2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公 北条義時とは? 北条執権政治の基礎を築いたその人生

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、小栗旬さん演じる北条義時。

源氏の棟梁、源頼朝の側近として鎌倉幕府の中核を担った北条義時とはどういう人だったのでしょうか?

北条義時の生涯、源頼朝との関わりで得たもの、幕府内での権力争い、三度の受難に立ち向かった政治家人生について解説していきます。

北条義時のプロフィール

・名前:北条義時

・生年月日:1163年(長寛元年)

・出生地:伊豆国(静岡県伊豆の国市)

・死没:1224年7月1日(元仁元年)6月13日(満61歳没)

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北条義時(Wikipedia)

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源氏のプリンスと平家追討

平家の追討

北条義時は、伊豆国の武士で在庁官人(地方政治の役所の役人)である北条時政の次男として生まれました。

母は伊豆国を本拠とする伊藤祐親の娘とされ、同じ母をもつ姉に北条政子がいます。

義時に関する幼少のころの記録はありませんが、平治の乱に敗れ伊豆へ流刑になった源頼朝父である北条時政、祖父である伊藤祐親が約20年の監視を行っていたため、義時頼朝と長い時間を過ごしたであろうことが推測できます。

さらに、源頼朝姉である北条政子と結婚したため、頼朝義時の義兄となり深い縁が築かれていくことになります。

1180年(治承四年)、頼朝と北条家にとって転機が訪れます。

以仁王により平氏打倒の挙兵を促した令旨が出されました。

これに応える形で、この年の8月に時政以下伊豆や相模の武士たちを結集し兵を挙げました。

これに当時17歳であった義時、兄である宗時も参加しています。

緒戦では平氏一門で伊豆国の目代である山木兼隆を討滅したものの、相模の石橋山の戦では平氏方の大庭景親らと義時の祖父であった伊藤祐親の軍に敗れました。

この戦いで宗時を亡くした義時は、北条氏の嫡男となりました。

義時自身も、より一層北条氏を支えていくのは自分になったのだという自覚が生まれたのではないでしょうか。

この後、安房国で在地武士を配下に収めた頼朝は、鎌倉入りし、拠点として、地方政権を確立しました。

1181年(養和元年)閏2月、平清盛の死去をきっかけとして平氏の政権は崩れていくことになります。

各地に散らばっていた源氏の武者たちは平氏追討の動きを見せ始めます。

1184年(元暦元年)、義時は頼朝の弟にあたる源範頼の平家追討軍に従い、西国に向かいました。

1185年(文治元年)の筑前国(福岡県)の葦屋浦合戦にて下河辺行平、渋谷重国と共に少弐種直の軍を討ち取り、豊後国一帯を制圧するという武功を立てました。

同じ年の3月、頼朝の弟にあたる源義経の軍により平氏一門は滅亡しました。

義時は引き続き源範頼軍に従事し、九州側で平氏の背後に控えていたようですが、特に目立った武功はありません。

この後、平氏滅亡の功労者である義経と、頼朝の叔父である源行家恩賞等に不満を持ち、頼朝に対抗する動きを見せ始めました。

これに対抗した頼朝勢力は、行家と義経の追討に走ります。

1189年(文治五年)7月、義時義経追討を目的とする奥州合戦に加わり常に頼朝の側近として軍政的資質を見せ始めました。

義時に関して、源平の争乱の最中にあまり記録が現れないのは、常に将軍の側に仕え作戦を計画する立場にいたため、戦場にて功績をあげることがなかったと推測されます。

義時野戦の指揮官というより、軍略家としての資質が強かったのではと考えられます。

義時と頼朝

頼朝の義時に対する信頼の厚さを物語る説話も残っています。

少し時はさかのぼりますが、1182年(寿永元年)11月、頼朝の愛妾である亀の前を伏見広綱が匿っていたところ、これが政子の耳に入り、政子の命で牧宗親により広綱邸を破壊されたことがありました。

騒動を聞いた頼朝は大いに怒り、「御台所(政子)を大事にするのは最も殊勝なことである。しかし、このようなことはどうして自分に告げないのか。そうしないで直ちに広綱と亀の前に恥辱を与えたのは甚だけしからん。」と、邸を破壊した宗親の髪を切ってしまいました。

