伊達政宗の生い立ちと経歴が面白い?性格が分かるエピソードとは

かの有名な伊達政宗。

今では映画やアニメ、ゲームに引っ張りだこの人物です。

「独眼竜」の異名を持ち眼帯をしているイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。

私はよく歴史物のゲームをするのですが、政宗はイケメンに描かれ、とっても強いのでよく使うキャラクターの1人です。

とっても有名な歴史人物の1人でありますが、どのような人物であったのか知らないという方も多いかと思います。

そこで伊達政宗について調べてみることにしました。

調べてみると伊達政宗は眼帯をつけていなかったようです。

そんな伊達政宗についてご紹介していきますね。

 

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伊達政宗の生い立ちは?

伊達政宗は永禄10年8月3日に伊達氏第16代当主・伊達輝宗を父と出羽国米沢城で誕生しました。幼い頃は梵天丸と呼ばれていたそうです。

政宗が5歳の頃、疱瘡を患ってしまいます。疱瘡とは自己免疫疾患とされており幼い政宗は病気によって失明し飛び出した右目を気にして引きこもりがちの日々を送っていたそうです。

 

少し話はそれますが、映画やドラマ、漫画やアニメで政宗は眼帯をよくつけていますよね?

しかし、政宗が眼帯を付けていたという記録は残されていないのです。

映画、漫画などで政宗が眼帯を付け始めたのは1942年の映画「獨眼龍政宗」からだとされています。

この映画から一般的な政宗のイメージ像ができたのです。

 

天正5年の11月に元服をし伊達藤次郎政宗と名乗りました。

それから2年後の天正7年には三春城主の田村清顕の娘、愛姫を正室として迎えます。

政宗が13歳、愛姫が12歳の事でした。今ではこんな早くから婚姻を結ぶことは考えられませんが、この時代での結婚適齢期は10代中頃が一般的でした。

天正9年4月に、相馬氏との戦いで初陣を飾ります。

天正12年に父が隠居すると、家督は政宗に譲られることとなり、伊達家第17代当主となりました。

 

伊達政宗の経歴は?

政宗はまだ若年であることから、1度は家督の相続を断ったそうです。

しかし、家臣の勧めを受けて家督を継ぐ決意をしました。

政宗が家督の相続を受ける前、父・伊達輝宗と蘆名盛氏は同盟を結んでいました。

しかしこの同盟関係は家督相続と父の隠居によって解消されてしまします。

 

ちょうどこの頃、小浜城主・大内定綱と二本松城主・畠山義継が坂上田村麻呂の末裔ともされる田村氏からの支配から離脱してたようです。

小浜城主・大内定綱は蘆名氏に二本松城主・畠山義継は伊達氏に支援を求め、ついでに蘆名氏は父・輝宗と政宗に大内定綱と田村氏の和睦を持ちかけました。

この和睦の仲介役に政宗は当たろうとしますが、結局、和睦することはなく伊達氏と蘆名氏の間にあった同盟関係も修復することができませんでした。

 

天正13年、父・輝宗は小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻るよう持ちかけます。

大内定綱がこれを拒否すると政宗は同年4月に大内定綱の討伐を開始します。

5月に蘆名領檜原を攻撃し8月に大内領小手森城へ攻撃をしかけました。

大内定綱の敗北をみた二本松城主・畠山義継は父・輝宗に和議を申しすも父・輝宗は畠山義継を許さず畠山氏の領地を大幅に減らす罰を与えます。

ところが、父・輝宗は所領安堵の礼に訪れた畠山義継によって拉致され拘束されてしまいました。

 

当時、鷹狩りを楽しんでいた政宗に父が拉致されたという情報が入ると、一目散に畠山義継を追跡します。政宗が畠山義継に追いつくと、畠山義継に向かって鉄砲で攻撃をしました。

この際、父・輝宗も政宗の放った鉄砲によって命を落としてしまします。

なんとも不運な話ですが、政宗による父・輝宗の殺害は計画されていたものなのでは?といった陰謀論もあげられています。

政宗によって殺害された畠山義継の遺体は政宗によって深く斬り刻まれ無残に吊るされたそうです。

 

父。輝宗が亡くなった後は弔い合戦として畠山義継の城であった二本松城を襲撃します。

二本松城救援のために駆け付けた佐竹氏率いる約3万の軍に政宗は矢玉を浴びるなどするも老臣である鬼庭左月斎が捨て身の防衛を行い、政宗はかろうじて撤退することができました。

その後も二本松城に攻撃を繰り返し二本松勢が会津からの撤退を条件に和睦が成立し戦いに幕を閉じました。

その後も政宗は合戦続きの日々を送ります。

 

天正17年5月から6月の間に伊達氏の最大のライバルである蘆名氏と磐梯山麓の摺上原で争いを行います。

この戦いは政宗が勝利しました。敗北した蘆名氏は滅亡を迎えることとなります。

こうして政宗に服属するものが増え、家督を継いでわずか6年で南奥羽の制覇を果たしました。

 

しかし、これだけでは満足しなかった政宗は関東への侵攻を開始します。

関東への侵攻を開始した政宗でしたが、当時勢力を広めていたのは豊臣秀吉でした。

全国制覇を間近に控えた豊臣秀吉は南奥州を支配した政宗に上洛して臣下になる様促します。

 

