荒木村重という人物をご存知でしょうか?
茶の湯の世界に心奪われる古田織部を主人公とした漫画「へうげもの」やNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」に俳優の田中哲司さん演じる荒木村重は登場しており、それで荒木村重を知った!という方が多いのではないでしょうか。
織田信長の家臣であったにもかかわらず、信長に謀反を起こしたため一族を滅ぼされた人物です。
しかし何故、彼は主君である信長に謀反を起こしたのでしょうか。
そこで、今回は荒木村重の
- 生涯
- 性格
- 逸話
- 死因
をご紹介していきます。
これを読めば信長に謀反を起こした荒木村重の生涯や性格、逸話や死因を知ることができますよ。
尾藤「お主らの城主は、お主らを置いて、逃げた!」、って方久がすごく人でなしに見えますが、歴代大河では、荒木村重( #軍師官兵衛 )、徳川慶喜( #龍馬伝 )がひとり逃げ出した城主として有名ですわな(´▽`) #おんな城主直虎 pic.twitter.com/eJRD0RP3xy
— sakaikazunori (@sakaikazunori) 2017年8月27日
荒木村重の生い立ちと生涯
荒木村重は天文4年(1535年)摂津池田家の家臣であった荒木信濃守義村の嫡男として誕生します。
現在の大阪府池田市で誕生しました。
村重の先祖は平安中期の貴族であった藤原秀郷だとされています。
幼いころは、十二郎、弥介と呼ばれます。
池田家に仕えた
村重ははじめ池田勝正の家臣として池田家に仕えていました。
永禄12年(1569年)この頃、摂津国の大名は
- 三好長逸
- 三好宗渭
- 岩成友通
の三好三人衆と争っていました。
村重も主君・池田勝正とともに三好三人衆と対抗していましたが、主君・池田勝正の弟である池田知正と共に三好三人衆に寝返り、主君であった池田勝正を追放に追い込みます。
主君を追放した村重は池田家を乗っ取り、池田家の権力を掌握しました。
村重は織田信長の家臣となる
元亀2年(1571年)村重は摂津国で勢力を広げるため白井河原の戦いを起こします。
この時の摂津国は各武将たちが支配地を広げようとしていました。
もともと、永禄11年(1568年)に茨木重朝・伊丹親興連合軍と元主君・池田勝正が争っていましたが、村重が君主であった池田勝正を池田家から追い出したため
- 茨木重朝・伊丹親興連合軍
- 荒木村重・中川清秀連合軍
の対立となりました。
この戦いで、荒木村重は勝利を収め、戦いに勝利した村重の活躍は信長の目に留まります。
村重を気に入った信長は、村重が仕えていた三好家から織田家へ村重を移し、天正元年(1573年)村重は38歳の頃、茨木城主となりました。
この年、幕府再興を願っていた室町幕府第15代足利義昭と天下統一を目指す信長が若江城の戦いを起こします。
この頃、三好家の中でも、信長派と足利義昭派に分かれていました。
荒木村重は信長を味方しましたが、池田知正は足利義昭に味方します。
この戦で勝利を収めたのは、織田軍でした。
足利義昭に味方していた池田知正は信長に降伏したため、村重の家臣となり、村重は池田家を乗っ取ることに成功しました。
このことを下克上といいます。
天正2年(1574年)11月15日になると村重は有岡城を落とし、摂津一国を支配する人物となり、有岡城を中心とした新たな支配体制を構築していきます。
この間も、信長に仕え
- 越前一向一揆討伐
- 石山合戦
- 紀州征伐
に参加しました。
村重は主君・織田信長に反旗を翻す
天正6年(1578年)10月、当時、織田家の家臣であった豊臣秀吉が行った播州征伐のうちの1つである三木合戦に村重は秀吉軍に加わり参加します。
しかし、村重はこの最中、主君である信長に反旗を翻します。
なぜ、村重が信長に反旗を翻したのかは分かっていませんが
-
信長と敵対関係であった足利義昭や石山本願寺と村重は親しかったため、足利義昭や石山本願寺に誘われ信長に反旗を翻した。
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村重の家臣であった中山清秀が、信長に内緒で、石山本願寺に米を送っていたため、それが信長にバレた時の処罰を恐れ、信長に反旗を翻した。
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信長の側近であった長谷川秀一が村重に小便をかけるなど、村重と信長の側近らが対立していたため、信長に反旗を翻した。
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天正元年(1573年)村重が近江国の瀬田で、信長と対面した際、信長が刀の先に餅を刺し、これを村重に食べさたため恥辱を味わわさせられたということから、信長に反旗を翻した。
-
本願寺攻めでは指揮官は佐久間信盛が指名され、播州征伐では秀吉が司令官に任命され、村重の活躍の場が無くなったため信長に反旗を翻した。
などが、信長に反旗を翻した理由としてあげられています。
信長は村重を家臣として重用していたため、村重の反逆に大変驚いたとされています。
反旗を翻した村重に驚いた信長は家臣の
- 明智光秀
- 松井友閑
- 万見重元
によって村重は説得されます。
説得に応じた村重は安土城へ釈明のため安土城へと向かいましたが、村重の家臣・中山清秀が信長は、1度裏切った家臣を許すはずがない、滅ぼそうとするぞ。と村重に言ったため、村重は安土城へ向かうことを辞めました。
村重は説得に来た黒田官兵衛を拘束する
当時、信長の家臣であった秀吉は村重の説得のため、黒田官兵衛を有岡城へ派遣します。
