学問の神様として祀られている菅原道真。
一貴族に過ぎなかった道真がどうして学問の神様として祀られるようになったのでしょうか。
今回は菅原道真の
- 生い立ち
- 経歴と作品
- 性格
について紹介していきますよ!
こちらを読めば、菅原道真の生い立ち・経歴や作品・性格や人となりが分かって、作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。
菅原道真の生い立ちは?
菅原道真は845~903年を生きた平安時代の貴族です。
出身地は特定されておらず、
- 奈良市菅原町
- 京都市下京区
- 京都市上京区
- 京都市南区
- 堺市美原区
- 吉野郡吉野町
- 松江市
が候補として挙げられています。
出身地だけでもこれだけ候補があるだなんて、とても注目されている証拠ですね。
道真は幼少期から漢学の才能を開花させており、18歳で漢文学の学科を学ぶ文章生となりました。
その後、2名しか選ばれない文章得業生となり、32歳の時には文章博士にまでなっています。
漢文学でどんどん地位を上げていますね。
これに伴って、貴族としての地位も上げています。
35歳の時には、父の死に伴って、祖父の私塾・菅家廊下を主宰するようにもなります。
いわゆる、大手塾の経営者になったということですかね。
この菅家廊下は実績がすごくて、当時の朝廷役人は、この塾出身者が100人以上いたそうですよ!
このようにして、道真は朝廷における文人社会の中心的人物になっていったんですね。
とは言え、当時の貴族社会は家柄が全て。
道真の家柄は、取り立てて素晴らしいものでもなく、地位も家柄同等にしか上がってはいませんでした。
が、宇多天皇の信任を勝ち取り、家柄以上の要職を歴任していくこととなります。
菅原道真の経歴と作品
宇多天皇に重用された道真は、ここからどんどん位を上げていきます。
それはもう、周りの貴族から妬まれるレベルでした。
天皇から信任を得ているうちにと、道真は皇族との間で姻戚関係も強化していきます。
- 長女を宇多天皇の女御にする
- 三女を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃にする
皇族との姻戚関係を強めることは、家柄を重視する当時においては一番の安心材料でした。
これもまた、他の貴族からするといい気はしないでしょうね。
本来なら、皇子の妃になどなれるレベルの家柄ではありませんものね。
ついに、道真は言大納言兼右近衛大将にまで上り詰めました。
これは、今で例えるなら、大臣入りを果たした感じですね。
政治を司る20人に名を連ねました。
しかし、言大納言兼右近衛大将に就任した翌月、頼みの綱だった宇多天皇が、醍醐天皇に譲位してしまいました。
宇多天皇は醍醐天皇に「道真を頼んだ!」と申し送りしてくれてはいたので、醍醐天皇の治世でも昇進を続けることはできました。
道真は54歳にして、ついに右大臣の職に就くことになりました。
これはTOP3入りを果たしたということ。
日本を牛耳る権力を手に入れました。
が、そりゃ~面白く思わない人が多数いますよね。
そんな人たちにはめられて、道真はありもしない罪で太宰員外帥に左遷されてしまいました。
中央政権でTOP3にまで上り詰めていたのに、地方の役人にまで降格させられてしまったのです。
道真は悔しくてたまらなかったことでしょうね。
本人だけでなく、子ども4人も流刑されてしまいました。
子どもまで巻き込まれるだなんて、辛くてたまらなかったでしょう。
地方の役人とはいえ、本当に名ばかりで、給料もままならず、住む家もボロ家。
今まで、天皇に重用されて自由な生活をしていた身からすると、とんでもない生活を強いられることとなりました。
左遷後は謹慎生活を送っていた道真ですが、左遷から2年後、大宰府の地で亡くなってしまいました。
出る杭は打たれるということわざがありますが、まさに道真の最期もそんな感じでしたね。
人間の妬みって本当に恐ろしい・・・
文人としての菅原道真
さて、ここまでは政治家としての道真を紹介しましたので、ここからは文人としての道真を紹介しましょう。
道真は多くの作品を残しています。
- 詩や散文を集めた『菅家文草』
- 大宰府での作品を集めた『菅家後集』
- 編纂したものに『類聚国史』
また、六国史の一つである『日本三代実録』の編纂者でもありましたが、これは左遷後に完成したものなので、編纂者から名前が除外されてしまっています。
和歌も作っており、35首が勅撰和歌集に入集されている実力の持ち主です。
有名な和歌は、大宰府に左遷される際に、京を離れる時に詠んだものでしょう。
東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
(春の東風が吹いたら、咲いて匂いを届けてくれよ、梅の花よ。主がいないからといって、春を忘れないでくれよ。)
道真は梅が大好きでした。
京都の邸宅にも梅の木を植えていたんでしょうね。
そんな梅の木とのお別れに詠んだ歌です。
自分がいなくても、春になったらちゃんと花を咲かせて、大宰府にまで匂いを届けてほしいと言って、別れを悲しんでいます。
実は、この梅の木、大宰府まで道真を追いかけて飛んで行ったという「飛梅」の伝説を作っているんですよ。
【エピソード】菅原道真の性格はどんな人?
