藤原璋子(待賢門院)の生涯と最後の死因とは。西行や白河法皇との関係は?

あなたは藤原璋子(ふじわらのしょうし)という女性をご存知でしょうか。

平安時代末期、白河法皇の孫である鳥羽天皇の中宮として入内した女性です。

非常に美しい女性であったとされる藤原璋子は、夫である鳥羽天皇の祖父・白河法皇と入内前から男女の関係を持っていたとされ、それが原因で天皇家の混乱を招くこととなり、保元の乱のきっかけとなりました。

そんな平安時代の魔性の女、藤原璋子とは一体とのような人物であったのでしょうか。

今回は藤原璋子の

  • 生涯
  • 死因
  • 西行や白河法皇との関係

についてご紹介していきます。

これを読めば藤原璋子の生涯や死因、西行や白河法皇との関係性について知ることができますよ。

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藤原璋子の生い立ちと父母兄弟。待賢門院の意味は?

藤原璋子は平安時代にあたる康和3年(1101年)

  • 父・藤原公実
  • 母・藤原光子

の娘として誕生しました。

父・藤原公実と母・藤原光子との間に誕生した兄弟として

  • 男子・覚源
  • 男子・西園寺通季
  • 男子・仁実
  • 男子・徳大寺実能
  • 女子・藤原実子
  • 女子・藤原公子
  • 女子・源有仁室

がいたとされます。

幼少時から、当時政務の実権を握っていた白河法皇から寵愛を受けていたとされ、7歳の時に父・藤原公実が亡くなると、白河法皇とその妃・祇園女御の養女として引き取られます

非常に美しい少女であったとされ、永久3年(1115年)頃、璋子が10代前半頃に摂関家の嫡男・藤原忠通との縁談が持ち上がります。

藤原忠通との縁談話は、璋子の義父・白河法皇が持ち出したとされていますが、当時、璋子の素行について悪い噂があたっため、縁談相手である藤原忠通の父・忠実は璋子との縁談を断ったため白河法皇の不興を買うこととなりました。

縁談の破断理由となった璋子の素行の悪い噂について、藤原忠実は自身の日記に

  • 「奇怪なる聞こえ」
  • 「凡そ種々聞こえあり」
  • 「実に奇怪不可思議の人」
  • 「乱行の人」

と記しました。

これらの日記を読むと璋子は奇怪不可思議な人であったから、縁談を断られたのかと思いますが、実は、璋子には義父・白河法皇と男女関係があるといった噂が流れていたのです

幼い時に父を亡くし、白河法皇の養女となった璋子は、非常に白河法皇に甘えていたとされています。

白河法皇も我が子のように可愛がっていました。

ここまでは親子愛のようにも感じますよね。

しかし、璋子が入内後も義父・白河法皇との関係は一層深まることとなり、璋子と白河法皇の男女関係の噂が流れるようになりました。

そのため、その噂を知った藤原忠実は璋子との縁談を断ったとされています。

藤原忠通以外にも縁談話はあったとされていますが、この璋子と白河法皇との関係性が原因となり破談となることがあったとされています。

【美人?】藤原璋子(待賢門院)の経歴。最後や死因は?

永久5年(1117年)12月13日、璋子は白河法皇の孫・鳥羽天皇の妻として入内します。

永久6年(1118年)正月26日には中宮となり、元永2年(1119年)5月28日、璋子と鳥羽天皇の間に第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)が誕生しました。

2人にとって第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)の誕生は喜ばしいものでしたが、夫・鳥羽天王は、璋子が自身の祖父・白河法皇と男女関係を持っていることを知っていたため、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を我が子と認めず、祖父・白河法皇の子供と疑っていました。

そのため、第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を夫・鳥羽天皇は「叔父子(祖父の子)」と呼び、愛情を与えなかったとしています。

保安3年(1122年)6月になると第二子・禧子内親王が誕生します。

保安4年(1123年)正月28日、白河法皇は、5歳になったばかりの第一皇子・顕仁親王(後の崇徳天皇)を践祚させます。

これによって、第一皇子・顕仁親王は即位し、第75代天皇(崇徳天皇)となりました。

これに伴い、翌天治元年(1124年)11月24日に璋子に院号が与えられ「待賢門院」と呼ばれるようになります。

院号とは女院に与えられる称号のことで、邸宅が面する門にちなんで名前が付けられるとされています。

その後

  • 天治元年(1124年)に通仁親王
  • 天治2年(1125年)5月に君仁親王

が誕生しましたが、2人も障害を持って生まれたとされています。

また

  • 大治元年(1126年)7月に統子内親王(上西門院)
  • 大治2年(1127年)9月11日、雅仁親王(後の後白河天皇)
  • 大治4年(1129年)7月20日に覚性入道親王

が立て続けに誕生しました。

こうして璋子は5男2女の母となったのです。

わずか5歳で天皇となった自身の息子・崇徳天皇は幼いため、白河法皇が院政を行っていました。

しかし、そんな白河法皇は大治4年(1129年)7月7日、77歳で崩御します。

そのため、白河法皇の孫であり、崇徳天皇の父である鳥羽上皇が院政を行うようになりました。

しかし

  • 自身の息子・崇徳天皇を嫌っていた鳥羽上皇は崇徳天皇を孤立に追い込む
  • 璋子との縁談を断ったため白河法皇から嫌われていた藤原忠実を関白に起用する
  • 藤原忠実の娘・藤原聖子を崇徳天皇の妃とさせる

など好き勝手に行います。

それだけではなく、璋子よりも若い側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛しだすなど、璋子の居場所はだんだんとなくなっていきます。