これについて時政は大いに不快を感じ伊豆に帰ってしまいます。しかし、義時はこれに従わず伊豆に下向しませんでした。

頼朝は、常日頃から義時を思慮分別の深い人物であるとみていたようで、予想通り、義時は下向せず、時政と共に行動を共にしなかったことを称賛したというエピソードがあります。

義時は、決して時政や政子の私的な不満には同調せず、事の大小をわきまえて行動する冷静な性格であること、また頼朝と心安く付き合っていたことも伺えます。

1190年(建久元年)11月、頼朝は挙兵後はじめて上洛し、義時もこれに同行しています。

その頃から、義時に対する頼朝の信頼は特に厚かったようで、「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時をもって家臣の最となす」と評価していたようです。

義時頼朝と長い時間を過ごし、上記のような出来事を経て信頼を買っていたと思われます。

1199年(正治元年)10月頼朝53歳で死去しました。

頼朝が死去するまでの義時とのやり取りは、吾妻鏡等の史料の欠落により細かい記録は残っていません。

しかし、義時頼朝の側に近侍していたと思われます。

頼朝の遺言などは分かりませんが、平治の乱後の処理で義経や行家を討伐していることから、源氏一門の繁栄より武家社会を確立させていくことを望んだと思われます。

この後、義時頼朝の評価にあったように頼朝の子孫の補佐を行いますが、源氏一門の繁栄のためではなく、武家政権を確立することに注力していきます。

北条氏家系図

義時、鎌倉殿の13人になる

頼朝の死後嫡子であった頼家(義時にとっては甥にあたる)が2代目の鎌倉将軍となりました。

頼家の代になり、訴訟親裁(土地の所有について自ら裁決を下すこと)を停止し、宿老御家人13名の合議制へと制度を変更しました。

これが鎌倉殿の13人になります。

宿老御家人13人の構成員は、北条時政、北条義時、和田義盛、大江広元、中原親能、二階堂行政、三善康信、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、三浦義澄になります。

義時37歳の若さで宿老御家人に加わっていることから、幕府内でも政治的に資質のあるものとして認められていたと思われます。

また、頼朝の未亡人となった政子の力も、この構成員決めに一役を買っていたかもしれません。

この13人の御家人たちは一枚岩ではなく、幕府内の権力を握ろうと各々画策していくことになります。

まず失脚したのは、梶原景時でした。

同じく宿老御家人であった和田義盛に追い落とされています(梶原景時の乱)。

義時この乱に加わった記録はなく、他の御家人を様子見していたであろうと想像できます。

北条氏による粛清

比企氏の乱

梶原景時の乱以後も、各地で反乱や謀反が起こり、幕府による地方統制が困難になってきました。

いずれも大事件には及んでいませんが、幕府の権威回復と統制を強化する必要が出てきました。

まず、北条氏の前に立ちふさがったのは比企一族です。

比企一族の筆頭である比企能員は、将軍頼家に娘を嫁がしており、その子である一幡の外祖父となっていました。

この後、頼家の子である一幡が家督を継ぐことになれば、比企氏の影響力が増すことになります。

これを恐れた北条氏は比企氏の勢力を抑えるべく、将軍頼家より政治上の実権を奪うことを企てました。

1203年(建仁三年) 9月2日、比企能員は、病床に臥している頼家に、北条氏と実朝が家督を奪おうとしていると訴えました。

これを聞いた頼家は、北条氏の追討について談合しましたが、政子の知るところとなり、能員は誅殺されました。

これを聞いた比企一族は、一幡の館から謀反の兵を挙げましたが、義時らの軍兵に攻められて、比企一族と一幡は滅亡します。

義時自身は、比企氏の滅亡に兵を率いただけのように見えますが、時政や政子と共謀して、政敵を追い落とすべく計略を立てたとも思われます。

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比企一族の墓(Wikipedia)

