていた長保三(1000)年、東三条院詮子(藤原道長の姉で一条天皇の母)の四十賀(四十歳を祝うイベント。当時にとって四十歳は老齢の域に入っていた)が行われます。

その際、為時には屛風和歌を献上しています。

屛風和歌とは屛風に貼るための和歌のことです。

当時の貴族にとって屛風は部屋を仕切る生活必需品であり、屛風に描かれた絵と和歌をセットにして楽しんでいました。

 さらに、長保五(1003)年、道長の邸宅で歌合(左右に分かれて歌の優劣を競う行事)が開催されると、為時は一流の歌人が居並ぶ中に列席し、源為憲(平安時代の学者、文人。漢詩の方面でも有名)と対戦し、勝ち越しました。

2)為時の漢詩

 しかし、為時の才能は漢詩の方面でより際立っていました。

例えば寛弘三(1006)年三月、道長の邸宅で実施された宴では、道長や伊周(藤原道隆の子。大宰府に左遷されていたが、罪を許され復職していた)、公任(道長の側近。作詩・音楽・和歌に優れた人物として有名)、斉信(道長の側近。清少納言の『枕草子』には斉信の名が出てくる)らそうそうたるメンバーと肩を並べ、「花が水面に落ちる」というお題をもとに漢詩を作りました。

また、寛弘六(1008)年七月に行われた庚申(一晩中寝ずに過ごす行事)の時にも為時は招待され、七夕にちなんだ詩を作りました。

なお、為時の漢詩は『本朝麗藻』(一条天皇の時代に作られた漢詩集)をはじめ何冊もの漢詩集に収録されました。

3)為時の評価

 為時の才能は当時の文人にも、後世の文人にも認められていました。

例えば、大江匡衡(儒者。為時の越前守赴任を喜んでいた人物)は学者の中で優れていながらも貧しい生活を余儀なくされている人物の一人に為時の名前を挙げています。

 また、大江匡房(大江匡衡のひ孫) は著作の『続本朝往生伝』で、一条天皇の時代に輩出した優秀な文人の一人に為時の名前を挙げており、「傑物」と評していました。

 以上のことからも、文人としての為時は一目置かれていたことが分かります。

4.紫式部・藤原道長から見た為時

 ここから先は、紫式部・道長が為時をどう見ていたかをそれぞれ見ていきます。

1)紫式部から見た為時

まずは紫式部から見た為時の姿です。

為時の生涯は、紫式部の書いた『源氏物語』にも影響を与えているのではないかと思われます。

というのも、『源氏物語』には文人貴族の姿が描かれているからです。

 例えば、少女巻の夕霧(光源氏と葵の上との子)が元服する時の話では、文人が衣装・姿・言葉遣い・態度・作法すべてが滑稽で身分の高い人から笑われている様子が描かれています。

 また、夕霧の師の大内記という人物について「ひねくれ者」で、「才能のほど政治の世界では登用されず、貧しい生活を送っている」と書いています。

この一文はあたかも為時を彷彿とさせます。ちなみに為時が花山天皇の時代に取り立てられたように、大内記も政治に取り立てられるような記述が見えます。

けれども、最終的に大内記がどうなったかは記されていませんし、そもそも大内記は物語の中で重要人物として見られてもいないようです。

 『源氏物語』からは紫式部が、文人に対し政治の世界で出世することに悲観的な思いを持っていたことがわかります。

そのような思いを紫式部が抱いたのは、父の姿を見てきたことが関係あるかもしれません。

2)藤原道長から見た為時

 続いて、道長と為時の関係を見ていきます。

意外にも彼らに接点は多いです。

そもそも、為時を越前守に取り立てたのは道長です。

また為時は先述した寛弘三年に道長邸で開かれた宴(源為憲相手に歌合をした)のほか、寛弘七(1010)年正月に開かれた宴にも招待されています。

 ちなみに、寛弘七年の宴で為時は、宴が済むと早々と帰宅してしまいます。

そのため、酔った道長が紫式部に対し「おまえのお父さんはひねくれているね」と冗談交じりに話したことが『紫式部日記』(紫式部の日記。彰子と一条天皇の子である敦良親王誕生のことなどが記されている)に記されています。

