棋士・藤井壮太さん、ひふみんの愛称で親しまれている棋士・加藤一二三さんなどの活躍、また、プロ棋士を主人公とした漫画「3月のライオン」の実写化などによって空前の将棋ブームが到来しました。
2016年秋に公開された映画「聖の青春」は癌によって亡くなった村山聖棋士をモデルとし、村山聖棋士の生涯が描かれました。
では村山聖棋士とは一体どのような人物であったのでしょうか。
今回は村山聖棋士の
- 生い立ち
- 経歴
- 逸話
- 将棋の強さ
をご紹介いたします。
これを読めば、村山聖棋士の生い立ちや経歴、性格、エピソードなどを知ることができますよ。
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村山聖の生い立ちと棋士の経歴は?
村山棋士は昭和44年(1969年)6月15日に三人兄姉の次男として広島県で誕生しました。
幼いころから体の弱かった村山棋士は頻繁に熱を出しており5歳の時に「ネフローゼ症候群」と診断されます。
ネフローゼ症候群とは、腎臓の難病で全身の倦怠感や、皮膚の蒼白化、食欲不振、無気力化などの症状が現れる難病です。
府中町立府中小学校に入学するも、症状は治まらず広島市民病院内にある院内学級また広島県立原養護学校で6年生の1月まで過ごしました。
治療のため入院した際、父から将棋を教わっていたとされ、村山棋士は将棋に没頭する日々を送ります。
朝から晩まで将棋の没頭していた我が子を母は注意するも、将棋専門誌を持参し与えていました。
村山棋士が10歳の頃、元奨励会の会員が行う将棋教室に通うようになります。
奨励会とは、正式にいうと公益社団法人日本将棋連盟付属新進棋士奨励会です。
将棋のプロ棋士の養成機関であり、プロ棋士になる為にはこの奨励会に入らなくてはいけません。
将棋教室に通っていた村山棋士は、アマチュア4段となりました。
11歳になると、名門将棋道場「広島将棋センター」に通い、将棋の腕を磨くようになります。
その結果、「中国こども名人戦」という大会では4年連続優勝を飾りました。
その後
- 1981年に行われた小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光に敗れるも
- 中学1年生の1982年に行われた中学生将棋名人戦ではベスト8
となります。
こうして村山棋士は中学1年生の時にプロ棋士を目指しました。
この村山棋士の決意を両親は驚きましたが、病気を患っていたこともあり、好きな事をさせたいという気持ちであったとされています。
しかし、以前、村山棋士が通っていた将棋教室の元奨励会員は、村山棋士に師匠を紹介するのはまだ早いと告げました。
ですが、村山棋士は難病である腎臓病を患っているため、一刻も早く師匠を探さなければいけませんでした。
- この師匠探しに両親は奮闘し、その結果、日本将棋連盟広島将棋同好会支部の支部長から大阪にいた森信雄棋士を紹介されます。
- 当時、村山棋士は暑がりであったため、真冬であるにも関わらず、裸足でワイシャツの袖を腕まで捲くっていたとされています。
- この村山少年を気に入った森信雄棋士は、村山棋士を弟子としました。
奨励会に入会する
1982年、村山棋士が中学1年生の時、奨励会を受験すると合格し奨励会員となります。
奨励会に入会後、難病を患いながらも1人で大坂に住んでいた村山棋士を心配し、師匠の森信雄棋士は同居を始めました。
師匠の森信雄棋士は村山棋士の看病も行い、村山棋士が少女漫画を読みたいと言うと、森信雄棋士は書店へ足ったというエピソードが残されています。
その後、村山棋士は師匠・森信雄棋士の自宅から1分の場所で1人暮らしを始めました。
難病によって、体調を崩していた村山でしたが体調の良い日には毎日のように関西将棋会館に通い、将棋の研究に力を注ぎます。
村山聖の強さの伝説や病気の最期は
1986年11月5日、村山棋士は17歳の時にプロデビューをはたします。
奨励会に入って2年11か月目のことでした。
このプロ入りは、伝説とも言える異例の速さで最強の棋士とされる羽生善治棋士も超える異例のスピードでした。
強い棋士を志すようになる
難病を患っていた村山は、命の尊さを誰よりも知っていたため、自身の爪や髪などにも命があると考えていました。
そのため、爪や髪を切ることを嫌い、またネフローゼ症候群の症状の1つであるむくみなどから、周囲からは不潔と悪口を叩かれるようになります。
このような風貌からこの頃になると、「怪童丸」と呼ばれるようになります。
このような噂に対し村山は師匠の森信雄棋士に不潔であることは悪いことなのか。と相談すると森信雄棋士は強くなったら、悪口は言われなくなる。といったことを返しました。
プロとなった村山は目標を名人と定めていましたが、10代の終わり頃から、名人になって早く将棋を辞めたいと語るようになります。
1989年6月15日夜、20歳になった村山棋士は麻雀をしていた師匠・森信雄棋士を尋ね、20歳になったことを報告しました。
この報告は単純に、20歳になったという報告ではなく、20歳まで生きることができ嬉しい。という報告でした。
自身の命のリミットを感じながらも、将棋に打ち込んでいた村山棋士は、非常に強い闘争心を持っており、ライバル棋士とは敵意むき出しで対局を行っていたとされています。
しかし、現在でも活躍されている羽生善治棋士だけには、他のライバル棋士にはない、特別な敬意を払っていました。
この頃、10代でプロ棋士となった
- 羽生善治棋士
- 佐藤康光棋士
- 森内俊之棋士
- 村山棋士棋士
は恐ろしい勢いで対局を勝ち進み、「新人類棋士」と呼ばれていました。
この世代は後に、「羽生世代」と呼ばれるようになります。
