あなたは幕末時代に活躍した吉田松陰という人物をご存知でしょうか。
大河ドラマ「龍馬伝」や「八重の桜」「花燃ゆ」に登場し、高杉普作や久坂玄瑞と並び、人気のある偉人です。
松下村塾という私塾を開いていた松陰でしたが、一体どのような講義を行っていたのでしょうか。
そこで今回は吉田松陰の
- 生涯
- 松下村塾の弟子
- 講義内容
- 子孫
- 人気の理由
をご紹介いたします。
これを読めば、吉田松陰の生涯や、松下村塾の弟子、講義内容、また子孫や人気の理由を知ることができますよ。
吉田松陰はなぜ人気なの?
吉田松陰の生涯について簡単にご紹介いたします。
吉田松陰は文政13年(1830年)8月4日、現在の山口県萩市である長州萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として誕生しました。
天保5年(1834年)に叔父・吉田大助の養子となり吉田松陰と名乗り始めます。
しかし、翌年になると叔父・吉田大助が亡くなってしまったため、同じく叔父・玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けるようになります。
その後
- 9歳で明倫館の兵学師範に就任
- 13歳で長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施
- 15歳で山田亦介から長沼流兵学の講義を受け山鹿流兵学などの江戸時代の兵学を学ぶ
このように勉学に励んだ松陰でしたが、日本と清国の争いであるアヘン戦争で、山鹿流兵学を用いていた日本軍が負けると、松陰は山鹿流兵学は時代遅れであると感じ、西洋の兵学を学ぶため、西洋文化が盛んであった九州に遊学しに行きました。
嘉永6年(1853年)黒船に乗りペリーが浦賀に来航すると、来航を遠望観察していた松陰は西洋文明に関心を持ち、西洋留学を決意します。
その後、嘉永7年(1854年)ペリーが日米和親条約締結の為に再び日本に来航すると、松陰は留学をするため金子重之輔と共に小舟で旗艦ポーハタン号に近づき、勝手に旗艦ポーハタン号に乗船しました。
しかし、渡航を拒否されたうえ、小舟も流されてしまったため自ら出頭し伝馬町牢屋敷に投獄となります。
安政2年(1855年)に出獄を許された松陰はその後、安政4年(1857年)叔父・玉木文之進が開いていた松下村塾の名前を引き継ぎ、開塾しました。
安政5年(1858年)江戸幕府が日本にとって不利である日米修好通商条約を朝廷の判断なしで結びます。
これに対し怒りを露わにした松陰は老中首座・間部詮勝が孝明天皇に会うため上洛する際、日米修好通商条約の破棄と攘夷を実行を迫り、それに応えられなければ老中首座・間部詮勝を殺害するといった間部要撃策を企てます。
この計画のために武器の借用を幕府に要求するも、幕府はこれを拒否したため、参勤交代のため京都の伏見を通過する毛利敬親を待ち受け共に京入りするといった伏見要駕策を計画しました。
しかしこの計画に弟子の
- 久坂玄瑞
- 高杉晋作
- 桂小五郎
などが反対します。
弟子に反対された松陰は絶望し
- 間部要撃策
- 伏見要駕策
に対する幕府の対応に不信感を抱き、倒幕を計画します。
この結果、松陰は長州藩から危険人物とみなされ野山獄に幽囚となりました。
安政6年(1859年)幕府の大老・井伊直弼は幕府を批判するものや、倒幕を企てる者に弾圧を行います。
この弾圧は安政の大獄と呼ばれています。
倒幕運動を行っていた梅田雲浜はこの弾圧によって、幕府に捕えられました。
この時、梅田雲浜が萩に滞在していた際、松陰と面会していたということから松陰も弾圧に連座し、幕府に捕えられ、江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されました。
幕府に捕えられると、松陰は幕府から梅田雲浜とどのような話をしていたのか。と問われます。
ここで、梅田雲浜と幕府を批判した話をしていた。など言わなければ放免されたのですが、松陰は正直に老中首座・間部詮勝の殺害計画である間部要撃策を進んで白状しました。
この白状を聞いた幕府は、松陰は自ら罪を認め白状したのだから島流しの刑が妥当と考えていました。
しかし松陰は自ら、老中暗殺の計画を企てたのだから死罪が妥当である。と主張したため幕府が死刑を宣告し、松陰は安政6年10月27日、30歳で斬首刑によって亡くなりました。
吉田松陰の人気の理由
吉田松陰は、
- 思想家
- 教育者
- 山鹿流兵学師範
の肩書を持つ人物です。
叔父・玉木文之進の私塾である松下村塾で兵学を学んだ松陰は、その後、松下村塾の名前を継承し開塾しました。
この塾生には
- 久坂玄瑞
- 吉田稔麿
- 入江九一
- 高杉普作
- 伊藤博文
- 山縣有朋
などがおり、幕末から明治期にかけ活躍した人物を多く輩出します。
安政4年(1857)に開塾するも翌年には松陰は投獄となたっため、松陰が指導したのは非常に短い期間でした。
しかし、この短い期間の間で、明治維新の中核人材となる人物を多く輩出したため、松陰の教育指導方針に注目が集まりました。
このようなことが、吉田松陰の人気の理由とされています。
吉田松陰の家族。妻や子供。子孫は?