当時の天皇であった自身の息子・崇徳天皇は藤原忠実の娘・藤原聖子を妃としましたが、2人の間に子供は恵まれませんでした。

そのため、保延5年(1139年)8月17日に夫・鳥羽天皇と側妃の藤原得子との間に体仁親王(のちの近衛天皇)が誕生すると、夫・鳥羽天王は誕生したばかりの体仁親王を立太子させ、自身の息子・崇徳天皇に譲位を迫りました。

父親から嫌われ、そのうえ譲位を迫られた崇徳天皇は永治元年(1141年)12月7日、体仁親王に譲位し、上皇となりました。

しかし、上皇となるも実権はなかったとされ、院政を行うこともできず、鳥羽田中殿に移ると和歌つくりに没頭します。

こうして、崇徳上皇に譲位され近衛天皇(体仁親王)が即位しましたが、この頃、近衛天皇の母・藤原得子を呪いにかけようとする呪詛事件が相次いで起こりました。

この事件に璋子は関わっていなかったとされていますが、世間では璋子が裏を引いているのでは?と噂されるようになります。

これだけではなく、崇徳上皇は、白河法皇の子供であったという噂も流れ始め、とうとう璋子の居場所は無くなってしまいました。

藤原璋子の最期

そのため、璋子は康治元年(1142年)に自ら建立した法金剛院(京都市右京区花園にある寺院)で出家します。

その後、久安元年(1145年)8月22日、兄・三条実行(父・藤原公実と藤原基貞女の子供)の三条高倉第で44歳で崩御しました。

死因は疱瘡であったとされています。

璋子が崩御した際、夫・鳥羽上皇が駆け付けたとされ、臨終の際は大声で泣き、妻・璋子の死を悲しんだとされています。

実の息子を嫌った上に、側妃の藤原得子(美福門院)を寵愛していたとされる夫・鳥羽上皇でしたが、夫婦仲は良かったようです。

藤原璋子崩御のその後

璋子が崩御した10年後、夫・鳥羽上皇の息子である近衛天皇は17歳で崩御しました。

その後の次期天皇として璋子の息子である雅仁親王が天皇に指名され後白河天皇となりましたが、朝廷は璋子で兄弟でもある後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が勃発しました。

この戦いで、崇徳上皇は敗れ、配流された後怨霊と恐れられることとなります。

自身の息子が兄弟同士で戦を起こし、1人は怨霊と恐れられる。

もし、璋子が生きていたらどう感じたでしょうか。

【逸話】藤原璋子(待賢門院)と西行や白河法皇の関係とは

自身の夫である鳥羽天皇の祖父・白河法皇と入内前から男女の関係を持っていたとされる璋子は、これが原因で、多くの貴族男性との縁談を破談にしてきました。

入内後も関係は続いたとされ、夫・鳥羽天皇との間に誕生した崇徳天皇を夫は自身の子供と認めず、生涯冷たい態度を貫き、崇徳天皇は父親に愛されることなく崩御しました。

そんな原因をつくったのは、白河法皇と男女関係があるのでは?とされる璋子です。

入内後はしっかり妻として白河法皇との関係を絶っていたら、崇徳天皇は父親である鳥羽天王から愛情を受けることができたかもしれません。

白河法皇や鳥羽天皇のみならず、西行という僧も璋子の虜になっていたとされています。

西行と呼ばれる僧は当時、佐藤義清という名前でした。

佐藤義清は北面の武士として鳥羽天皇の護衛を務めていた人物で、璋子よりも17歳も年下の男性です。

そんな佐藤義清と璋子は一度関係を持ったとされていますが、1度きりの関係に終わり、失恋した佐藤義清は23歳で出家し西行と名乗りました。

璋子が崩御すると西行は璋子の眠る法金剛院に幾度も通ったとされています。

璋子は

  • 白河法皇
  • 鳥羽天皇
  • 西行

などを虜にした女性でした。

まとめ 藤原璋子(待賢門院)のドラマや映画や小説はある?

藤原璋子(待賢門院)の生涯や死因、西行と白河法皇の関係性についてのご紹介でした。

簡単にまとめると

  • 白河法皇の養女となり寵愛され、男女関係の噂が流れる
  • 鳥羽天皇の妃となる
  • 院号を与えられ待賢門院と名乗る
  • 居場所が無くなり出家
  • 白河法皇、鳥羽天皇、西行を虜にした女性であった
  • 疱瘡によって44歳で亡くなる

璋子は美しい容姿から白河法皇、鳥羽天皇、西行を虜にした女性でした。

白河法皇との男女関係が噂され天皇家の混乱に繋がることとなりましたが、悪意はありませんでした。

璋子が崩御した後、天皇の座を巡って兄弟同士の争いである保元の乱が勃発することとなりましたが、もし璋子が生きていたのなら母である璋子はどのように感じ取ったのでしょうか。

そんな藤原璋子が登場する有名な大河ドラマは「平清盛」です。

この作品で

  • 藤原璋子を女優の檀れいさん
  • 鳥羽天皇を俳優の三上博史さん
  • 白河法皇を俳優の伊東四朗さん
  • 西行を俳優の藤木直人さん

が演じられています。

美しい美貌の持ち主で、3人の男性を虜にしたとされる藤原璋子を檀れいさんが演じるなんて、ピッタリの配役と感じます。

ドラマの他にも安永 明子さんの小説「待賢門院璋子―保元の乱前夜 」に藤原璋子は登場していますよ。

これを機に藤原璋子に興味を持った方は大河ドラマ「平清盛」、小説「待賢門院璋子―保元の乱前夜 」を見てみてください。

以上「藤原璋子(待賢門院)の生涯と最後の死因、西行や白河法皇との関係性」についてのご紹介でした。

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