藤原得子(美福門院)の生涯と最後の死因とは。平清盛や鳥羽天皇との関係は?

あなたは藤原得子という女性をご存知でしょうか。

低い身分出身であったにも関わらず、鳥羽天皇の妃となると近衛天皇を出産し皇后まで上り詰めた女性です。

大河ドラマ「平清盛」で女優の松雪泰子さんが藤原得子を演じられていたので、ご存知の方も多いかもしれません。

そんな大出世をした平安時代の女性、藤原得子とは一体どのような女性であったのでしょうか。

そこで今回は、藤原得子の

  • 生涯
  • 最期
  • 死因
  • 平清盛や鳥羽天皇との関係性

についてご紹介いたします。

これを読めば、藤原得子の生涯や最期、死因や西行・白河法皇との関係性について知ることができますよ。

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藤原得子の生い立ちと父母兄弟。美福門院の意味は?

藤原得子(ふじわら なりこ)は平安時代にあたる永久5年(1117年)

  • 父・藤原長実
  • 母・源方子

の一人娘として誕生しました。

父・藤原長実は白河法皇に近侍する院近臣であったとされ、白河法皇の晩年において最も近い側近であったと考えられています。

ですが、上級貴族といった身分ではなく、政治手腕についての周囲の評価は非常に低かったとされています。

そんな父と母の元に誕生した得子は1人娘であったため、父・藤原長実は非常に可愛がり育てたとされ、「ただ人にはえゆるさじ」並みの男性の元に嫁がせるようなことはしない。と我が子を溺愛していました。

しかし、そんな父は長承2年(1133)8月19日に病気によって亡くなります。

この時、得子は16歳であったとされ、まだ婿はいませんでした。

そのため父・藤原長実はまだ婿のいない得子を心配しながら亡くなったとされています。

父が亡くなると得子は二条万里小路亭(現在の京都市中京区御池高倉通り上ルヒ柊町附近)で暮らし始めます。

【美人?】藤原得子(美福門院)の経歴。最後や死因は?

鳥羽上皇から寵愛を受ける

どのような経緯があったのか、わかっていませんが長承3年(1134年)頃、鳥羽上皇から寵愛を受けるようになります。

当時、鳥羽上皇には、藤原璋子という正妃がいました。

この藤原璋子と同じくらい、得子は美人であったとされています。

そうでなければ、低い身分の貴族出身であり、後ろ盾のない得子が入内できるとは思えません。

鳥羽上皇と藤原璋子、2人の間には5男2女の子供がおり、そのうちの崇徳天皇が当時の天皇として世をおさめていました。

つまり崇徳天皇の父親は鳥羽上皇という訳です。

しかし、実はこの崇徳天皇は鳥羽上皇の実の息子ではなく、鳥羽上皇の祖父である白河法皇の子供なのではないかと噂が流れていました。

鳥羽上皇も、崇徳天皇を我が子と認めず、崇徳天皇に対し非常に冷たい態度で接していたとされています。

この時、崇徳天皇は成人しており、政務を行うことのできる年齢でしたが、父である鳥羽上皇が院政を行っていました

そんな中、鳥羽上皇から寵愛を受けた得子は鳥羽上皇との間に第一子となる叡子内親王を保延元年(1135年)12月4日に出産します。

しかし、もともと得子は身分の低い貴族出身であったため、天皇の子供を出産することはできますが、皇后になることはできず、誕生したばかりの叡子内親王は鳥羽上皇の皇后である藤原泰子の養子となることとなりました。

その後も保延3年(1137年)に、鳥羽上皇との間に暲子内親王が誕生しますが、鳥羽上皇は暲子内親王を手元において育てたとされています。

体仁親王(後の近衛天皇)が誕生する

その2年後の、保延5年(1139年)5月18日、鳥羽上皇との間に待望の皇子・体仁親王(後の近衛天皇)が誕生ます。

この時、崇徳天皇には子供はおらず、鳥羽上皇は得子との間に誕生した皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を自身の後継者とすべく、同年8月17日に立太子させ、自身の息子である崇徳天皇に対し、譲位を迫りました。

