あなたは、日本三大怨霊とされる崇徳天皇をご存知でしょうか?
日本三大怨霊には崇徳天皇の他に平将門、菅原道真があげられます。
崇徳天皇の怨霊は今でなお恐れられており、崇徳天皇を祀った京都にある安井金比羅宮は縁切り神社として有名な観光地となっています。
そして実は今年、2019年は崇徳天皇生誕900周年の年でもあります。
なぜ崇徳天皇は、天皇でありながら怨霊の1人とされてしまったのでしょうか?
今回はそんな崇徳天皇の
- 生い立ちと生涯
- 性格と人柄
- 怨霊となった由来
この3つをご紹介していきます。
これを読めば、怨霊と恐れられた崇徳天皇の生い立ちや生涯、性格や人柄、また怨霊となった理由について知ることができますよ。
崇徳天皇の生い立ちと生涯
崇徳天皇は元永2年に鳥羽天皇と藤原璋子の間で誕生しました。
幼き崇徳天皇でしたが、保安4年、5歳の頃に父の鳥羽天皇が譲位し天皇となります。
鳥羽上皇の父親である白河法皇が崩御した大治4年、崇徳天皇は10歳でした。
まだ子供の崇徳天皇なので、父の鳥羽上皇が崇徳天皇の代わりに政治を行います。
しかし、父・鳥羽上皇は白河法皇が亡くなったことで、好き勝手な政治を行っていきます。
父・鳥羽上皇は白河法皇の側近であった娘の藤原得子をとても愛していました。
その藤原得子との間に体仁親王が生まれました。
崇徳天皇と体仁親王は腹違いの兄弟ということになります。
鳥羽上皇はこの体仁親王に皇位を継がせようと考え、自身の息子である崇徳天皇に譲位を迫りました。
崇徳天皇としては、後から生まれてきた弟に天皇の座を奪われるのはとても悔しかったのではないでしょうか。
しかも、実父によって譲位を迫られるのは、なんとも辛い話です。
崇徳天皇から崇徳上皇になる
こうして、体仁親王は近衛天皇となり、崇徳天皇は崇徳上皇となります。
同じ年に父・鳥羽上皇は仏門に入ったため鳥羽法皇となるも、政治活動は続けていました。
崇徳上皇は鳥羽田中殿という場所に移り、新院と呼ばれるようになります。
こうして権力を失ってしまった崇徳上皇でしたが、鳥羽田中殿では歌会を開くなど和歌を詠むことを楽しんでいたそうです。
久寿2年に近衛天皇が16歳の若さで崩御すると、崇徳上皇の第一子であった重仁親王が次の天皇になるのでは。と考えられていました。
この重仁親王は藤原得子の養子に入っていたのですが、藤原得子は守仁親王も養子として迎えていたようです。
崇徳上皇は、息子の重仁親王が次期天皇となることを期待していたようですが、期待とは裏腹に、重仁親王が次期天皇として有力視されるようになります。
この重仁親王もまだ幼かったため、即位するまでの間の中継ぎ天皇として雅仁親王が後白河天皇となりました。
この頃、崇徳上皇の父・鳥羽法皇と藤原得子は近衛天皇が亡くなったのは崇徳上皇に近い立場であった藤原頼長の呪いだと信じていたそうです。
崇徳天皇(上皇)と保元の乱
保元元年、父・鳥羽法皇が亡くなります。
崇徳上皇は父の死の直前に面会に訪れましたが、父・鳥羽法皇は自身が亡くなった際は崇徳上皇に遺体を見せないでくれと遺言を残していたため、対面することはできませんでした。
鳥羽法皇は自身の息子・崇徳上皇に異様に冷たい人物だったことが分かります。
父との最後の対面ができなかった崇徳上皇でしたが、この頃「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」とうい噂が流れました。
この噂は崇徳上皇が藤原頼長と共に国をつぶそうとしている。という意味です。
え!っと驚く崇徳上皇はこの噂に対して軍事対応を行おうとしますが、後白河天皇は崇徳上皇に藤原忠実、頼長が荘園から兵を出す事を禁止しました。
このことによって崇徳上皇のいる鳥羽田中殿は危険にさらされたので崇徳上皇は白河北殿へと避難しました。
ここでは、平清盛、藤原教長、源為義、平忠正などが集結していましたが、兵力としては弱小にすぎませんでした。
後白河上天皇側が夜、未明の時刻に崇徳上皇のいる白河北殿に火を放ちます。
この夜襲はら崇徳上皇は脱出することができ、その後は東山の如意山へと源為義、平家弘とともに逃げ込みました。
この時、崇徳上皇は家臣たちを逃がし、剃髪し投降を決意します。
崇徳天皇(上皇)が讃岐に配流される
剃髪した崇徳上皇は仁和寺の同母弟である覚性法親王に仲立ちを依頼しましたが、断られてしまい源重成によって監視されることとなります。
その後、崇徳上皇は現在の香川県、讃岐に配流されることとなりました。
天皇や上皇が配流されるのは、淳仁天皇の配流以来、約400年ぶりだったそうです。
この配流は約8年も続き、崇徳上皇は讃岐で46歳にして亡くなりました。
配流生活の中で崇徳上皇は極楽往生を願い、写本作りに専念していたそうです。
【エピソード】崇徳天皇(上皇)の性格と人柄はどんな人?
