お財布の中にこの人がいたら懐も暖かいと言える人物。
そう誰もがよく見たことのある福沢諭吉です。
学問に真剣で、やがて慶應義塾大学や北里大学を作ったことでもよく知られています。
何度も海外にも出向き見識を深めた人でもあります。
そんな福沢諭吉のことをいろんな面から見ていきましょう。
- 福沢諭吉の生い立ちはどうだったのかな。
- 福沢諭吉の経歴や代表作についてもみてみたい。
- 福沢諭吉の人格や性格はどうだったの
これを読めば、福沢諭吉の生い立ち、経歴や代表作、人となりや性格がわかります。
『学問のすすめ』などの作品をより深く読めるようになりますよ
福沢諭吉の生い立ちとは?
福沢諭吉は1835年1月10日に大分県中津市の下級藩士 福澤百助の次男として大阪で誕生しました。
諭吉という名前は儒学者でもあった父親が「上諭条例」という本を手に入れた日に生まれたことからつけたものでした。
この時代の武士は儒学や何かしらの思想家の人が多くいました。
百助も武士であり、儒教に通じた学者さんでもあったんですね。
そんな父親の百助は早くに亡くなりました。身分格差の激しい中津藩ではその名を残すこともできなかったのです。諭吉は成長するうちにこのことが悔しく感じるのでした。
叔父の中村術平の養子となる
福沢諭吉は、母や兄弟と暮らしていましたが、叔父の中村術平の養子となり、中村性を名乗っています。
諭吉は他の武家の子供と違い、忠信孝悌や神仏を敬うという感覚を持っていませんでした。
お札を踏みつけたり、神様の名前を書いた紙を踏んだり、神社でいたずらをしたりしても平気な子供でした。
その代わり障子の張り替えや、畳の重替えなどの内職は上手にこなせる器用さを持っていました。
5歳から漢学と一刀流の稽古を始めました。
それでも本を読むことが大嫌いで本などなくても生きていけると思っていました。
14歳頃から勉強に励む
しかし自分が14歳頃になったころ、近所の同年代の子供たちが読み書きを自由にでき、勉強に励んでいることを想像した諭吉は、自分もやらなければ世間体が悪いなということで勉強を始めました。
考え方もませてますね。
学び始めるとすぐに才覚を見せ、色々な漢書を読み漁り、8歳では
- 「論語」や「孟子」「詩経」「書経」
- 「史記」「老子」「荘子」「左伝」を学び
特に「左伝」は暗記するほどなんども読み返したものでした。
武士としての修行もしっかりと行い、「立身新流」の居合術も見事な腕前でした。
福沢諭吉の経歴や代表作は?
1854年 福沢諭吉19歳で長崎へ行き蘭学を学びました。
翌年中津に戻るよう言われましたが江戸へ行きたいと勝手に決めて向かおうとしました。しかし大阪にいた兄から大阪で蘭学を学ぶことを勧められ中津藩蔵屋敷から緒方洪庵のもとで蘭学を学びました。
1856年 兄が死に、諭吉は福沢家を継ぐことになります。それでもまだ蘭学を学びたかった彼は家財道具などを売り借金を返して、親類の反対を押し切り大阪へ再度出て行くのでした。
その熱意からか諭吉は22歳の若さで塾頭となり、オランダの原書などを読み漁るよりも、日々でした。
慶應義塾の基礎となる蘭学塾「一小家塾」を開く
1858年 福沢諭吉は江戸の中津藩邸から呼ばれます。
そこで蘭学塾「一小家塾」を開き蘭学を教えました。これが慶應義塾の基礎となりました。
英語を取得する
1859年 日米修好通商条約によって外国人の居住地となった横浜を訪ねた諭吉はショックを受けます。
そこではオランダ語が全く役に立たず、英語が主流だったのでした。
それからの諭吉は独学で英語の勉強を始め、習得していったのです。
渡米し文化の違いに驚く
その年の冬、咸臨丸(かんりんまる)がアメリカへ派遣されることになり諭吉は従者としてアメリカへ渡ることができたのです。
ちょうどこの頃、安政の大獄で処刑された吉田松陰もアメリカへ渡ることを夢見て密航を企てましたが、行くことが叶わなかったことを考えると、諭吉は本当に運が良かったのだといえます。
福沢諭吉は渡米して文化の違いなどに驚きました。
諭吉はジョン万次郎と「ウェブスター大辞書」の省略版を購入し日本へ持ち帰りました。
その後はオランダ語ではなく英語に力を入れて教えました。
お錦と結婚する
1861年 諭吉は中津藩の藩士土岐太郎八の次女お錦と結婚しています。
2人の間には4男5女と9人もの子供に恵まれました。
結婚した翌年欧州各国へ通訳として派遣され、英書や地理書などを買い込んできました。
帰国後は「西洋事情」を通じて啓蒙活動を開始しました。「西洋事情」は病院や銀行、郵便などの制度について書かれています。
「西洋旅案内」を執筆
1867年 再度渡米の機会を得て帰国後は「西洋旅案内」を書いています。
この年王政復古となり諭吉は新政府に招かれましたが、それを断り翌年は帯刀もやめて平民となっています。
教育に力を注ぐ
1868年 それまでの蘭学塾を慶應義塾と名付け教育に力を入れます。