体仁親王が皇太子となったため、もともと身分の低かった得子は大出世を果たし女御となることができました。

これによって、鳥羽上皇の正妃である藤原璋子と並ぶ権勢を持つようになったとされています。

鳥羽上皇の正妃である藤原璋子にとって、もともと身分の低かった得子が鳥羽上皇から寵愛を受け、その上、皇子を出産するなど、非常に憎い存在であったと考えられます。

皇后となる

その後、永治元年(1141年)12月7日、鳥羽上皇は息子・崇徳天皇に対し無理やり譲位を迫り、3歳の体仁親王を即位させました。(近衛天皇)

近衛天皇はわずか3歳であったため、政務を行うことはもちろんできません。

そのため、鳥羽法皇が代わりに政務を行うこととなり、鳥羽法皇による院政が開始され権力は掌握されることとなります。

こうして自身の息子である近衛天皇が即位したことによって、低い身分の出身であった得子は鳥羽法皇の正妃・皇后となることができたのです。

院政を開始した鳥羽法皇は

  • 皇后宮大夫に源雅定を就任させる
  • 権大夫に藤原成通を就任させる

などを行い、

  • 鳥羽上皇第一の寵臣・藤原家成
  • 縁戚関係にある村上源氏
  • 縁戚関係にある中御門流の公卿

などで政治勢力を固めました。

康治元年(1142年)正月、得子が呪いにかけられるといった事件が起こります。

この事件は藤原璋子の判官代・源盛行と藤原璋子の女房・津守嶋子が、広田社において得子を呪いにかけていたという密告により発覚しました。

この2人は得子を呪いにかけた罪として土佐国に配流されましたが、どちらも藤原璋子に非常に近い人物であったため、藤原璋子がこの事件を計画したのでは?と噂されるようになります。