これまでの崇徳天皇の生涯を見ると、父に嫌われ続け、挙句の果てには天皇の座を奪われ、配流されるといった悲運な生涯を送っていたようですね。
日本最大の怨霊として恐れられていくこととなりますが、幼少期から和歌を愛し、鳥羽田中殿に移った際は、歌会なども開いていたとされています。
崇徳天皇の残した和歌の「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」は
といった意味が込められており、この和歌から崇徳天皇はとても繊細な心の持ち主であったことが分かります。
配流先の讃岐では写本の受け取りを拒否した後白河上皇に対してとても腹を立て、なんと舌を噛み切って写本に、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書いたという逸話も残されているので、とても執着心の強い性格だったのではないでしょうか。
【逸話】崇徳天皇(上皇)が妖怪になった由来
先ほども紹介したように、崇徳天皇は配流先の写本の制作を熱心に行っていました。
心を込めて作った写本を京都に送りましたが、後白河上皇は「呪いが込められているのではないか」と疑って受け取らなかったそうです。
崇徳上皇はとても腹を立て、舌を噛み切って写本に、その血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書きました。
また爪も髪も切らず、このような姿から生きながらにして天狗になったとされています。
崇徳天皇は保元の乱の後、罪人として扱われ、皇族としての扱いはされていなかったようです。この頃は、崇徳天皇は怨霊と恐れられることはありませんでしたが、安元3年になると延暦寺の強訴、安元の大火などが相次いで起こり、崇徳天皇の怨霊だと恐れられるようになります。
その後も、朝廷関係者が相次いで亡くなるなどしたため、鎮魂のため崇徳院廟の設置などが行われました。
明治に入っても、崇徳天皇のために白峯神宮が創建されました。
まとめ 崇徳天皇(上皇)の分かりやすいおすすめ本や大河ドラマ
以上、日本三大怨霊の一人、崇徳天皇のご紹介でした。
崇徳天皇について簡単にまとめると
- 父・鳥羽上皇にとても嫌われ、無理やり譲位させられる。
- 上皇になってからは和歌を楽しむ。
- 保元の乱に負けると讃岐に配流される。
- 讃岐では写本を作り後白河上皇に送るも拒否され天狗となる。
- 安元3年頃から崇徳天皇の怨霊が恐れられる。
- 崇徳天皇は繊細な心の持ち主で執着心が強かったのでは
日本三大怨霊の一人、崇徳天皇に興味をもっていただけたでしょうか?
竹田恒泰さんの「怨霊になった天皇」という本には崇徳天皇について詳しく書かれているので、是非こちらの本も読んでみてください。
また大河ドラマ「平清盛」には、俳優の井浦新さんが崇徳天皇を演じられていました。
井浦新さんは、とても歴史に詳しい俳優さんなので、 崇徳天皇の役にはとても思い入れがあったそうですよ。
そんな大河ドラマ「平清盛」も1度鑑賞されてみてはいかがでしょうか。
以上「崇徳天皇の性格と人柄はどんな人?妖怪の由来になった逸話とは?」でした。
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