あなたはクレオパトラと聞くと、どのような人物を思い浮かべますか?
- 絶世の美女、
- 聡明な策略家、
- 恋に生きた女性、
- 悲劇的な最期
……などでしょうか。
あまり歴史に詳しくない人でも、クレオパトラの名前ぐらいなら聞いたことがあると思います。
ですが、クレオパトラというだけでは正確ではない、ということをご存知でしょうか?
実は、クレオパトラという名前の女性は、古代エジプト王朝に何人も存在します。
あなたがよく知っているクレオパトラとは「クレオパトラ7世フィロパトル」と呼ばれる人物です。
大抵は後半のフィロパトルを省いた、クレオパトラ7世の名前で表記されています。
ちなみに、クレオパトラという名前の意味は、ギリシア語で「父親の栄光」という意味です。
そんな意味の名前を授けられた彼女がどのような人生を送ったのか、これから詳しく解説していきます。
- クレオパトラ7世の生い立ちとは?
- クレオパトラ7世の経歴は?
- エピソードからみるクレオパトラ7世の性格とは?
読むと、クレオパトラについて、よくわかりますよ!
勉強になったなあ~と、世界史の知識が1つ覚えて賢くなれます!
ぜひご覧ください(^^)
クレオパトラ7世の生い立ちとは?
紀元前70年の12月か、紀元前69年の1月……
クレオパトラ7世は、父親であるプトレマイオス12世と、母親のクレオパトラ5世の三女として、プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアで生まれたといわれています。
プトレマイオス朝とは紀元前306~紀元前30まで続いた、ヘレニズム国家の一つであり、歴代クレオパトラも全て、プトレマイオス朝時代に生まれています。
当時のエジプト王朝内では、権力を巡って骨肉の争いが絶えず、クレオパトラ7世の父親も自身の姉にあたるベレニケ4世を処刑しています。
紀元前51年……
クレオパトラ7世は父親の死去とともに、慣習と遺言に従って弟であるプトレマイオス13世と兄弟婚を行い、共同で王位に就きます。クレオパトラ7世が18歳のときでした。
しかし、ローマとの同盟を考える彼女の政策は、プトレマイオス13世や、その側近たちとの間に確執を生みだすこととなります。
紀元前49年……
ローマでユリウス・カエサル派と、元老院派との間で内戦が勃発し、クレオパトラ7世は父王との繋がりがあった元老院派を支援します。
このときの多大な支援がきっかけで、小ポンペイウスと愛人関係になったともいわれています。
紀元前48年……
アレクサンドリアの住民たちが起こした反乱をきっかけとして、ローマからの独立を果たしたかったプトレマイオス13世派がクーデターを決行し、彼女は東部国境のペルシオンという場所に追いやられることになります。
クレオパトラ7世の経歴は?