仁田氏の追討と頼家幽閉

比企一族と一幡の死を聞いた将軍頼家は、北条氏を憎み、和田義盛・仁田忠常に時政追討を命じました。
  
和田義盛はこれを断り、追討の依頼があったことを時政に告げました。 仁田忠常は頼家の命に応じたのか明らかになっていません。

仁田氏を怪しんだ時政は、疑わしきは罰せよとの信条で、仁田氏に義時を襲わせるように計略をたて、逆に義時の指示による御家人たちの働きで、討ち取るように仕向けました。

この事件の翌日、将軍頼家は出家させられ、代わりに実朝(頼朝と政子の第二子、義時にとっては甥)を将軍に擁立しました。

頼家伊豆の修禅寺に幽閉され、1204年 (元久元年)7月に北条氏により殺害されてしまいます。

この一連の動きを主導したのが義時だと言われています。

このように、頼朝の死後に頼家が将軍になると、北条氏による粛清が着々と進んでいったように見えます。

なぜ北条氏はこの粛清を行っていったのでしょうか。

頼家勝手気ままな行動の目立つ将軍であったようで、それが原因で将軍の独裁から御家人たちの合議制へと制度が変更されています。

これは、頼家から将軍権力の一部を御家人へと移していることを意味します。

義時をはじめとする北条氏は幕府内での権力争いもさることながら、頼家の政治では幕府の権威を維持することが難しいと考えたのでしょう。

そのために、頼家政権の維持を画策する御家人たちを排除したと想像できます。

また、頼家が生きていれば、今後、北条主体の政治に不満を持つ御家人たちが再度頼家を擁して、謀反を起こすことを危惧し、頼家自身も排除されたのではないかと思われます。

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源頼家(Wikipedia)

畠山氏の滅亡

実朝将軍が誕生して間もないころ、北条氏内部では義時時政との対立の兆候が見られてきました。

時政には、牧の方という後妻がいました。

その長女は源氏の一族である平賀朝雅の妻になっており、朝雅は娘婿(義時にとっては義弟)として、時政と近い関係を築いていました。

朝雅には、時政と共に幕府の実権を握りたいという野望がありました。

そのため対立する御家人を排除しようと、手始めに畠山重忠への讒訴事件を起こしたのです。

朝雅は、畠山重忠に謀反の意があることを牧の方に讒言し、牧の方と時政は内々で畠山重忠の追討を計画していました。

1205年(元久二年)6月、この追討計画を実行しようと義時と義時の弟である時房に相談をしました。

義時この追討には批判的で、時政の軽はずみな行いを戒めるほどの態度をとりましたが、牧の方の強硬な主張により追討を行いました。

しかし、事件直後、重忠への疑いは虚言であったことが判明します。

時政をいさめて実行計画を反対していた義時の判断は正しかったのです。

この畠山事件を経て、牧の方に唆されている時政を義時は警戒するようになります。

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畠山重忠(Wikipedia)

