高杉晋作の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

幕末の日本で名前の上がるのは、西郷隆盛のいた薩摩藩、桂小五郎のいた長州藩などですが、その長州藩に高杉晋作という人物がいたことは皆さんご承知でしょう。

「面白きこともなき世を面白く・・・」幕末の嵐の中を駆け抜けた高杉晋作の

  • 高杉晋作の生い立ち
  • 高杉晋作の経歴や最後
  • 高杉晋作の人柄や性格

 

これらをエピソードを交えながら見ていきましょう。これを読めば高杉晋作の小説やドラマなどがより面白く興味深く見れること間違いなしです。

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奇兵隊・高杉晋作の生い立ちとは?

高杉晋作は1839年8月長州藩の上級武士である 高杉小忠太の長男として生まれました。

  • 母はみちといい、晋作には3人の妹もいました。
  • 高杉家は戦国時代の毛利元就から代々毛利家に仕えていた名門です。
  • 晋作の父も祖父も藩の主要な役割を果たしてきたことで、高杉家の武士としての誇りを持って育ちました。

 

そんな家庭のもとで晋作はとても大切に育てられました。

「吉松塾」へ通い、久坂玄瑞と出会う

晋作が育った屋敷は萩城下の菊谷横丁にありましたが、すぐ近くに桂小五郎の屋敷もありました。おそらく子供の頃から交流があったでしょう。

  • 晋作が8歳になると寺子屋「吉松塾」へ通うようになりました。
  • ここで生涯の友となる久坂玄瑞と出会います。

 

勉強嫌いの晋作とは違い、熱心に勉強する玄瑞は晋作はおろか他の子供より比べものもないくらい優れていました。

晋作は10歳の頃天然痘にかかります。少しばかり身体が弱かったのか、この後から剣術に懸命に打ち込むようになりました。

 

高杉晋作が14歳になった頃、長州藩士の子供たちのための学校「明倫館」に入ります。

  • そこでも勉強嫌いは直らず、剣術にばかり打ち込んでいました。
  • 流派は柳生新陰流で後に免許皆伝にまでなっています。

吉田松陰の私塾「松下村塾」に入塾

18歳になると吉田松陰の私塾「松下村塾」に入ります。ここでも勉強嫌いは相変わらずでしたが、吉田松陰は、彼と久坂玄瑞を競わせることを思いつきます。

  • 幼い時から勉強熱心な久坂玄瑞に刺激され高杉晋作もやがて勉強するようになります。そしてメキメキと上達をし、久坂玄瑞と肩を並べるほどにまでなるのでした。
  • その上晋作は吉田松陰にすっかり感化され敬愛するほどになっていました。
  • ただ晋作の家では吉田松陰をよく思っていなかったため、松下村塾に行くのも親に黙っていました。

 

家柄のせいか親には逆らえなかったのが事実です。

 

高杉晋作の経歴や最後は?

倒幕精神に火をつける

松下村塾に通ううち、塾生たちは次々と江戸へ遊学しました。そのうち晋作の祖父が亡くなります。これで箍が外れたように晋作も江戸へ遊学したのでした。

彼が江戸にいる時、吉田松陰が安政の大獄で捕まり江戸へ送られてきました。

晋作は松蔭のために差し入れをするなど献身的に尽くしました。

しかしそれを心配する親に国元へ呼び戻されます。

高杉晋作が国元へ戻ると、吉田松陰が処刑されたことを知らされ男泣きしたのです。

そしてこのことが高杉晋作の倒幕精神に火をつけたのでした。

まさと結婚

吉田松陰の死から立ち直れない日々を送っていた晋作に、父が見合いの話を持ってきました。

相手は同じ長州藩士の娘でまさというとても綺麗な人でした。

1860年高杉晋作はこの女性と結婚するのでした。

軍艦教授所に入所

しかしその年高杉晋作は、江戸の軍艦教授所に入所することになりました。

晋作は意気揚々と江戸へと丙辰丸という長州藩の軍艦で向かうのでしたが、ひどい船酔いと退屈な日々のせいですっかり意欲をなくしてしまいます。

江戸に着くと軍艦教授所への入所を勝手に取りやめてしまいます。

江戸で勉強したい晋作でしたが許されず故郷へ戻るよう言われます。

晋作は東北を回って剣術や学問の修行をしながら帰りました。

帰ると今度は自宅にこもり勉強すると言い出しました。なんと気まぐれな、自由な感覚の持ち主だったのでしょう。

英国公使館焼き討ち事件を起こす

この後また江戸へ江戸湾警備のために出ていましたが、1862年に幕府使節随行員として上海行きを命じられます。

そして渡航まで長崎にいる間、藩にもらったお金で豪遊するという一面、外国人を訪ねて海外情勢を調べたりもしていました。

晋作が上海に渡り見たものは、アヘン戦争により半植民地化となった清国人の姿でした。この時晋作は日本もこういうことになりうると危機感を抱いたのでした。

江戸に戻った晋作は久坂玄瑞らと英国公使館焼き討ち事件を起こします。

吉田松陰の亡骸を改葬

1863年久坂玄瑞らと小塚原の刑場から吉田松陰の亡骸を掘り出し世田谷若林村の大夫山に改葬しました。処刑から3年だった師匠の遺体はすでに白骨化しており晋作はこれに絶句したと言います。

吉田松陰が処刑された時晋作は江戸にいなかったため、どうしても自分の手で師匠を弔いたかったのです。

その後は故郷に戻り、松蔭のいた松本村で妻と2人穏やかな時を過ごしました。

奇兵隊を結成

この頃長州藩は下関海峡を通るアメリカ船ペングローブ号に大砲を撃ち、その後も次々と外国船を狙い砲撃を続けましたが、逆にアメリカやフランスの報復攻撃を受け惨敗していました。