- 1989年9月6日の若獅子戦決勝戦
- C級1組順位戦
において村山棋士は羽生善治棋士に負けてしまいます。
村山棋士は、体調不良もあり羽生善治棋士から遅れをとっていました。
しかし、1990年10月1日に行われた第13回若獅子戦決勝では佐藤康光棋士を破り、棋戦初優勝となりました。
そして1993年春、順位戦で好成績を収め続けた村山棋士はB級1組に昇級します。
村山棋士は関西から関東へ単身で移ることを決意します。
新居となったのは将棋会館から歩いて5分の場所でした。
東京での生活は、先崎学、郷田真隆といった棋士仲間と麻雀をしたり、酒を飲んだり楽しんでいたとされています。
その後
- 1995年4月、A級八段に昇格
- 1996年、第30回早指し将棋選手権で優勝
- 1997年2月28日、竜王戦1組の1回戦で羽生善治棋士と対局。羽生棋士に勝つ
順調に見えた将棋生活でしたが、1997年頃から、体調は悪化し血尿や脱力感に悩まされるようになります。
このような体調悪化によって1997年春にはB級1組に降級となりました。
降級した直後、村山棋士の体に進行性膀胱癌が見つかります。
村山棋士は、東京の自宅を引き払い、地元に戻り広島大学病院に入院となりました。
膀胱癌の治療のためには、膀胱の摘出手術をしなければなりませんでした。
しかし、村山棋士は生殖機能を失うことを危惧し手術を1度拒否します。
手術を拒否する村山に対し、医師は説得し1997年6月16日に片方の腎臓と膀胱を摘出する大手術が行われました。
また癌治療のための抗癌剤、放射線治療は将棋を行うにあたって、脳に悪影響をもたらしたくないという理由で、抗癌剤、放射線治療を断ります。
手術後の初となる第56期B級1組順位戦2回戦が、1997年7月14日に行われました。
この対局では丸山忠久棋士に敗れましたがA級復帰を果たすこととなります。
村山聖の最期
1998年の春、村山棋士の体に癌の再発、転移が発見されます。
この治療のために、村山は1年間の休戦を発表し、治療に専念しました。
- この頃に出版された「将棋年鑑」の村山のプロフィール欄には、今後の目標として、生きる。と書き残しています。
癌治療のため村山は再び広島大学病院に入院し、治療に励むも1998年8月8日に名人になる夢は叶わず、29歳の若さで亡くなりました。
最期の言葉は「2七銀」であったとされ、最期まで将棋の事を考えていたことがわかります。
【エピソード】村山聖の性格や天才ぶりが分かる逸話
村山棋士は、将棋だけに興味を持っていただけではなく、読書家でもありました。
村山棋士が大坂で1人暮らしを始めた際、部屋の中には3000冊の少女漫画があったとされ、
- 漫画を読むため
- 漫画を飾るため
- 漫画を保存するため
このことから同じ巻を3冊購入していたとされています。
また1998年に出版された「将棋年鑑」の好きな作家のアンケートには
- 漫画家の河あきら
- 小説家の麻耶雄嵩
- アメリカのSF作家であるジェイムズ・ティプトリー・Jr.
をあげています。
そんな村山棋士は非常に負けず嫌いな性格でした。
それは将棋の対局だけではなく、麻雀や囲碁などにおいても、負けると非常に悔しがっていたとされています。
そんな性格でしたので、1度目に癌が見つかった際は脳に悪影響を及ぼしてしまうと、将棋に集中できなくなる。ということから抗癌剤、放射線治療は行いませんでした。
また手術後初の対局となった第56期B級1組順位戦2回戦では、医者に脱走してでも対局に行く。と伝えていたそうです。
自身の体調よりも将棋を優先していた村山棋士でしたが、癌の再発、移転が見つかった時は、治療に専念するため1年の休戦を発表しました。
この際、師匠の森信雄棋士はこれまでなら命よりも将棋を優先していた村山棋士が治療に専念するという発表を行ったことに対し、変わったなと思った。と述べています。
まとめ 村山聖はどんな人?ドラマや映画はある?
村山棋士の生い立ちや経歴、逸話や性格、強さなどをご紹介いたしました。
簡単にまとめると
- 5歳の頃から「ネフローゼ症候群」を患う
- 父から将棋を教わり、以後、将棋に打ち込む
- 中学1年生でプロ棋士を目指す
- 師匠は森信雄棋士
- 異例の速さで奨励会に入会
- 膀胱癌を患い、手術するも再発、移転し29歳の若さで亡くなる
- 読書家で負けず嫌い
村山棋士は、現在でも活躍されている羽生善治棋士のライバルであった人物でした。
とても負けず嫌いでしたが、村山棋士は羽生善治棋士とのNHK杯戦の対局において、村山優勢であったにも関わらず単純なミスを犯し、羽生善治棋士に敗北となりました。
しかし、その後のインタビューでは「優勝したはずなんですが、ポカしてしまいました」と冗談交じりに述べています。
このように明るい性格であったことの分かるエピソードも残されています。
そんな村山棋士を主人公とした映画には大崎善生さんの小説を実写映画した「聖の青春」があげられます。
この映画では
- 村山棋士を俳優の松山ケンイチさん
- 羽生善治棋士を俳優の東出昌大さん
- 森信雄棋士を俳優のリリー・フランキーさん
が演じられました。
この映画では、村山棋士が難病に悩まされながらも、対局に臨む姿が描かれています。
これを機に、村山棋士に興味を持った方は「聖の青春」を見てみてください。
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以上「村山棋士の性格と経歴。生い立ちや強さの逸話。伝説のエピソード」のご紹介でした。
コメント
ネフローゼ症候群は肝臓ではなく腎臓の疾患です
修正いたしました。
ご指摘ありがとうございました。