日蓮の性格と経歴とは? 日蓮宗(法華宗)を開宗した日蓮上人の生い立ちとエピソード

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日蓮の生きた時代

日蓮は、承久の乱の翌年に生まれました。

承久の乱(出典:Wikipedia)

北条氏による執権政治の基盤が着実に整えられていく時期にあり、北条泰時、北条時頼らによって鎌倉幕府は最盛期を迎えました。

北条泰時の時代の御成敗式目の制定や北条時頼の時代に宝治合戦で三浦氏が滅び、北条氏の独裁体制の構築は着実に進められていきました。

日蓮の生涯の前半は、このような北条氏の独裁体制が築いていく過程に当たります。

この中で日蓮は独自の思索を深めていくことになるのです。

日蓮の生涯の後半には、元寇が日本を襲いました。

中国を統一したフビライ・ハンは日本への侵攻を企図し、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2度にわたり、モンゴル軍が攻め寄せました。

この元寇は何とか乗り切ったものの、防衛戦であったため御家人に恩賞を与えられなかったことなどから御家人の不満と衰退は決定的なものになり、反対に北条氏のみが得宗を中心に栄えていく得宗専制政治が行われるようになりました。

得宗とは、北条氏の嫡流のことであり、時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代が得宗と呼ばれ、北条家の家督を継いでいきました。

得宗がクローズアップされたのは時頼が大病を患い、嫡男の時宗もまだ幼少であったときでした。執権の職はとりあえず北条氏の傍系がピンチヒッターとして務めることになります。時頼は回復しますが、執権の職には戻らず、いうなれば「大御所」として「院政」を始めました。このような時頼の地位が「得宗」と呼ばれるようになりました。

これ以降、得宗が幼いなど執権を務められない時には、北条一族の誰かが代役を務め、得宗が執権を務められるようになれば執権を得宗に返す、さらに執権を分家に譲った後も本家の当主は「得宗」として権力をふるうという仕組みが出来上がりました。

この得宗による専制的な政治は元寇の前後から顕著になり、社会は貧富の差が大きくなりました。このような社会情勢を日蓮は、問題視していました。

承久の乱元寇という鎌倉幕府の政治のターニングポイントに日蓮は居合わせたことになります。

このような政治の転換期であったからこそ日蓮は独自の仏教を展開していったということができるでしょう。

日蓮の生涯

鎌倉に来るまで

日蓮は、1222年2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生しました。

日蓮の叙述によれば漁業を営んでいた家の生まれであると考えられます。

ただし、両親は荘園をもっている領家から手厚く擁護されており、日蓮自身、東条郷にある清澄寺で初等教育を受けているので、両親は一番貧しい階層ではなく、漁業のまとめ役をしていたものと思われます。

少年時代の日蓮は、承久の乱で真言密教の祈禱を重んじていた朝廷が鎌倉幕府に敗れたのはなぜか、という問題意識をもっていました。

また、仏教にはなぜ、いろいろな宗派が存在し、互いに攻撃しあっているのかという疑問がありました。

清澄寺には、こうした日蓮の疑問に答えを示せる僧侶がいなかったので、日蓮はそれまでにあった宗派の教えをそのまま受け入れることはせず、自分で経典を読み、経典をもとにして独自の世界観を深めました。

日蓮は16歳の時、出家し、是聖房蓮長と名乗るようになりました。

そして、日蓮は、自らの疑問に答えを出すために、各宗派の教義を確かめるため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学しました。

遊学の中心は延暦寺で、 日蓮は、妙法蓮華経(法華経)を中心とする文献的な学問と、 衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは元から具わっていることであるいわゆる天台本覚思想を学んでいます。

遊学を終えた日蓮は1252年に清澄寺に戻りました。

遊学の成果を示す場で日蓮は、 念仏と禅宗が法華経を誹謗する横暴を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱えることの重要性を説きました。

日蓮の独自性は、念仏などと並んで題目を唱えることを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張したことにあります。

日蓮が念仏と禅宗を攻撃して排除したことは大きな波紋を広げました。

日蓮は念仏派や禅宗から攻撃される危険があったので 清澄寺を離れました。そして、政治の中心である鎌倉へ向かうこととなります。

鎌倉では、日蓮は主に著述で活動し、数々の著作を残します。

その中でも「立正安国論」は、 鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出しました。

「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因は為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあるとして、 時頼を改心させようとしました。

日蓮は、災難を止めるためには時頼が悪法の帰依をやめて正法に帰依することが必要であると主張しました。

さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、内乱と他国からの侵略が起こると予言し、警告しました。

