あなたは、陸奥亮子という人物をご存知でしょうか。
明治時代に活躍した外相・陸奥宗光の妻で美貌でありながら聡明さも持っていた陸奥亮子は夫・陸奥宗光が駐米公使となった際、「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と呼ばれていまいした。
そんな陸奥亮子の
- 生涯
- 子孫
- 写真
をご紹介いたします。
これを読めば陸奥亮子の生涯や、子孫、写真について知ることができますよ。
【ハーフ?】陸奥亮子の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?
陸奥亮子は安政3年(1856年)11月 、江戸で誕生しました。
ハーフのような顔立ちの彼女ですが、
- 日本人の父・金田蔀
- 日本人の妾であった母
から誕生します。
父の妾(正室ではない)である母から誕生した亮子は、明治の初め頃から東京の新橋辺りにあった柏屋で芸者の修業をします。
3年ほど下働きをし、17歳になった頃に芸妓となり小鈴という名前で活動しました。
この頃から、美貌の持ち主であった亮子は人気が高く、新橋で1、2を争うほどの美貌の名妓であったとされています。
また板垣退助が愛していた芸妓・小清と並んで、亮子は新橋の双美人と呼ばれていました。
芸妓でありながら男嫌いであった亮子は身持ちも堅かったように思われますが、明治5年(1872年)2月に先妻を亡くし、客として来ていた陸奥宗光に見初められ、陸奥宗光の後妻となります。
このとき、亮子は17歳。陸奥宗光は28歳でした。
11歳も年上の男性と結婚したのです。
夫となった宗光には先妻との間に
- 長男・広吉
- 次男・潤吉
がいました。
2人の子供を育てながら、夫・宗光と結婚した翌年には長女・清子が誕生します。
後に、夫・宗光が亡くなると、夫・宗光と祇園芸者との間に誕生した冬子という娘を引き取ることとなりますので、亮子は生涯4人の子供を持ったということます。
子孫について
陸奥宗光と先妻の間の息子・陸奥広吉はイギリス人女性・エセルと結婚し2人の間には陸奥イアン陽之助が誕生します。
その他の子供たちは未婚のまま亡くなったため、亮子の子孫となる人物はいないとされています。
【写真】陸奥亮子の経歴や生涯。死因や最後は?
3人の子育てをしていた亮子ですが、明治11年(1878年)、夫・宗光が政府転覆運動に荷担した容疑で禁固5年の刑に処せられてしまい、山形監獄に収容されてしまいました。
この時、亮子はまだ23歳です。
夫がいない間、夫の友人である津田家に身を寄せて子供3人を育てながら、収容されている夫・宗光を支えました。
この時、夫・宗光は亮子に多くの手紙を送っており、また監獄中に亮子を思い漢詩を作ると亮子に送るなどしていました。
夫婦の仲は良かったことが分かります。
明治15年(1882年)夫・宗光の刑は軽減され出獄を許されます。
その翌年になると夫・宗光は伊藤博文からヨーロッパへの留学を勧められ、ヨーロッパへと旅立ちました。
日本に残った亮子に、夫・宗光は手紙を書き続け、その数50通を超えるとされています。
明治19年(1886年)2月、夫・宗光は留学先のヨーロッパから帰国すると10月には外務省に出仕となりました。
夫・宗光が出仕したことによって社交界入りした亮子は必死に
-
英語
-
文学
-
歴史
-
テーブルマナー
-
ファッション
などを勉強したとされています。
こうして、美貌だけではなく教養を身に着けた亮子は戸田氏共の夫人・極子とともに、「鹿鳴館の華」と呼ばれました。
鹿鳴館とは
鹿鳴館とは、明治16年(1883)不平等条約の改正を目的とした欧化政策の1つとして井上馨が建設した欧米風の社交施設のことです。
この鹿鳴館では、
-
国賓の接待
-
西欧式舞踏会
-
皇族や上流婦人の慈善バザー
などが行われていました。
女性は19世紀後期のフランス式の服装で夜会巻きといわれる束髪をしていました。
-
着物ではなく、フランス式の服装を身に着ける
-
洋風建築
-
西欧式舞踏会
などを外国に見せつけることで、日本は文明国であるということを広くアピールしました。
しかし、西欧人からみると、所詮西欧文化の真似事に過ぎず、井上馨の行った欧化政策は批判を受けることとなります。
「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と呼ばれる
明治21年(1888年)夫・宗光が駐米公使になると、亮子もともに渡米します。
渡米先で亮子は
- 美貌
- 魅力
- 話術
などから「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と呼ばれていました。
写真から見て分かるように、本当に美しい女性です。
夫・宗光が明治30年(1897年)8月24日に肺結核によって亡くなると、夫・宗光と祇園芸者の間で誕生した冬子を引き取り、計4人の子どもを育てました。
その後、明治33年(1900年)8月15日、もともと体が弱かったとされる亮子は夫が亡くなった3年後に45歳で亡くなりました。
【海外の反応】陸奥亮子の人柄や性格が分かるエピソード
亮子は、芸妓の頃から新橋で1、2を争うほどの美貌の持ち主であったとされ、生涯において
- 「鹿鳴館の華」
- 「ワシントン社交界の華」
- 「駐米日本公使館の華」
と称されます。
イギリスの外交官であるアーネスト・サトウが亮子の美しい容姿を褒めたという記録も残されています。
しかし、美しいだけではなく夫・宗光が外相となった際は、夫に恥をかかせぬよう妻として
- 英語
- 文学
- 歴史
- テーブルマナー
- ファッション
を猛勉強しました。
真面目な女性であったことが分かります。
美しい容姿と聡明さを持ちながら、夫を支え、4人の子どもを育てあげた亮子は、誰から見ても理想の女性ではないでしょうか。
まとめ 陸奥亮子はどんな人?ドラマや映画はある?
陸奥亮子の生涯と子孫、写真のご紹介でした。
簡単にまとめると
- ハーフではない
- 美しい容姿の持ち主であった
- 陸奥宗光と結婚する
- 4人の子供の母親となる
- 夫をたてた女性であった
陸奥亮子という女性は写真から見て分かるように、とても美しい女性でありました。
外国人のような顔立ちですので、ハーフに間違えられることがありますが、純日本人です。
美貌でありながら教養も持ち、夫を支え子供を育てる。理想の女性ではないでしょうか。
そんな陸奥亮子が登場するドラマや映画は残念ながらありませんでしたが、陸奥亮子が登場する小説として
- 大路和子さんの『相思空しく 〜陸奥宗光の妻亮子〜』
- 山田風太郎さんの『エドの舞踏会』
があります。
これを機に陸奥亮子に興味を持った方は大路和子さんの『相思空しく 〜陸奥宗光の妻亮子〜』、山田風太郎さんの『エドの舞踏会』を読んでみてください。
以上「陸奥亮子の生涯と子孫、ハーフに見える美人の写真」についてのご紹介でした。
コメント