藩は晋作に策を講じてほしいと呼び戻します。

晋作は志のあるものを集めて「奇兵隊」を作ることを提案します。

「奇兵隊」は身分を問わず力量のあるものを集めました。

初代奇兵隊総督となった晋作は藩の政務役についていました。奇兵隊は成長し、最盛期には600名を超えるほどにまでなりました。

この奇兵隊に影響され各地で多くの諸隊が作られました。

奇兵隊は藩の正規軍と衝突することが多く、晋作はその責を取るため総督の任を外れたのでした。

連合艦隊と和議交渉にあたる

長州藩は、八・一八政変、池田屋事件、蛤御門の変と続く事件の中で「朝敵」とされ、久坂玄瑞や吉田稔麿ら松下村塾の仲間たちが亡くなっていきました。

その頃晋作は自宅の座敷牢にいたのでしたが、座敷牢から出された晋作は、連合艦隊と和議交渉にあたるよう命じられます。

連合国側は300万ドルの賠償金と彦島の租借要求でした。

最初はどちらの要求にも耳を貸さなかったのですが、幕府より賠償金を支払うという意思があったのでそちらは譲歩したものの、彦島の租借だけは首を縦に振りませんでした。

晋作は上海で半植民地化された様子を見てきた人ですから彦島から日本全体が同じような憂き目に遭うことをわかっていたのです。

イギリスはこの要求を引き下げました。この時晋作がいなければ日本にも香港のような植民地化された場所がいくつもできていたかもしれません。

長州藩の倒幕活動を行う

その後晋作は藩に戻っていましたが、幕府軍の長州攻めに身の危険を感じたため、福岡へ逃げ隠れました。

その間に幕府軍は長州藩の三家老を切腹させ、奇兵隊ほか諸隊の解散をさせました

下関に戻った晋作は、幕府に恭順する藩に対して立ち上がります。功山寺でわずか80名ほどの遊撃隊を率いて下関を目指し、見事下関を占拠しました。それに感化され奇兵隊も立ち上がり、藩の中から幕府軍を一掃することに成功したのです。

この晋作のクーデターが長州藩の倒幕活動へと道筋を立てたのです。

その後はまた攘夷派に狙われて愛妾おうのを連れて四国へ逃げます。

第二次長州征伐が勃発

その後桂小五郎が長州に戻ったと聞き、晋作も帰国します。1866年第二次長州征伐が起きます。

晋作が長崎で無断で購入したオテントサマ丸で幕府軍に夜襲をかけ大島を奪還します。

次は小倉へ戻り、奇襲作戦をかけ幕府軍の砲台や火薬庫を潰していったのです。

そうしているうちに将軍徳川家茂か亡くなると幕府軍は撤退を始めました。その中でも小倉城は抗戦を続けていましたが、自ら火を放ち田川の方へと落ちていったのでした。

8月幕府軍はついに長州藩から手を引いたのでした。

高杉晋作の最期

翌月晋作は喀血します。症状は1年ほど前からあったのですが、結核が晋作の体を徐々に蝕んでいたのです。

 

1867年4月、父母や愛妾そして晋作が福岡に逃げた時匿ってくれた野村望東尼が見守る中息を引き取りました。まだ27歳の若き死でした。

 

【エピソード】高杉晋作の人柄や性格がわかる逸話

高杉晋作は

  • 辞世の句は後半は女性が詠んだ
  • 高杉晋作は子供の頃からプライドが高かった
  • 高杉晋作は色々な人を振り回す人物だった

とされています。

辞世の句は後半は女性が詠んだ

高杉晋作の辞世の句として有名な「おもしろきことのなき世をおもしろく」という句の下の部分は、死に際にそばにいた野村望東尼が代わりに詠んだものでした。晋作には下の句を詠む力もなかったのです。「すみなすものは心なりけり」、この下の句を聞いて晋作は面白いなと言って静かに息を引き取りました。

もっと生きてもっと面白き世の中を見たかったことでしょう。

子供の頃からプライドが高かった

高杉晋作は今で言うエリートのボンボンでしたからかなりプライドも高かったようです。

少年の頃遊んでいた凧を通りがかりの武士に踏まれ、そのまま行こうとした武士に立ち向かい土下座までさせたと言います。

正義感と負けん気の強さが伺えますね。

色々な人を振り回す人物だった

松下村塾からの学友である伊藤博文は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と晋作のことを言っています。

まさしくその通りの人だったのでしょう。親や藩を振り回し、突拍子もなく行動するあたりに周りもあたふたしたことでしょう。

 

まとめ 高杉晋作はどんな人?大河ドラマや映画は?

高杉晋作の経歴や人なりをエピソードを交えて見てきましたがいかがでしたか。

正に生き急いだとしか言えないほどに、短い生涯の中でたくさんのことを成し遂げていますね。

 

高杉晋作のことをもっと知りたい方にこちらがおススメです。

小説

  • 「高杉晋作 維新の先駆けとなった長州の異端児 」相澤邦衛 文芸社

長州の異端児。「気合いの人」と言われた高杉晋作の人となりを語る一冊

 

  • 「吉田松陰と高杉晋作の志 」 一坂太郎 ベスト新書

吉田松陰の与えたエネルギーが高杉晋作の原動力となっている。そんな2人の交流を描いた一冊。

 

映画

  • 「幕末太陽伝」 1957年 日活 演者 石原裕次郎

幕末の志士たちをコメディで表現した物語

 

テレビドラマ

  • 「花燃ゆ」2015年NHK大河ドラマ 演者 高良健吾

吉田松陰の妹を主人公に、松蔭と周りの人たちの人生を描いた物語

以上「高杉晋作の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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