吉田松陰の経歴と性格は?生い立ちとエピソードから見る人物像

幕末

吉田松陰といえば幕末の時代長州(現在の山口県)を代表する有名人です。

松下村塾で塾生たちに語った多くの名言やエピソードが残されています。

 

一般的に吉田松陰は教育者や思想家だという面が表立って知られていますが、本当のところ彼は兵学者でもありました。

松下村塾からはたくさんの人たちが、政治家や天皇に反旗を翻す獅子となっています。

 

ちょっと待ってください。政治家はいいとして、この獅子とは少し過激な気がしませんか?

そんな吉田松陰について見ていきましょう。

  • 吉田松陰は本当のところどんなことを教えていたのでしょう。
  • そして彼はどのような思想の持ち主だったのでしょうか。
  • 彼の残した名言とは

 

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吉田松陰の生い立ちとは

吉田松陰は1830年に長州萩の松本村(現在の山口県萩市)で生まれました。

5歳で叔父の吉田大助の養子となります。大助は兵学の師範でした。しかし大助が急死したため、同じく叔父の玉木文之進の松下村塾で厳しい教育を受けました。

その甲斐あってか、驚いたことにわずか9歳で明倫館の兵学師範となりました。11歳の時には藩主の毛利義親の前で講義をし、とても感服させたのでした。

いかに厳しい教育を受けてきたかが伺えます。

 

吉田松陰の経歴は

19歳になった吉田松陰は萩以外の地を見てみたいと思い九州へと向かいます。外国との窓口である長崎があったからです。

それまで萩しか知らなかった松陰は世界の大きさを思い知らされたのでした。

そして同時に自国に危機が迫っていることを感じました。

その後今度は東北旅行を思いつきます。しかし彼は藩からの通行許可証をもらう前に出発してしまいました。つまり脱藩と取られてしまうのも覚悟で旅立ったのです。

 

このことがきっかけで彼は士籍を剥奪されました。

それでも彼は懲りることなく、次は外国へ留学したいと考えました。

 

1854年漁師の船を盗んでアメリカのポーハタン号に乗船しましたが、渡航は断られてしまいます。

諦めて下田の奉行所に自首をし、長州へ戻され野山獄に幽閉の身となりました。

翌年出獄し、実家で幽閉となります。

 

1857年に叔父の開いた松下村塾の後を継ぎ、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文などを塾生に持ちました。

1858年幕府が日米修好通商条約を結んだことに激怒した松陰は、老中間部詮勝(まなべ あきかつ)を捕らえて条約破棄を迫りそれが受け入れられない時には上意討ちにするという過激な考えを持ちます。

塾生たちは皆自重をするように言い松陰の暴走を止めようとしました。

それでも松陰は藩に武器などの調達を頼んだのでした。

このような松陰の考え方を藩としても黙ってはおられず再び野山獄に投獄したのでした。

 

1859年安政の大獄に関わったとされ、江戸の小伝馬町牢屋敷に投獄された時、幕府は梅田雲浜(うめだ うんぴん)との関係などを聞き出そうとしました。梅田雲浜は尊王攘夷派で討幕を訴えた儒学者で、松陰とは萩で交流がありました。

その交流の内容を聞かれたとき、なんと松陰は自ら老中暗殺計画などまでしゃべってしまったのです。

幕府も流石にこれは放ってはおけない危険人物だと考え、吉田松陰の斬首刑を言い渡したのでした。

吉田松陰享年30歳の人生でした。

 

エピソードからみる吉田松陰の性格と人物像は

吉田松陰は酒を飲まず、タバコも吸いませんでした。特にタバコは身体に良くないと塾生に窘めたため皆煙管を折りタバコをやめたのでした。

それくらい健康ということに気を使っていた人です。

吉田松陰は処刑されるときも冷静で、自分の首をはねる人にも労いの言葉をかけました。

死に際してもうろたえることない態度は、彼が思う存分生きた証だといえます。

 

身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちるとも 留め置かまし 大和魂

 

この身はたとえ武蔵の野に散っても、私の魂はこの世に生き続けるという意味の松陰辞世の句です。

 

吉田松陰は塾生たちに「諸君狂いたまえ」と言いました。これはクレイジーな意味ではありません。

常識にとらわれず自分の信じた道を進めという気持ちが込められています。

松陰の場合、信じた道が少し過激なものだった故に処刑という結果になったのですから、クレイジーな面もないとは言えませんね。

 

吉田松陰は多くの名言を残しています。何故これほどに残されているのでしょう。

それは彼がメモ魔だった証です。

彼は何でも書き留めていました。友人に送る手紙でさえ複写して書き留めておいたほどです。

だから今も吉田松陰という人の名言を知ることができるのです。

代表的なものをあげてみましょう。

 

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし、故に夢なき者に成功なし。」

 

夢を持って実行しなければ成功は得られないんだと吉田松陰は言っているのです。

 

まとめ 吉田松陰の経歴と性格は?生い立ちとエピソードから見る人物像

吉田松陰の経歴と性格は?生い立ちとエピソードから見る人物像を紹介しました。

 

  1. 吉田松陰は教育家であるとともに、兵学者でもありました。
  2. 彼は尊王攘夷をモットーとし、天皇をないがしろにする幕府に対して不満を抱き続けていました。
  3. 辞世の句をはじめとして多くの名言を残しています。

 

吉田松陰は多くの名言を残した優秀な教育者である反面、自分が正義だと思ったことに対して異議を唱えられると過激に反応した人です。

倒幕に情熱を燃やし尊王攘夷派の代表でした。

しかし塾生たちは、松陰の死後天皇を狙う禁門の変を起こします。

松陰の志は引き継がれてはいなかったのでしょうか。

それでも松陰が穏やかで両親を大切にし、誰にでも親切だったことは間違いありません。

安政の大獄で捕らえられたとき、自分から老中暗殺計画を話したのは過激な自分を止めて欲しかったからで、うっかり喋っちゃったのとは全く違います。ここで自分を止めないととんでもないことになるよと言いたかったのです。

そう考えると吉田松陰という人は、絶えず深く物事を考え行動する人だったのだとわかります。

 

最後にオススメの本を紹介します。

吉田松陰「人を動かす天才」の言葉  楠戸義昭

>>大河ドラマ「八重の桜」

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