2015年の連続テレビ小説「朝が来た」で一躍名前を全国区に広げた、五代友厚。
ドラマの中では、主人公・あさのよきアドバイザー的存在として活躍しました。
大阪経済界の重鎮の一人とされ、大阪経済を立て直すために尽力した五代友厚とは実際どんな人物だったのでしょうか。
今回は、五代友厚について
- 五代友厚の生い立ちや家族を紹介
- 五代友厚の性格がわかる面白エピソードとは
- 五代友厚の人物像が分かる面白い逸話とは
を紹介します。
これを読めば、五代友厚の生い立ちや家族構成・エピソード・逸話などがわかります。
五代友厚が大阪経済に与えた影響や生涯を通して成し遂げたことなどがわかります。
ちなみに、この薩英戦争で英国の捕虜になりなった薩摩藩士が居ったがよ
彼は明治維新後に実業家として名を馳せ瓦解寸前やった大阪の経済を立て直し『近代大阪経済の父』と呼ばれたねやそう、その男の名は五代才助…のちの五代友厚ぜよ#西郷どん #あさが来た pic.twitter.com/0zc6NMOH1Z
— 坂本龍馬 (@historical_per) 2018年7月1日
五代友厚の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い
新島八重の生い立ちや家族を紹介
五代友厚は、江戸時代末期から明治時代中期を生きた薩摩藩、現在の鹿児島県出身の武士、実業家です。
五代友厚は天保6年(1836年)に、「三国名勝図会」の執筆者である五代直左衛門秀尭の次男として薩摩国鹿児島城下(現・鹿児島市)に生まれました。
当時の薩摩は質実剛健を尊ぶ気風であったため、友厚もそ気風の元に育てられました。
8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学、文武両道を学びました。
友厚が14歳の時、記録奉行であり、琉球交易係を兼ねていた父親に世界地図を見せられます。
それは、当時の藩主・島津斉興がポルトガル人から入手したものでした。
父から地図の模写を命じられた友厚は、地図を2枚複写したのち、1枚を自分の部屋に貼りました。
江戸末期という日本が混沌の渦に巻き込まれていたこの時代、五代家は親子共々世界に目を向けていたということが分かるエピソードですよね!
五代友厚の性格がわかる面白エピソード
安政元年(1854年)、浦賀沖にペリーが来航し世の中が騒然とする中、友厚は兄が鎖国論者であるにも関わらず、開国論者の立場にたちます。
「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮い立った友厚は、安政2年(1855年)、藩の郡方書役助となります。
貿易商社設立契約に失敗
慶応元年(1865年)、藩命により薩摩藩遣英使節団の一員として英国に出発、欧州各地を見て回りました。
ベルギー・ブリュッセルではモンブラン伯爵と貿易商社設立契約に調印します。
これは、今後の薩摩藩の財政に大きく寄与するものとみなされましたが、諸要因により失敗に終わります。
しかし、この経験がその後の五代の経営手腕に大きな影響を与えることになりました。
失敗を糧にする姿から、五代の志の強さが感じられますよね!
西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に奔走
また慶応4年(1868年)、戊辰戦争の際には西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に奔走しました。
その結果、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、大阪に赴任、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致しました。
後に、初代大阪税関長となり、五代による大阪税関史の幕開けとなりました。
後世に繋がる業績を残す
明治2年(1869年)退官後には、硬貨の信用性を高めるため金銀分析所を設立します。
また、紡績業・鉱山業・製塩業・製藍業など様々な事業の発展に精力的に尽力します。
他にも、大阪の財界人・第四十二国立銀行の設立者であり頭取であった田中市兵衛らとともに様々な施設の設立にあたっています。
詳細は、次のとおりです。
- 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)
- 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)
- 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)
- 大阪製銅
- 大阪貿易者
- 共同運輸会社
- 神戸桟橋
- 大阪商船
- 阪堺鉄道(現・南海電気鉄道) など
こんなにたくさんの後世に繋がる業績を残すことができたのも、ベルギー・ブリュッセルでの失敗から学んだ経営手腕と五代の人望あってこそのことですよね!
五代友厚の人物像が分かる面白い逸話とは
五代は幕末の頃より、富国策としていち早く鉱山業を掲げます。
そして明治政府の銀鉱脈発見に先駆け、長い事放置されていた鉱山より、銀、銅などを採り出す製錬技術を海外から導入しました。
最初に手掛けた奈良県吉野郡天川郷で得た多額の利益を資金源に栃尾村の天和鉱山や福島県の半田銀山など数多くの鉱山の再開発を手掛けました。
まさに、鉱山王として知られる五代の本領発揮ですね!
また明治初期には、維新変動の波により大阪経済に低迷の時が訪れます。
そこで五代は、今日の大阪商工会議所の礎となる大阪商法会議所設立の嘆願書を財界指導者の有志15名が大阪政府に提出します。
嘆願書の集め方は、強引な勧誘で決め文句が、「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」というものでした。
結果的には60人の同志を獲得することに成功し、五代は初代回答に就任しました。
この強引な勧誘、実に五代らしい手腕ですよね!
その後、明治18年(1885年)、東京の自邸にて逝去します。
49歳という若さでした。
まとめ:五代友厚はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
五代友厚の生立ちや家族、面白エピソードや逸話について紹介しました。
最後に五代友厚についてまとめておきますね!
- 幼い頃から、世界に目を向けるような環境に育った
- 藩命により薩摩藩遣英使節団の一員として英国に派遣された
- 開国論者の立場を貫き、戊辰戦争では西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に奔走した
- 西郷隆盛や、大久保利通などの要人や長州藩の高杉晋作や、土佐藩の坂本龍馬とも交流があった
- 様々な事業の発展や、施設の設立に心血を注いだ
- 現在の大阪経済の礎を築いた
ここには書ききれないほど様々な功績を残し、現在の経済発展にも大きな影響を与えた五代友厚。
鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪中央区・大阪証券取引所前、大阪商工会議所前にそれぞれ銅像が建立されています。
五代友厚の情熱に満ちた生涯をもっと知りたい!という人にはこの2作品がオススメです。
- 朝の連続テレビ小説「あさが来た」(2015年/演・ディーン・フジオカ)
- 五代友厚(河出文庫/著・小田作之助)
ぜひ、五代友厚の生涯をかけた日本経済への思いを感じてみてください。
以上、「五代友厚の生い立ちや家族、面白エピソード・逸話」でした。
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