藤原薬子と薬子の変をわかりやすく。美人の肖像画があるらしい?

あなたは藤原薬子という女性をご存知でしょうか。

平安時代初期、この女性が起こした乱は「薬子の変」と呼ばれ、授業で習った方が多いかと思います。

2003年頃から学校の教科書において「薬子の変」は「平城太上天皇の変」に表現が変えられました。

「薬子の変」を起こした藤原薬子という女性はどのような女性であったのでしょうか。

今回は藤原薬子の

  • 生涯
  • 家族
  • 肖像画
  • 「薬子の変」について

ご紹介していきます。

これを読めば藤原薬子の生涯や家族、また「薬子の変」の内容を知ることができますよ。

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藤原薬子とは誰?美人の肖像画が残ってる?

藤原薬子とは、平安時代初期に活躍した女官で、藤原種継の娘であり中納言藤原縄主の妻となった女性です。

残念ながら肖像画は残されておらず、薬子の容姿が記された史料も残されていません。

よって薬子が美人であったかは定かではありませんが、桓武天皇の息子・安殿親王(後の平城天皇)は妃として薬子の娘を宮中に迎えられたにも関わらず、薬子の娘ではなく、母親の薬子に恋をしてしまったので、薬子は年の割には美人であったのではないでしょうか。

藤原薬子の家族。兄や娘がいる?

藤原薬子は藤原式家の藤原種継の娘です。

父・藤原種継は第50代桓武天皇の片腕として活躍していた人物で長岡京遷都の責任者任されるほどの人物でした。

しかし、長岡京遷都に反対派のものによって殺害されてしまいます。

また薬子には兄・藤原仲成がいました。

父亡きあと、薬子は同じく藤原氏であった中納言藤原縄主と結婚し、三男二女の子どもを授かります。

798年頃、薬子の子どものうちの、まだ幼い長女が桓武天皇の皇太子安殿親王(後の平城天皇)の妃となりました。

この時、皇太子安殿親王は10代であったと推定されています。

薬子の娘が安殿親王(後の平城天皇)の妃となったため、母である薬子は女官として宮中へ招かれます。

女官とは妃や君主の身の回りの世話をする役割のことです。

この時、薬子の娘はまだ幼かったで、娘を思う親心で一緒に宮中へ向かいました。

しかし、宮中に行くと、薬子は娘を差し置いて皇太子安殿親王と男女関係となってしまいます。

この時、薬子は40代と推定され、30歳ほど離れた皇太子安殿親王と関係を持ってしまいました。

一説によると皇太子安殿親王の方が先に薬子を気に入ったとされていますが、自身よりも30歳も離れた女性を好きになることがあるでしょうか。

よって薬子から後の権力掌握を企み、娘を差し置いて皇太子安殿親王を誘惑したと考えられています。

30歳も年下の男性から気に入られた薬子でしたので、その容姿は年齢の割に美人で現代でいう美魔女であったのでしょう。

母親に、皇太子安殿親王を奪われた娘の気持ちを考えると不憫でなりません。

薬子と皇太子安殿親王が深い関係となったことを知った皇太子安殿親王の父・桓武天皇は当然激怒し、薬子を宮中から追い出します。

2人関係は終りかと思いきや、延暦25年(806年)桓武天皇が崩御し、皇太子安殿親王が即位となりました。

即位し、平城天皇となると、真っ先に薬子を宮中へと呼び戻しました。

またこの際、薬子の夫・中納言藤原縄主は薬子から遠ざけるため、九州の大宰府へと転勤させます。

こうして薬子は再び宮中へと戻り天皇のお世話係である尚侍となり、平城天皇との関係性は復活となりました。

常に平城天皇のそばにいた薬子は、政治への介入も行います。

そこに、薬子の兄・藤原仲成も天皇から寵愛を受ける薬子とともに政治に口出しするようになりました。

当然、この藤原兄弟のことを朝廷の関係者はよく思いませんでした。

薬子の変とは?空海や在原業平との影響をわかりやすく解説

大同4年(809年)平城天皇は病気を患ったため、同母弟の皇太弟神野親王(後の嵯峨天皇)に譲位し、奈良にある平城京へと移ります。

当然、薬子と薬子の兄・藤原仲成は好き勝手に政治活動が行えなくなることを危惧し、平城上皇の譲位に反対しましたが、弟に譲位される結果となりました。(天皇が譲位した場合、その天皇は上皇と名乗ることとなります。)