将軍実朝謀殺未遂事件と父・時政との相克

さらに、この事件からわずか2か月後の閏7月19日、牧氏と時政による将軍実朝謀殺未遂事件が起きます。

平賀朝雅は将軍頼朝の猶子(実親子ではないが親子関係を結んでいること)になっており、将軍実朝がいなくなれば将軍の座が巡ってくると考えたようです。

これを事前に察知した政子義時は、実朝を義時の邸に迎えることで企みを阻止しました。そして、計画は失敗に終わります。

これをきっかけに時政は失脚し、伊豆の北条へ引退、一方で平賀朝雅は誅殺され、事件は収束しました。

時政はなぜこの計画に加担していたのでしょうか。

時政自身は実朝の祖父であり外戚にあたります。わざわざ血のつながらない娘婿のために事を起こす必要はないのです。

この時分になると時政の政治的影響力は低下していました。

どちらかというと義時のほうが、政治的影響力が高かったとも言われています。

そのため、自身の息子と対決することになろうが、もう一度掌中に権力を取り戻し、意の赴くままに政治を動かしたかったのかもしれません。

時政北条氏に有利な政治をしたいという思いがあり、義時頼朝の願いであった武家政権の確立をしたいという考えの違いが親子の軋轢を生んだように考えられます。

義時は、政所別当の座を得て、将軍実朝の後見として執権と呼ばれるようになりました。

そして、北条一門の家督として、幕府政治の最高責任者として、武家政権の基礎を安定すべく、独裁政治を展開していくことになります。

義時の三度の難

一度目の難「和田氏の乱」

1209年 (承元三年)11月、義時諸国御家人の職務怠慢を理由として、終身在職を定期交代制にしようとしました。

これに反対した幕府創設以後、侍所別当(現在の警察組織のようなもの)として権勢を誇った和田義盛と正面衝突することになります。

義盛は御家人の最長老である上に、侍所の別当というポジション、そして個人的力量によって義時とは別に、幕府内でも影響力を持っていました。

義時にとって侮りがたい存在であったのです。

事件の直接の発端としては、1213年 (建暦三年)2月に源氏の一族の一人であった泉親衡の陰謀事件が発覚したことがあります。

親衡は将軍実朝の廃位と頼家の遺児、栄実の将軍擁立、そして義時の殺害を計画していました。

この計画に和田義盛の息子たちである義直、義重、甥である胤長が加わっており、義時からすれば、理由をつけて義盛を追い落とす好機に恵まれたのです。

義直、義重は義盛のこれまでの働きに免じ赦されましたが、胤長だけは陰謀事件の主犯に近い位置にいたため赦されず、流刑されてしまいます。

この処置は、実朝が義時に強要された結果と言われています。

これをきっかけとして、和田一族の義時に対する怨嗟が爆発し、兵を挙げることになります。

約二日間の激戦ののち、和田氏の壊滅によって、戦いは義時の勝利に終わりました。

そして、和田義盛が占めていた侍所別当の地位も義時の手中に入ったのです。

また一つ、義時の権力が強化されるに至りました。

この和田合戦において、和田氏の挙兵に、御家人である三浦義村も加わる予定でした。

しかし、途中で三浦義村は変心し、義時に和田氏の挙兵を告げたことで、義時は和田氏の急襲に備えることができました。

義時はこの三浦義村の変心によって一度目の難を逃れたのです。

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和田合戦図(Wikipedia)

二度目の難「将軍実朝暗殺事件」

1219年 (承久元年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮で儀式を行っていた将軍実朝は頼家の遺児である公暁により暗殺されました。