しかし、日蓮の警告は無視されて、念仏勢力から激しい反発を受けて下総に移りましたが、鎌倉に戻ってくると捕えられてしまいます。

そして、1261年に伊豆に流罪となりました。

伊豆配流

伊豆流罪中、日蓮の監視に当たったのは伊東の地頭・伊東八郎左衛門祐光でした。

八郎左衛門は念仏を信仰していましたが、病気になった時、日蓮によって治ったので、日蓮に帰依するようになりました。

また、伊豆流罪中、日蓮が岩本実相寺に滞在していた時に門下となった日興が伊豆に赴いて日蓮の弟子になったといわれています。

1263年2月22日、日蓮は北条時頼の判断で許されて伊豆流罪を解かれました。

1268年にはモンゴルからの国書がもたらされ、通交しない場合には軍事的侵攻もありうるという脅迫めいた文書で鎌倉幕府を威嚇しました。

日蓮は、モンゴル国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、諸宗との公開討論を北条時宗をはじめとする幕府の首脳に要求しました。

しかし、幕府は日蓮の要求を無視し、逆に危険な集団として日蓮教団を弾圧しました。

日蓮は幕府に呼び出され、尋問されますが、日蓮を迫害するならば内乱と外国からの侵略は不可避であると主張し、佐渡へ流罪となります。

佐渡配流時代

佐渡に到着した日蓮は、粗末な環境の中で弟子たちの疑問に答えようと著述に励みました。

疑問というのは、なぜ法華経を信仰する者には加護があるはずなのに、日蓮たちは迫害されてばかりなのかということでした。

「開目抄」の中で日蓮は、昔の例からしても、正しいことを主張する者は難を受けるのがむしろ当然であるということなどを主張して疑問に答えました。

佐渡時代において、念仏を信仰する人々に常に命を狙われる危険な環境に身を置きながら、日蓮は独自の思索を発展させていきました。

また、日蓮の教えに触れた佐渡の人々からは帰依する人も多く現れました。

モンゴル軍の襲来が現実のものとなりつつあり、佐渡配流も讒言であることが明白になったため、北条時宗は日蓮の赦免を決定し、佐渡配流は解かれました。

身延山時代

鎌倉に戻った日蓮は幕府から、モンゴル軍襲来の時期について聞かれましたが、年内に襲来すると答え、襲来回避の祈りを頼まれましたが、幕府が諸宗に帰依するのをやめて法華経に帰依するのが先であるとしたため、日蓮の言うことは今度も幕府に聞き入れられませんでした。

これ以上幕府に何を解いても無駄と感じた日蓮は鎌倉を去り、 甲斐国身延(現在の山梨県身延町)に移り、そこで著述活動を行うようになりました。

日蓮は蒙古襲来の意味を考えたり、多数の門下に対し、法華経の講義を行ったりしています。

蒙古襲来が自然現象によって失敗に終わったことに浮かれることを戒め、新たな襲来に備えるべきであることを日蓮は説きました。

1282年10月13日多くの門下に見守られて、日蓮は入滅しました。

日蓮は身延の地に草庵を構えており、ここがそのまま廟所となり、日蓮宗の総本山である久遠寺となりました。

日蓮の四大法難

伊豆法難

伊豆法難は、伊豆(現在の静岡県伊東市)に流された日蓮が、伊豆に到着する前に伊東沖の「俎岩(まないたいわ)」というところに置き去りにされた事件のことを言います。

漁師に助けられて、日蓮は無事でしたが、これが伊豆法難として語り継がれています。

小松原法難

1264年、日蓮は母が危篤であると聞いて、故郷の安房国東条郷片海に帰りましたが、 東条郷の地頭・東条景信はこれを好機と見て日蓮を襲撃する計画を練りました。

日蓮と弟子に対し、東条景信は武装して数百人で日蓮一行を襲いました。

日蓮は頭部を負傷し、左手を骨折し、重傷を負った他、弟子たちも討ち死にしたり、重傷を負ったりしました。

この日蓮への襲撃が小松原法難といわれるものです。

松葉ヶ谷法難

1260年に日蓮が鎌倉幕府の五代執権北条時頼へ『立正安国論』を提出し、 当時起こっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を始めとする念仏や禅などの邪教が原因であるとし、正法を法華経とするように幕府に宗教の転換を迫りました。