この時、秀吉の臣下ではない大名は伊達氏と小田原を支配している北条氏だけでした。

北条氏と伊達家は同盟を結んでおり、北条氏はともに秀吉に対抗しようと政宗に持ち掛けます。

 

そんな中、秀吉による小田原征伐が始まると政宗は迷いに迷い小田原攻めに参加することとなります。同盟関係であった北条氏を秀吉と共に襲撃するといった戦であったので、参加するかどうか決める際は家臣たちと何度も相談して決めたそうです。

この小田原攻めによって北条氏が滅亡すると秀吉は全国制覇を果たしました。

 

文禄2年には秀吉による文禄の役にも参加したとされています。この時に伊達軍が身に着けていた戦装束はとても華やかなもので人気があったそうです。

京都ではこの派手な戦装束を真似する若者が多く現れ、このようなファッションをする者を「伊達者」と呼ぶようになるほど人気がありました。

政宗の戦装束は流行の火付け役だったようですね。

 

秀吉が亡くなると、かの有名な関ヶ原の戦いが始まります。

  • 政宗は関ヶ原の戦いにおいて家康の支援を行います。
  • 実際に関ヶ原の戦いに直接参加はしていませんが石田三成率いる西軍側であった上杉景勝を奥羽で足止めする役割を担っていました。
  • この関ヶ原の戦いは家康率いる東軍が勝利を収めました。
  • 関ヶ原の戦いの後、政宗は家康から許可を得て居城を仙台に移しました。

この地で城下町と城を建設し仙台藩が誕生します。

 

政宗はこの地で国作りを始めるとともに外交にも目を向けます。

太平洋貿易を企画し、家臣をヨーロッパへ派遣するなど外交活動を活発に行いました。

しかし、徳川幕府が行った鎖国や禁教によって貿易はなかなか思うようには進みませんでした。

 

その後は慶長19年に起きた大阪の陣に参戦するも特に功績を残すことはなく、外堀埋め立て工事に従事した記録が残されます。

大阪の陣に参加した後は、仙台に戻り国作りに力を注ぎました。当時の記録によると仙台で作られた米が江戸に輸出されると、江戸で食べられる米の三分の一は奥州の米とされるほどであったようです。

寛永11年になると健康に気を使っていた、政宗でしたが体調を崩し寛永13年5月に食道がんによって70歳で亡くなりました。

 

エピソードで知る伊達政宗の性格とは?

病気によって右目を失った政宗でしたがそのコンプレックスからかなりの人見知りで内向的な性格であったようです。

しかし成人してからの政宗は豪快な性格となったのでしょうか、こんな逸話が残されています。

小田原攻めに参加を決めた政宗でしたが、小田原への到着が4か月も遅れたそうで、これに対し秀吉は激怒しました。そりゃ4か月も遅れたら激怒されるのは当たり前ですよね。

 

激怒した秀吉は政宗と一向に会おうとしません。

しかし秀吉に会ってもらえない政宗は千利休から茶を習いたいと前田利家に申し出ます。

4か月も戦に遅刻したうえ、茶のプロである千利休から茶を習いたいなんて驚きですよね。普通ならこんな無礼者に絶対会いたくないはずです。

 

しかし、秀吉は違いました。こんな時に茶を習いたいという政宗に対して秀吉は大変興味を持ち会うことを決意するのです。政宗の言動にも驚きますが、興味を持つ秀吉にも驚きます。

この時、政宗は秀吉に斬られるかもしれないと思い、なんと白装束の姿で秀吉と拝謁したとされています。このような政宗の性格や行動を気に入った秀吉は政宗を許すこととしました。心の広い秀吉でなければ、政宗は斬られていたかもしれません。

 

このような豪快な性格を表す逸話が残される一方で、政宗は大変、筆まめであったようです。大名は普通、自らが手紙を書くということはしなかったのですが、政宗は自ら筆をとり3,000通以上の手紙を送っていたとされます。

以上のエピソードから政宗は豪快な性格を持ちつつも筆まめで、几帳面な一面も持っていたのではないでしょうか。

文禄の役の際は華やかな戦装束を身に着けていたことから、お洒落さんであったかもしれませんね。

 

まとめ 伊達政宗の生い立ちと経歴が面白い?性格が分かるエピソードとは

伊達政宗の生い立ちと経歴が面白い?性格が分かるエピソードを紹介しました。

 

政宗について調べると、政宗には多くのエピソードが残されていることが分かりました。

まとめてみると

  1. 5歳の頃から疱瘡を患い右目が失明していたとされるも家督を継いだ6年後には南奥州を制覇する。
  2. 小田原攻めの際は4か月も遅刻するも、豪快な性格から秀吉に気に入られる。
  3. 晩年は国作りに力を注いだ。
  4. 豪快な性格の持ち主でもあり几帳面な性格の持ち主であった。
  5. 眼帯をつけていたという記録は残されていない。

 

伊達政宗について調べるうちで私が一番驚いたのは、眼帯は付けていなかったってことでした。

ちなみに政宗は「独眼竜」とも言われますが、この異名の由来は中国唐の武将であった李克用のあだ名からとったそうです。

政宗を扱った作品は多く制作されていますので、一度鑑賞されてみてはいかがしょうか。

きっと政宗に魅了されること間違いなしです。

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