そのため鳥羽法皇の皇后であった藤原璋子は朝廷内で居場所を失うこととなり、康治元年(1142年)に出家しました。

既に出家していた鳥羽上皇の皇后・藤原泰子に続き、藤原璋子も出家したため、出家していないのは得子のみで、鳥羽院、唯一の后となることができました。

その後、康治元年(1142年)得子は美福門院の院号を与えられます。

近衛天皇の妃選び

得子と鳥羽上皇の息子である近衛天皇は幼いころから体が弱く、即位後も病に臥せりがちであったとされています。

そのため、近衛天皇がもし若くして崩御した場合のことを想定し、近衛天皇の妃選びが行われました。

近衛天皇の妃として、まず左大臣・藤原頼長の養女・多子が第一候補として浮上しました。

しかし、得子はそんな中、従兄弟である藤原伊通の娘・呈子を自身の養子として迎え入れると、この娘を近衛天皇の皇后にさせようと計画を立てます

第一候補として浮上していた多子の父・藤原頼長は以前に自身の日記で得子のことを「諸大夫の女」身分の低い女。と記していました。

このように身分の低い得子を軽蔑していたため、得子は自身の息子・近衛天皇に藤原頼長の養女を妃として迎え入れることを嫌がったとされています。

こうして久安6年(1150年)正月、近衛天皇が元服すると、まず藤原頼長の養女・多子が入内し、その後2月に関白・藤原忠通の養女として呈子が入内しました。

2人の妃を迎えた近衛天皇はこの時まだ12歳でしたが、2年後の仁平2年(1152年)得子の養女・呈子が妊娠します。

得子にとって養女である呈子の妊娠は非常に嬉しいもので、初孫との対面を楽しみに懐妊着帯の儀式の取り仕切りや、安産祈願のための祈祷や造仏などを行いました。

しかし、呈子は出産予定日を過ぎても出産する気配はなく、僧侶が祈祷を行っても呈子の身体は出産する気配を見せませんでした。

とうとう予定日の翌年となった頃、呈子の妊娠は間違いであったと認められることとなります。

呈子は近衛天皇との間に皇子を出産してくれ。という周囲の期待を背負いすぎて想像妊娠していたのです。

そのため、呈子が想像妊娠であったということが分かると得子は藤原忠道と共に、近衛天皇に適した皇位継承者探しを始めます。

こうしている間にも、近衛天皇の病状は悪化しており、いつ亡くなってもおかしくないという状態でした。

そのため近衛天皇の皇位継承者を早く探し出さなければいけなかったのです。

近衛天皇の継承者問題

しかし、久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は17歳にして病で崩御してしまいます。

こうなると、近衛天皇には子供はいないため皇位継承者として

  • 崇徳上皇の第一皇子・重仁親王
  • 鳥羽法皇の第四皇子・雅仁親王(後白河天皇)の息子・守仁親王(のちの二条天皇)

が浮上します。

崇徳上皇の第一皇子・重仁親王は崇徳上皇と兵衛佐局の子供でした。

しかし、母にあたる兵衛佐局は身分の低い者であったため、幼いころから得子の養子として預けられていました。

そのため、もし重仁親王が次期天皇となると、その父親である崇徳上皇が院政を行うこととなります。

ですが、得子にとって崇徳上皇とは、鳥羽法皇の皇后であった藤原璋子の息子であり、鳥羽法皇はそんな息子を非常に嫌っている、そのため崇徳上皇の息子である重仁親王を次期天皇にさせることは阻止しなければいけないことでした。

崇徳上皇にとって自身の息子・重仁親王が次期天皇となるということは、やっと院政を行うことのできる最後のチャンスでした。

しかし、崇徳上皇の願いはかなわず、次期天皇に指名されたのは守仁親王(のちの二条天皇)でした。

これによって崇徳上皇は皇位継承から外れることとなり、次第に不満をためていくこととなります。

この守仁親王という人物は、鳥羽法皇の息子である雅仁親王を父親としていましたが、幼いころに母を亡くしたため、得子の養子となっていました。

そんな次期天皇として指名された守仁親王(のちの二条天皇)はまだ元服を迎えていなかったため、その父・雅仁親王が中継ぎ天皇として即位することとなり、久寿2年(1155年)8月13日、29歳で即位しました。(後白河天皇