兄から譲位された弟の嵯峨天皇は京都の平安京で数々の政策を行います。

弟に譲位し、平城京に移っていた平城上皇でしたが、やはり権力を手放したことを後悔し始め、平安京にいた貴族たちに平城京への遷都の詔を発令しました。

もちろん弟・嵯峨天皇は平城京への遷都を拒否します。

このようなことから、

  • 平城京で兄・平城上皇
  • 平安京で弟・嵯峨天皇

このように2つの朝廷が誕生することとなりました。

薬子と薬子の兄・藤原仲成は平城上皇の復位をもくろんでいたため、平城上皇と嵯峨天皇の対立関係を大いに助長することとなります。

薬子が就いていた尚侍の職は天皇から太政官への命令書を発給する権利を持った職であったため、天皇と同じように国政に関与することができました。

このことを危惧した嵯峨天皇は、薬子の尚侍の職を剥奪、兄・藤原仲成を佐渡権守に左遷します。

平城上皇は、復権のためには武力で嵯峨天皇を倒すしかないと考え、自ら挙兵し、東国へと向かいます。

この挙兵には、薬子もついていきました。

しかしこの動きを知った嵯峨天皇は坂上田村麻呂に平城上皇の挙兵を阻止するよう命じます。

これによって平城上皇と薬子一向は、平安京に向かうことができず、平城京へと戻ることとなりました。

平城京へと戻った薬子は大同5年(810)9月12日、毒を飲み、自殺し亡くなります。

また

  • 兄・藤原仲成は殺害
  • 平城上皇は出家

となります。

この一連の流れを「薬子の変」と呼びます。

簡単にいうと薬子の変は、平城天皇と嵯峨天皇の兄弟喧嘩で、そのきっかけとなったのが薬子で、兄弟喧嘩を助長させたのが藤原兄弟(薬子と薬子の兄・藤原仲成)ということです。

藤原業平の薬子の変による影響

薬子の変で嵯峨天皇側が勝利したため、平城天皇の息子・阿保親王には皇位継承が認められず、皇位は嵯峨天皇系に移りました。

平城上皇の息子・阿保親王には五男・在原業平が誕生しています。

在原業平は薬子の変が起きた数十年後に生まれた人物ですので、薬子の変とはあまり関係がありませんが、薬子の変が起きず、父である阿保親王に皇位が継承されていたのなら、在原業平は親王になれたはずの人物でした。

薬子の変の影響によって親王になれなかったということです。

空海と薬子の変の関係性

この薬子の変において僧侶・空海は嵯峨天皇側に味方し、鎮護国家のための大祈祷を行っていました。

まとめ 藤原薬子と薬子の変。漫画や小説は?

藤原薬子の生涯や容姿、薬子の変のご紹介でした。

簡単にまとめると

  • 娘を差し置いて平城天皇と関係を持った
  • 平城天皇から寵愛を受けていたため国政に兄とともに介入
  • 平城天皇とその弟・嵯峨天皇が対立関係となり、平城天皇に味方する
  • 薬子の変では嵯峨天皇が勝利し、皇位は嵯峨天皇側に移る
  • 毒を飲み自殺する

薬子は、日本史の中でも悪女とされています。

もし、平城天皇と薬子が関係を持たなければ、薬子の変も起きず、嵯峨天皇に皇位が継承されることはなく、在原業平が親王となっていたかもしれません。

いつの時代も、男女問題のもつれはやっかいであることが分かりますね。

そんな藤原薬子が登場する小説は

  • 佐賀潜さんの 『乱花 — 藤原薬子の乱』
  • 三枝和子さんの 『薬子の京』
  • 斎藤憐作さん・串田和美さん演出 の『クスコ — 愛の叛乱 —』
  • 安永明子さん 『藤原薬子の乱幻想』

があげられます。

また漫画には

  • わたなべまさこさんの『藤原薬子』
  • おかざき真里さんの『阿・吽』

にも登場しています。

これを機に藤原薬子に興味を持った方は佐賀潜さんの 『乱花 — 藤原薬子の乱』や、わたなべまさこさんの『藤原薬子』などを読んでみてください。

以上「藤原薬子と薬子の変をわかりやすく。美人とされる肖像画」のご紹介でした。

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