吉田松陰の家族をご紹介いたします。
松陰は長州藩士・杉百合之助と児玉太兵衛養女・滝から次男として誕生しました。
所雲の兄妹は
- 兄・杉民治
- 妹・千代(児玉祐之と結婚)
- 妹・寿子(楫取素彦と結婚)
- 妹・艶(早死)
- 妹・美和子(松陰の弟子・久坂玄瑞と結婚後、楫取素彦と再婚)
- 弟・敏三郎
がいました。
松陰は生涯、結婚することはありませんでした。
2度の牢獄を経験し、その間、松下村塾で指導を行っていたのですから結婚する暇がなっかったのではないでしょうか。
子供がいなかった松陰は兄・民治の息子・小太郎を養子として迎えます。
吉田家は松陰亡きあと、養子となった小太郎が後を継ぐこととなり、その後、小太郎の甥・彦能が吉田家を継ぎました。
しかし甥の彦能が20代の若さで亡くなってしまったため、兄・民治の娘・道子が吉田家の跡取りとなりました。
ですので、現在、吉田松陰の子孫として続いているのは松陰の兄・民治の系統ということとなります。
松下村塾の門下生は誰? 教えていた講義内容は?
吉田松陰は安政4年(1857)に叔父・玉木文之進が開いていた松下村塾から名前を継ぎ、開塾しました。
50人ほどの門下生がいたとされ、その中には
- 久坂玄瑞
- 吉田稔麿
- 入江九一
- 高杉普作
- 伊藤博文
- 山縣有朋
- 宍戸璣
など、幕末期に活躍した人物や、明治維新の中核となった人物がおり、短期間の間で、多くの幕末、明治時代を活躍した偉人を輩出しました。
この塾では
- 山鹿流兵法
- 倫理学
- 地理学
- 歴史
- 経済
- 中国思想
などを指導していたとされています。
講義というと、指導者が一方的に弟子に指導を行うといったイメージがありますが、松下村塾の場合、松陰自らが弟子と意見を交わした講義を行っていました。
時には松陰と弟子の1対1の講義を行うなども行っていたとされています。
松陰の塾では
- 座学だけではなく登山や水泳なども指導していた
- 自習時間を設けた
- 読書の時間を設けた
- 課題を与え、提出させていた
- 成績表があった
- 時間割は無かった
- 登校の義務もない
- テストはない
とされ、かなり自由な塾でありました。
単純に指導を行うのではなく、弟子の発言の場を設け、弟子たちの自主性を育ませることによって、幕末、明治時代で活躍する弟子を多く輩出したのです。
身分も年齢も関係なく入塾できた松下村塾は「生きた学問」を学べる塾であったとされています。
まとめ 吉田松陰や松下村塾がわかるドラマや映画はある?
吉田松陰の生涯や家族、松下村塾の弟子や講義内容をご紹介いたしました。
簡単にまとめると吉田松陰は
- 西洋文化に興味を持つ
- 松下村塾を開塾するも、指導した期間は2年ほど
- 短期間の間で、幕末、明治にかけて活躍した人物を多く輩出する
- 30歳で斬首刑によって亡くなる
- 結婚はしておらず、子供はいない
吉田松陰は、幕末時代に活躍した教育者でした。
生涯2度の投獄を経験しましたが、その間、松下村塾を開き、「生きた学問」を指導し明治維新の中核となる人物を多く輩出させました。
しかし、その塾生の多くは明治維新後におきた明治政府に対する士族反乱である萩の乱に参加し、刑死しています。
塾生の多くが明治政府に反乱していたため庶民からは、批判の目で見られていました。
このように厳しい批判の目を向けられた松下村塾でしたが、現在では教育者の鑑として吉田松陰と松下村塾は注目されています。
明治維新以降、批判の目で見られていた松下村塾が注目されるようになったのは吉田松陰の弟子たちが、明治政府の重臣に就き、活躍したからではないでしょうか。
そんな吉田松陰や松下村塾が登場する大河ドラマは「花燃ゆ」です。
この作品で
- 吉田松陰を俳優の伊勢谷友介さん
- 久坂玄瑞を俳優の東出昌大さん
- 高杉晋作を俳優の高良健吾さん
が演じられました。
他にも
- 大河ドラマ「八重の桜」では吉田松陰を俳優の小栗旬さん
- 大河ドラマ「龍馬伝」では吉田松陰を俳優の生瀬勝久さん
が演じられています。
これを機に吉田松陰に興味を持った方は大河ドラマ「花燃ゆ」「八重の桜」「龍馬伝」を見てみてください。
以上「吉田松陰の人気の理由と子孫や松下村塾の弟子、講義内容」のご紹介でした。
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