この儀式に義時も加わる予定でしたが、途中で不調を訴えて離脱しています。

義時の役を引き受けた人物は、義時と勘違いされ実朝と共に手にかけられ義時自身は討ち取られることを回避しています。

この偶然に思えない事件の経緯から、将軍暗殺事件は義時の陰謀であるとの解釈が有力視されています。

実朝を討ち取った公暁は自分こそが将軍の跡を継ぐべきものと考え、御家人三浦義村を頼ってその実現を試みました。

しかし、義時の命を受けていた義村によって公暁自身も暗殺されてしまうのです。

このことにより、頼朝から続く源氏の正統な血統が途絶え将軍継嗣問題が発生します。

頼朝と比較的近い血縁にある源氏一門の中で前述した平賀朝雅のように将軍の地位を狙おうとする動きが見られるようになりました。

義時そのような策動をする可能性のあるものを一掃しようと考え、頼家の遺児である禅暁も手にかけています。

なぜ義時は源氏の血を途絶えさせたのでしょうか。

源氏血縁の将軍がいることで、義時の目標とする武家政権の確立に難しさを感じ始めたからではないでしょうか。

源氏血縁の者が将軍になると、頼朝のような将軍一極集中型の権力を目指し、自我をもって政治を行うようになります。

その権力のおこぼれに預かりたい御家人たちが自身に有利になるように近侍し将軍の周りで権力争いをするようになります。

幕府内が安定しなければ、義時の目標とする武家政権の確立は程遠いものになります。

かくして源氏の血縁者ではないものを将軍にすることで自我を持った政治というものを取り上げることにしたのではないでしょうか。

義時は、将軍には皇族を迎えようと計画しました。

実は、実朝暗殺の前から義時の意をくんだ尼将軍政子が皇族将軍を迎えるという内約を京都の公卿と結んでいたのです。

しかし、朝廷は内約をないがしろにして保留という態度をとりました。

そこで、義時仕方なく親幕派の公卿である九条兼実の孫(三寅、のちの頼経)を将軍として迎えることにしたのです。

義時の二度目の難は、計略していたように事が進まなかったことにあるように思います。

武家政権の確立のため実朝を暗殺し、源氏一門の血筋を絶えさせたにもかかわらず、根回ししていたように皇族将軍を迎えられなかったこと。

それでもなお、公卿の子を迎えるということで及第点を得たのでしょう。こうして二度目の難を乗り越えたのでしょう。

三度目の難「承久の乱」

1221年 (承久三年)5月14日、後鳥羽上皇により北条義時追討の院宣が出されました。

目的としては、鎌倉の武家政権を倒すあるいは無力化することにありました。

当時の公家方にしてみれば、武士は従来皇族を守るもので、対等な立場の存在ではない権力を握るのは公家であり皇族であるという考えがありました。

それゆえに、先んじて武家として権力を握っていた平氏でさえ、武家という形ではなく、官位を得て貴族的に振舞い、朝廷の政治に関与していたのです。

そのために、まず幕府の中心で独裁的な地位を築いている執権義時を討滅しようと考えたと思われます。

義時は、この動きに関して在京の御家人や、親幕派である公卿たちから事前に情報を得ていたようです。

当時、兵力という観点においては、圧倒的に幕府方の軍勢のほうが上で、優に勝利できるだろうと義時自身も予想していたと思われます。

しかし、ここに中世武士の道徳という観点が加わります。

中世武士は、天皇や上皇に向かって弓を引くことを悪とする傾向が強かったようです。

義時は、皇室に対する畏怖感と、弓を引くことへの道徳的罪悪感を捨てきれない関東御家人たちが向背するのではないかと危惧していました。

宣旨を受けた御家人の中にも進退を迷う者はいました。

しかし、御家人である三浦義村が率先して幕府への忠誠を誓ったことから、他の御家人もこれに続き、幕府方は一致団結して、ことに臨むことができました。

この忠誠の背景には、歴史の授業によく出てきた尼将軍政子の「御恩と奉公」についての演説に効果があったのではないかと言われています。

院宣から約一か月後、この戦は幕府方が院方である京都を制圧し、勝利をおさめました。

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後鳥羽上皇(Wikipedia)

承久の乱後に首謀者は厳しく処罰されました。

今後は幕府の要求がそのまま通るような公家政権を実現すべく、後鳥羽上皇の院政を止めさせ、後堀川天皇を即位させることで朝廷の作り替えを行いました。

幕府は、院方に味方した公卿や武士の所領を没収して、乱鎮圧の勲功者に配分しました。

義時三度目の難は、人生で一番厳しい経験でしたが、幕府方の武士たちの忠誠により、これを回避することになったのです。

承久の乱後は、幕府創設以来の朝廷と幕府の政治的力関係が完全に逆転し、武家政権の優位が決定づけられました。

義時は、武家政権の独裁的指導者として地位を確立したと言えます。

この後も武家政権を全国的なものとすべく、支配体制の新たな整備や、北条氏の執権政治を、幕府の政治形態として確立するなど、義時生涯、政治家として奔走しました。

1224年 (元仁元年)6月12日より義時は発病のため出家し、翌13日に62年の生涯を終えました。

義時の墓は、頼朝の法華堂の東の山上とされていますが、江戸初期に荒廃して、現在では石碑が立っています。

まとめ

・北条義時は、伊豆国の武士で、北条時政の次男として生まれました。

・幼少の頃より、源氏の棟梁である源頼朝の側近くで仕えて、頼朝の平家追討に従い、自身も軍に加わりました。

・その後も、頼朝の第一の側近として源氏内の争いでも軍略家として活躍しました。

・頼朝の死後は、鎌倉幕府を支えるべく重要な13人の御家人の1人として加わり、政治に加わるようになりました。

・幕府内での権力争いの末、執権としての地位を得て、武家政権の確立に努めました。

・執権として三度の受難を経験しますが、そのすべてを乗り越え、幕府と朝廷の力関係を逆転させて、武家政権を全国的なものにすべく奔走しました。

現代でも、官僚や秘書から政治家になることは、ままあることと思います。

義時も、幼少期から頼朝に侍ることで、政治的手腕を学びました。

そして、頼朝の死後は、頼朝の政策(武家政権の確立)を実現すべく、奔走した政治家だったと思われます。

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参考文献:

・国史大辞典編集委員会編(1991年6月30日)『国史大辞典 第十二巻』吉川弘文館

・国史大辞典編集委員会編(1992年4月1日)『国史大辞典 第十三巻』吉川弘文館

・野口実(2021年9月20日)『図説 鎌倉北条氏 鎌倉幕府を主導した一族の全歴史』戎光祥出版

・川合康(2009年11月1日)『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館

・安田元久(1961年12月25日)『北条義時(人物叢書 新装版)』吉川弘文館

・岡田清一(2019年4月10日)『北条義時 これ運命の縮まるべき端か(ミネルヴァ日本評伝選)』ミネルヴァ書房

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