村重は、この派遣された黒田官兵衛とは親しい友人でもありました。
しかし、有岡城へ説得のために訪れた黒田官兵衛を村重は拘束し、牢屋で監禁します。
その後村重は1年もの間、有岡城で篭城し、その間、黒田官兵衛も牢屋で監禁されていました。
1年もの間、監禁されていた黒田官兵衛は牢屋の窓から、村重の正室とされる、だし顔を見て癒されていたとされています。
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家族を置いて1人で有岡城から逃げる
長い篭城は
- 村重の側近・中川清秀と高山右近が信長に寝返った
- 兵糧が尽き始めた
- 援軍として期待していた毛利氏が来なかった
このことから、なんと村重は、天正7年(1579年)9月2日、家族や子供たちを有岡城に残し、1人で逃げてしまいました。
城主として、家臣や家族を置いて逃げるなんて、1番してはいけないことですよね。
有岡城から逃げた村重は嫡男の村次のいた尼崎城へ落ち延びました。
同年11月19日、信長は尼崎城と築城していた花隈城を明け渡せば、有岡城に残された家族と一族は助ける。という約束を村重の家臣らに伝えます。
この伝言を家臣が村重に伝えるも、村重は信長からの要求を拒否します。
つまり、村重は有岡城に残された妻や子供、一族を見捨てて1人で逃げることを選んだのです。
このことによって、信長は、村重の妻や子供、一族を見せしめとして処刑しました。
その数、女房衆122人、村重一族と重臣の家族の36人の殺害、また避難した村重の家族を見つけ次第皆殺しにするといった信長の残虐行為は「 信長公記」に生々しく記載されています。
このように、信長によって妻や子供を殺害されたにも関わらず、村重は嫡男・村次を連れて家臣・荒木元清のいる花隈城に行き、その後、毛利氏に頼り尾道で身を隠しました。
村重は信長亡き後、茶人となり茶会に出席
各地で身を潜めていた村重でしたが、明智光秀が本能寺の変を起こし、信長が滅亡したため、堺に移り住みます。
信長亡き後、秀吉の政権が始まると、村重は茶人として大阪で活躍しました。
茶人となった村重は茶人・千利休と信仰を深め、千利休の弟子を指す利休七哲のうちの1人として名を残します。
【逸話】荒木村重の死因と最後。
その後、村重は出家し荒木道薫と名乗りました。
村重が出家した理由には
-
キリシタンを嫌っていた村重がキリシタン大名であった小西行長や高山右近の悪口を言い、それを知った秀吉が、面会してくれなくなったため出家した
-
秀吉が出陣している際、秀吉の悪口を言ったところ、秀吉の正室・北政所にバレたたため処罰を恐れ出家した
などがあげられています。
天正14年(1586年)5月4日、村重は52歳の時、堺で亡くなりました。
死因はあきらかにされていません。
荒木村重の性格がわかるエピソード
村重は信長に急に反旗を翻しました。
村重が反旗を翻した理由は様々な推測がなされていますが、明確な理由は判明していません。
しかし、村重は1度反旗を翻したにも関わらず、信長の家臣に説得され釈明のために信長のいる安土城へと向かいます。
ですが、ここで自身の家臣に、1度信長に逆らったのだから釈明に行けば殺される。と言われ、伊丹に引き返します。
このような村重の行動を見ていると村重が優柔不断な人物であったことが分かります。
反旗を翻した村重に、信長は城を明け渡せば妻や子供、一族は助ける。と約束します。
しかし、ここで村重は家族と一族を見捨て1人で逃げてしまいます。
家族を置いて1人逃げるなんて、最低ですよね。
こうして一族は信長によって滅亡したとされていますが、1人だけ生き残った子供がいました。
この生き残った子供は京都で保護され、のちに岩佐又兵衛と名乗り絵師となります。
村重の子供は、自身や母を身殺しにした父・村重をどう思うのでしょうか。
村重は信長が亡くなったことを知ると堺に戻り茶人として活躍します。
家族見殺しにしておきながら、茶人になるなんて、村重がずぶとい性格の持ち主であったことが分かります。
その後、出家しますが、その出家理由も、秀吉の悪口を秀吉の正室・北政所に聞かれ、処罰を恐れたため出家したとされています。
そんな理由で、出家!?と思いますよね。
村重は図太い性格でありながら、怖がりで、優柔不断な人物だったのです。
まとめ 荒木村重とへうげもの
荒木村重の生涯や性格、逸話のご紹介でした。
荒木村重について簡単にまとめると
- 池田家の家臣であったが、下克上を果たし、池田家を乗っ取る
- 織田信長の家臣となるも、謀反を起こす
- 説得に来た黒田官兵衛を1年監禁する
- 妻や子供、一族を見殺しにし、1人で逃げる
- 信長が亡くなると茶人として復活する
- 処罰を恐れ出家する
- 図太い性格でありながら、怖がりで、優柔不断な人物であった
村重は、家族を見殺しにし、茶人となった人物でした。
長所の見当たらない人物でしたが、千利休の優秀な弟子を指す利休七哲のうちの1人とされているので、茶人としての才能はあったのでしょう。
そんな荒木村重は山田芳裕さんの漫画「へうげもの」に登場しています。
織田信長、豊臣秀吉に仕えていた古田織部が茶の世界に魅了されていく物語で、荒木村重は武士道を捨て数奇な道を選んだ武将・松永久秀とともに主人公・古田織部に生き方を考えさせるきっかけを与えた人物として登場します。
また荒木村重の他に、唯一の一族の生き残りである村重の子。岩佐又兵衛も絵師として登場しています。
これを機に荒木村重について興味を持った方は漫画「へうげもの」を読んでみてください。
以上「荒木村重の性格と生涯の逸話。死因と最後のエピソード」のご紹介でした。
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