その後廃藩置県が成り立ち、治権は地方の人に委ねるべきとした「分権論」を成立させた西郷隆盛にとても感謝しました。
そして「丁丑公論」ではその西郷隆盛を追い込む政府のやり方はおかしいと訴えています。
明治15年、日本政府が国会を作るにあたり諭吉は「時事新報」を発刊することになりました。
1879年 狸橋南岸の土地を買い、慶應義塾幼稚舎を、また東側に北里大学、北里研究所となる土筆ヶ岡養生園を建てました。
1892年には北里柴三郎を迎え伝染病研究所などを設立して行きました。
その一方で日清戦争が始まりました。福沢諭吉はこれを大いに激励したのでした。
日清戦争後は慶應義塾は大学部を設けて数千人もの学生を持つ巨大校となっていました。
そんな頃福沢諭吉に生涯の終わりが近づいていました。
福沢諭吉の最期
1898年 彼は脳溢血で倒れます。危篤の状態から回復をみせその後慶応義塾の「修身要領」を編纂しています。
1901年 再度脳溢血となり享年67歳の人生を閉じたのでした。
福沢諭吉の生涯は
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蘭学を熱心に勉強した。
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アメリカに渡る機会を得て、蘭学ではなく英語が主流であることに気づく。
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自分の建てた学校で、英語を教える。
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結婚してたくさんの子供に恵まれる。
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脳溢血で倒れても、まだ本の編纂をした
【面白すぎ】福沢諭吉の人柄や性格のエピソードは?
福沢諭吉は
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奥さん一筋の純粋な人でした
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子供の頃からお酒好き
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「先生」は諭吉だけ
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学問のすすめの名言は諭吉の言葉ではない
奥さん一筋の純粋な人でした
福沢諭吉はお錦という女性と結婚しました。9人もの子供に恵まれるほど2人の仲は良かったのです。
諭吉にはこの妻の他には女性関係のうわさはありません。
妻一筋の真面目な人だったことがわかります。
子供の頃からお酒好き
教育に熱心で、多くの書物を書いている福沢諭吉からは想像し難いことですが、なんと彼は子供の時からお酒好きだったのです。
一時期断酒を決意しましたが、酒の代わりにタバコを勧められ、結局禁酒も続かず、酒どころかタバコまでやめられなくなってしまいました。
こういうところの意思は弱かったのですね。
「先生」は諭吉だけ
慶應義塾の運営する学校では、「先生」と呼ばれるのは福沢諭吉のみです。他の教員も学生も「君」と表記されます。
それ程尊敬されているのです。
学問のすすめの名言は諭吉の言葉ではない
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という言葉を聞いたことがあるでしょう。
この言葉は福沢諭吉の言葉と捉えがちですが、これはトーマス・ジェファーソンのアメリカ独立宣言の一説を「学問のススメ」の中で起用したものだというのが有力説としてあります。
まとめ 福沢諭吉はどんな人?分かりやすいおすすめ作品。
福沢諭吉の性格と経歴・生い立ちや面白いエピソードを紹介しました。
幼少の頃から学問に勤しんできた福沢諭吉。その教えをいろんな人にもと学校を建て、多くの卒業生を出してきました。
そんな諭吉は意外にも子供の頃から飲んべえで、おまけにヘビースモーカーにまでなってしまうとは意外で同じ人物とは考えにくいですね。
それでも彼がたくさんの本を書き、儒学や啓蒙思想を持って勉学の大切さを広めてきた功績はやはり一万円札の肖像に値するといえますね。
福沢諭吉著
- 「学問のススメ」
- 「西洋事情」
- 「福翁百話」など多数
- 映画 「福沢諭吉」1991年 柴田恭平
- 文献 安藤優一郎「勝海舟と福沢諭吉 維新を生きた二人の幕臣」
以上、「福沢諭吉の性格と経歴・生い立ちや面白いエピソード」でした
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