 ここからは、道長が為時のことを生真面目で非社交的な人間とみていながらも、為時の才能は認めていることがわかります。

紫式部は文才ある人の姿を自虐的・悲観的に見ていましたが、道長はきちんと才能に注目していたのかもしれません。

5.晩年の為時

1)越後守転任と子供たちの死

為時は寛弘六(1008)年、蔵人・左少弁(太政官の中で上から5番目に偉い役職)に任じられ、久しぶりに官職に就きます。

その2年後、寛弘八(1010)年に越後守に任じられ、越後国(現在の新潟県)に向かいました。このときは息子の惟規が父とともに越後へ同行しました。

しかし、惟規は現地で病にかかり、亡くなってしまいました。

さらに都にいた紫式部も長和三(1014)年頃に亡くなったとも言われています (なお、紫式部については1019年までは生存していたとする説もある)。

 そのため、長和三(1014)年、為時は任期途中で越後守を辞任します。

二人の子供に先立たれ、自分一人が越後にいることにむなしさを感じたことや、孫の賢子の面倒を見る必要があったことなどが関係しているかもしれません。

翌々年、為時は三井寺で出家しました。

2)晩年の為時

 けれども、彼は出家後も文人としての活動を続けていたようでした。

寛仁二(1018)年正月、為時は藤原頼通のために、屛風に貼るための漢詩を献上しています。

 為時は、文人らしく詩の制作に携わりつつ、賢子の面倒を見て晩年を過ごしたと考えられます。

なお、為時の没年は不明のままです。

おわりに

ここまで、為時の波瀾万丈な生涯を見てきました。

不遇の時代が長く、また子供達にも先立たれた点において、為時の人生は「谷」の部分が多い人生だったことが分かります。

 けれども、彼は文才(特に漢詩の才能)を十分に発揮し、その才能は道長ら上級貴族にも認められました。

その点で為時は人生の「山」の部分は十分幸せに過ごしたのではないかと考えられます。

 為時の人生は、他の文人貴族に希望をもたらし、『源氏物語』の土台になるなど、多方面に大きな影響を与えました。

※.参考文献

・関幸彦 『藤原道長と紫式部 –「貴族道」と「女房」の平安王朝-』(朝日新聞出版、2023年)
・今井源衛 『紫式部』(吉川弘文館、1985年)
・阪倉篤義 本田義憲 川端善明 編集『新潮日本古典集成<新装版> 今昔物語集 本朝世俗部一』(新潮社、2015年)
・大曽根章介 『日本漢文学論集 第二巻』(汲古書院、2008年)
・和漢比較文学会 『源氏物語と漢文学』(汲古書院、2003年)

『藤原道長と紫式部 –「貴族道」と「女房」の平安王朝-』(関幸彦)

『紫式部』(今井源衛)

『新潮日本古典集成<新装版> 今昔物語集 本朝世俗部一』(阪倉篤義 本田義憲 川端善明 編集)

『日本漢文学論集 第二巻』(大曽根章介)

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※.用語・人物一覧

・文人:文章を重んじ、詩歌などに優れた人物のこと
・藤原良房:房前の子孫で、人臣で初めて摂政になった人物
・藤原良門:良房の弟
・播磨国:現在の兵庫県の一部
・権少掾:国司の役職の一つ。書記や雑務を担当した。なお権とは定員外や臨時の役職という意味。
・国司/守:地方政治を行う役職。都から派遣された。もともと任期は6年だったが、平安時代までに任期は4年になった。
・御読書始の儀:天皇や皇族男子、親王などが初めて漢籍を読む儀式
・副侍読:天皇や東宮に仕え学問を教授する。いわば教育係
・式部省:朝廷の人事や儀礼・人材教育を司る訳書。
・式部丞:式部省で上から6~7番目に偉い役職
・蔵人:天皇の秘書。機密文書などを扱う
・式部大丞:式部省の上から4~5番目に偉い役職
・除目:人事異動の一つで、人に官職を与えること
・淡路:淡路島のこと
・申文:役人が官位や官職を得るために朝廷に提出するエントリーシートのようなもの
・源為憲:平安時代の学者、文人。漢詩をよく作ったほか、三方絵詞という仏教説話や児童向けの教養書をつくった
・大江匡衡:平安時代の歌人。儒学者
・若狭国:現在の福井県の一部。
・彰子:藤原道長の娘。当時、一条天皇のもとに入内していた
・東三条院詮子(藤原詮子):藤原道長の姉。一条天皇の母。
・四十賀:四十歳を祝うイベント。平安時代、四十歳は老齢の域に入っていた
・藤原公任:道長の側近。作詩・音楽・和歌に優れていた
・藤原斉信:道長の側近。清少納言の『枕草子』には斉信の名が出てくる
・『本朝麗藻』:一条天皇の時代に作られた漢詩集
・『紫式部日記』:紫式部の日記。彰子と一条天皇の子である敦良親王誕生のことなどが記されている
・越後国:現在の新潟県。
・左少弁:太政官(政治を司る役所)の中で上から5番目に偉い役

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