余りにも念仏を批判する内容であったため、浄土教の信者はこの出来事から1カ月後に日蓮の草庵を夜間に襲撃し、焼き討ちしました。

日蓮は、下総国に避難しましたが、この事件の背景には鎌倉幕府の実力者も関与していたらしく鎌倉に戻った日蓮は伊豆に流されました。

龍ノ口法難

モンゴルからの国書到来に際し、諸宗との公の場での対決を要求した日蓮を危険とみなして、1271年侍所所司の平頼綱は日蓮の逮捕に向かい、草庵を荒らし暴行の限りを尽くしました。

それでも日蓮は平頼綱に対して日蓮を迫害するならば内乱と外国からの侵略は不可避であると主張し、自説を曲げようとはしませんでした。

そこで、平頼綱は日蓮を 斬首しようとして、龍ノ口の刑場へ連行しました。

日蓮を斬首しようとすると、江の島の方角から強烈な光が現れ、斬首しようとする者の目がくらみ、斬首は結局中止されました。

日蓮は佐渡に流されることになったのですが、日蓮の他にも 鎌倉の門下260余人がリストアップされ、逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けました。

これは、日蓮の教団の壊滅を意図する大がかりな弾圧であり、モンゴル軍襲来に備えて、幕府に異を唱える者を取り締まる目的でなされたものでした。

これを龍ノ口法難と呼びます。

日蓮の布教は、他の宗派、特に法然を中心とする念仏を激しく攻撃するものであったため、反感を持たれることが多く、また、権力者である幕府に対しても容赦なく宗教政策の転換を迫ったため迫害される要素が多分にあったと考えられます。

このような中で、数々の法難が日蓮とその信徒に対して起こったのだと思われます。

日蓮のエピソード

日妙聖人

鎌倉の女性信徒がまだ幼い乙御前を連れて、佐渡に流されていた日蓮を訪ねてきました。

日蓮はその女性を「日本第一の法華経の行者の女人」とほめたたえ、「日妙聖人」と日号・聖人号まで与えています。

その上で、日蓮は乙御前母子の旅費が足りないのではないかと心配して、日蓮の面倒を見ている一谷入道から、後で法華経十巻を写し書きしてて与える約束をしてその代わりに母子の旅費を出してもらいました。

仏が主であり、神は従

身延山にこもっていた日蓮のもとには多くの信徒が訪れたが、下部温泉の湯治のついでに訪問したという日蓮の信仰者には真剣な信心が認められないとして面会せず、全て追い返していました。

老齢の尼御前が日蓮を訪ねてきた時も、尼御前が氏神に参詣したついでに日蓮のもとに来たと言ったので、日蓮は、あくまで仏が主であり、神は従であるという道理を理解させるためにあえて面会しませんでした。

三位房

早くから日蓮の弟子となった三位房は、比叡山延暦寺に遊学したのですが、遊学先から日蓮に宛てた手紙で、貴族に招かれて説法したことなどを日蓮に書いてきたので、日蓮はその態度について「日蓮を卑しんで書いたのか」と厳しく戒めました。

さらに三位房の言葉のなまりも京都なまりになったであろうとして、それでは田舎法師でも京法師でもないどっちつかずな存在になってしまうから、話す言葉は、田舎言葉でなければならないと戒めています。

モンゴルからの使者

文永の役の翌年の1275年にモンゴルから使者がやって来ましたが、幕府によって斬首されてしまいました。

日蓮は使者に同情して、幕府が日蓮を用いていたならばこのようなことはなかったと述べています。

まとめ、日蓮に関する本

ここでは日蓮に関する本についていくつか取り上げます。

久保田正文著「 日蓮 その生涯と思想 (講談社現代新書)」は、宗教学者として公平な視点から法難の連続であった日蓮の生涯と思想を現代ともリンクさせて描いています。

日蓮 その生涯と思想 (講談社現代新書) [ 久保田正文 ]

山岡荘八著「 日蓮 (山岡荘八歴史文庫) 」は、迫害を乗り越えて生きる日蓮の半生を記した小説で学術書よりはかなり分かりやすいと思われます。

日蓮 (山岡荘八歴史文庫 山岡荘八歴史文庫 [ 山岡 荘八 ]

佐藤弘夫訳注「 日蓮「立正安国論」全訳注 (講談社学術文庫)」は、日蓮の代表的著作である立正安国論を現代訳した日蓮の思想に触れることのできる本です。

日蓮の生涯は、数々の法難に見舞われ、伊豆や佐渡に流されるなど苦難の連続でした。

しかし、時の権力である幕府に対しても臆することなく念仏や禅宗を非難する自説を展開するなど、非常に攻撃的な布教活動も特徴的です。

日蓮について知ることは、同時代に興った他の鎌倉新仏教の理解にとっても大変大きな手掛かりになるのではないかと思われます。

>>「北条時宗」(総集編)を見る

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