後白河天皇は鳥羽法皇の息子であるため、鳥羽法皇は崇徳天皇、近衛天皇に続き、3度目となる院政を行います。

後白河法皇の息子・守仁親王が同年12月9日に元服を迎えると、得子は翌年の3月に自身の娘・姝子内親王を妃として入内させました。

この頃になると朝廷内では、近衛天皇が崩御したのは藤原忠実と藤原頼長が呪詛したため、という噂が流れ始めます。

この噂を聞いた得子は、藤原忠道とともにこの噂を鳥羽法皇に伝えると、鳥羽法皇は藤原忠実と頼長を失脚させました。

しかし、鳥羽法皇は保元元年(1156年)5月に病に倒れ、1か月後の7月2日午後4時頃に53歳で崩御となりました。

この間、得子は6月に出家し「真性空」と名乗っていたとされています。

保元の乱の勃発

この頃になると、鳥羽法皇によって失脚させられた藤原忠実と頼長が、皇位継承から排除され不満を抱く崇徳上皇と手を組むようになっていました。

こうして鳥羽法皇が崩御した直後の保元元年(1156年)7月8日、崇徳上皇方が挙兵します。

これに対し後白河天皇も兵を集め、崇徳上皇方を迎え撃ち、崇徳上皇方を破ると崇徳上皇を配流しました。(保元の乱

この時、すでに得子は出家していましたが、この乱において後白河天皇方に平清盛を誘うなど戦略的手腕を見せ、後白河天皇の勝利に導いたとされています。

平治の乱の勃発

保元の乱の後、後白河天皇方についていた信西という人物が国政を担うようになりました。

得子は信西に対し、亡き鳥羽法皇の孫であり、自身の養子・守仁親王の即位を要求します。

これによって保元3年(1158年)8月に守仁親王が即位することとなりました。(二条天皇

しかし、二条天皇の即位によって院近臣らが対立するようになり、平治の乱が勃発します。

得子の最期

この乱は永暦元年(1160年)3月11日に収束したとされていますが、得子は乱の収束を見届けた後、同年11月23日、44歳で亡くなりました。

死因は残念ながら分かっていません。

【逸話】藤原得子(美福門院)と平清盛や鳥羽天皇の関係とは

藤原得子は鳥羽天皇の皇后となった人物でした。

もともと身分の低い貴族出身であったため、天皇との子供を出産することができても皇后になることはほぼ不可能でした。

しかし、崇徳天皇に子供が誕生しなかったのもあり、鳥羽上皇は自身の息子である崇徳天皇を無理やり譲位させ、得子との皇子・体仁親王(近衛天皇)が即位させました。

これによって得子は晴れて皇后となることができたのです。

大出世を遂げた得子でしたが、保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇は病に倒れます。

この頃、譲位を無理矢理迫られた崇徳上皇は非常に不満がたまっていました。

この崇徳上皇を抑制していたのは得子や摂関・藤原忠通、また院近臣らであったため、鳥羽法皇は自身が病に倒れると、得子たちに重大な政治的危機が迫ると考え、北面武士を得子のもとに送ったとされています。

この北面武士とは、上皇や上皇の身辺を警衛する武士のことを指し、鳥羽上皇も北面武士らに護衛されていました。

その北面武士の中には、平清盛もいたとされています。

そんな上皇の護衛を行う北面武士らを鳥羽法皇は病に倒れた際、得子のもとに向かわせたとされており、その際、自身が亡くなった場合、本当に北面武士らは得子に従うのか不透明であったため、鳥羽法皇は北面武士らに誓約書を書かせたとされています。

北面武士を勤めていた平清盛は鳥羽法皇崩御後に勃発した保元の乱において、後白河天皇に味方します。

もちろん、上皇の護衛を行っていた北面武士であったため後白河天皇方に就いたというのもありますが、平清盛の後ろ盾となっていた藤原家成は鳥羽法皇の近臣でもあり、その藤原家成の従妹は得子にあたります。

それらの縁もふまえ、平清盛は保元の乱において後白河天皇方に味方しました。

まとめ 藤原得子(美福門院)のドラマや映画や小説はある?

以上、藤原得子の生涯や死因、平清盛や鳥羽天皇との関係性についてご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 低い身分の貴族出身
  • 鳥羽天皇の妃となる
  • 近衛天皇を出産後、皇后となる
  • 保元の乱の後、自身の養子・二条天皇を即位させる
  • 44歳で亡くなる

藤原得子という女性は、低い身分の貴族出身ながらにして、鳥羽天皇に寵愛を受け、皇后にまで上り詰めた女性でした。

大出世を果たした得子は、自身の子供である近衛天皇の妃探しに奔走し、また近衛天皇亡き後の後継者問題にも首を出す、その後に起きた保元の乱の後には自身の養子・二条天皇を即位させるなど、朝廷内で発言権を持ち、権力を最後まで保ち続けました。

低い身分の貴族出身であることを藤原頼長から馬鹿にされていた彼女でしたが、非常に賢く、策士のような女性であったことが分かります。

そんな藤原得子が登場する有名な大河ドラマは「平清盛」です。

この作品では

  • 藤原得子を女優の松雪泰子さん
  • 藤原璋子を女優の檀れいさん
  • 鳥羽天皇を俳優の三上博史さん
  • 近衛天皇を俳優の北村匠海さん

が演じられています。

他にも橋本治さんの小説「双調平家物語7保元の巻」に藤原得子は登場しています。

これを機に藤原得子に興味を持った方は、大河ドラマ「平清盛」、橋本治さんの小説「双調平家物語7保元の巻」を見てみてください。

以上「藤原得子(美福門院)の生涯と最後の死因、平清盛や鳥羽天皇との関係について」のご紹介でした。

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