菅原道真について紹介してきましたが、あら?学問の神様に関することでてきませんでしたよね。
なぜ、菅原道真が学問の神様と言われるようになったのか、気になりますよね。
道真は、最初から学問の神様として祀られていたわけではありませんでした。
あらぬ罪で左遷され、その地で死んでしまった道真。
道真の死後、京では異変が数多く起こりました。
- 道真の政敵・藤原時平が39歳で病死
- 道真を陥れた首謀者の一人とされる源光が狩の最中に溺死
- 醍醐天皇の皇子(時平の甥)が病死
- 醍醐天皇の皇太孫が病死
- 会議中の清涼殿(今で言うと国会議事堂)が落雷を受け多くの死傷者を出す
- 落雷を目撃した醍醐天皇も体調を崩し3か月後に死亡
道真が亡くなったのは903年なんですが、これらの出来事が起きたのは909~930年なんです。
死後6~27年のことを道真の祟りと言われても~と思っちゃいますが、当時の人たちはそれほど道真の怨念を感じていたんでしょうね。
そして、道真をあらぬ罪で罰してしまったことに負い目を感じていたんでしょう。
これらのことを道真の祟りだと恐れた朝廷は、
- 道真の罪を許し、
- 官位を贈呈
- 流刑になっていた子どもたちも京に帰ることを許す
といった措置を行いました。
いやいや、死んだ後に罪を許されても~ですよね。
この、道真の祟りとされている一つ、清涼殿落雷の事件から、道真の怨霊が雷神と結び付けられました。
京都の北野天満宮は、道真の祟りを鎮めるために建立されたんですよ。
それから、100年ほどは、大災害が起こると道真の祟りだと恐れられました。
後世への影響力すごすぎ!!
このようにして、道真は最初「天神様」として祀られていました。
が、時が経つにつれ、道真の祟りの要素が風化していき、道真の文人としての才能に重きが置かれるようになりました。
そして、道真は学問の神様として祀られるようになったんです。
死んだ後まで、祟りとかってあらぬ罪を着せられて、祀られただなんて。
最初から学問の神様だったと思っていましたよ。
ここまで、恐れられるなんて、菅原道真はとーーーーーっても執念深い人だったのかもしれませんね。
まとめ 菅原道真の性格と経歴は?生い立ちとエピソードが面白い!
菅原道真の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。
簡単にまとめておきましょう。
- 菅原道真は幼い頃から学問の才能に秀でていた
- 菅原道真は宇多天皇に重用され昇進していった
- 菅原道真はあらぬ罪で左遷され、悲惨な最期を迎えた
- 菅原道真は死後、祟りだと恐れられ、天神様として祀られた
- 菅原道真は天神様として祀られた後、学問の神様に落ち着いた
菅原道真に興味を持っていただけたでしょうか?
もっと詳しく知りたい人には、
- 『太宰府天満宮の謎―菅原道真はなぜ日本人最初の「神」になったのか』高野 澄
- 『天神 菅原道真』三田 誠広
がおすすめです。
『天神 菅原道真』は伝記小説風なので、ファンタジーな雰囲気が好きな人は読みやすいかもしれません!
以上、「菅原道真の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした。
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