同じく紀元前48年……
カエサルはクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の和解を図るために、2人をアレクサンドリアへと招集します。
しかし、辺境の地でプトレマイオス13世と戦闘中だった彼女にとって、アレクサンドリアへの出頭は容易ではありませんでした。
そこで一計を案じて、彼女はカエサルへの贈り物に自らを紛れ込ませることで、カエサルのいる王宮内に侵入したと伝えられています。
このときクレオパトラ7世を運んだ贈り物が、何だったのかについては諸説あり
- 絨毯、
- 寝具、
- 袋
など、様々な説が唱えられています。
このなかで一番有名なのは、絨毯説。
どのような方法だったとしても、クレオパトラ7世とカエサルが出会ったのは確かな事実であり、彼女に魅了されたカエサルによって、2人は愛人関係となります。
しかし、この出来事にプトレマイオス13世は激怒し、2人の和解は結局15日間しか続きませんでした。
紀元前47年……
ナイル川の戦いにより、カエサルはプトレマイオス13世派を制圧、プトレマイオス13世はナイル川で溺死したと伝えられています。
この年には、クレオパトラ7世とカエサルの間に、息子であるカエサリオン(プトレマイオス15世)が誕生しています。
プトレマイオス13世の死後、カエサルの後ろ盾を得た彼女は、6人兄弟の末子であるプトレマイオス14世と兄弟婚を果たし、再びエジプトの共同統治者となります。
しかし、共同統治者とは名ばかりで、実際にはクレオパトラ7世の単独統治に近いものでした。
紀元前44年……
カエサルが暗殺され、エジプトへと帰国します。帰国後、プトレマイオス14世が死去。息子であるプトレマイオス15世を共同統治者に指名します。
紀元前42年……フィリッピの戦いでブルートゥスを支援するものの、ブルートゥスは敗北してしまいます。
このことにより、三頭政治側のマルクス・アントニウスに出頭を命じられるも、瞬く間にアントニウスを虜にし、後に双子の男女と、もう1人の息子をもうけます。
紀元前31年……ローマとエジプトの仲は徐々に悪化していき、アクティウムの海戦が勃発します。
紀元前39年の8月29日……ローマとの戦いに敗れたことにより、彼女はコブラに胸を噛ませて自殺してしまいます。39歳という若さでした。
エピソードからみるクレオパトラ7世の性格とは?
ここまでクレオパトラ7世の生涯を見てきましたが、あなたはどう感じられたでしょうか?
私には、やはり彼女は男性を虜にする才能に長けた聡明な人物であったと思われました。
意志が強く、やや強引な手法もいとわない、行動することを恐れない人。
それでも判断を誤ることもあり、人に憎まれることもあった等身大の女性としての生涯を送った人物という印象でした。
しかし、その一方で彼女の人生には「毒殺」というキーワードがつきまとっています。
一説によると、すぐ下の妹であるアルシノエ4世も、プトレマイオス13世に加担していたために、クレオパトラ7世の毒殺の実験台にされて殺されたのではないかという話もあります。
また、プトレマイオス14世も彼女に毒殺された可能性があり、自身もコブラの毒によって死亡しています。
アルシノエ4世のものとみられる墓と遺骨については、近年トルコで発見されており、頭蓋骨のデータから顔の復元図も公表されています。
しかし、クレオパトラ7世については、墓も遺骨も未発見の状態です。
いつか発見されるときが来れば、おそらく研究ももっと進むのでしょう。
その日を待ち望んで止みません。
まとめ クレオパトラの性格や経歴は?生い立ちとエピソードがスゴすぎた!
クレオパトラの性格や経歴は?生い立ちとエピソードを紹介しました。
以下にまとめてみます。
- クレオパトラ7世の生い立ちとは? 骨肉の争いが絶えない王宮内で、怯むことなく自身の信じる政策を推し進めようとして、結果的に市民や弟たちから追放されることとなった。
- クレオパトラ7世の経歴とは?
ローマの権力者たちの後ろ盾を得るために奔走し、4人の子どもの母親としても懸命に生きたにも関わらず、ローマに敗れてコブラの毒で自殺するという無念な最期を遂げた。
- エピソードからみるクレオパトラ7世の性格とは?
魅力的で聡明、信念の人であったけれども、自身の政策をつらぬくためなら手段を選ばない怖さがあった。
最後に、クレオパトラ7世に関する作品を紹介します。
- 『クレオパトラ』……1963年公開のアメリカ映画。
- 『クレオパトラの謎』……吉村作治著、講談社現代新書
- 『世界一面白い古代エジプトの謎【ツタンカーメン/クレオパトラ篇】』……吉村作治著、中経の文庫
- 『クレオパトラ本編』……黒田かすみ著、beaglee、漫画
- 『クレオパトラな日々』……柳原満月著、竹書房、4コマ漫画
私が特にオススメしたいのは、これです!
『世界一面白い古代エジプトの謎【ツタンカーメン/クレオパトラ篇】』……吉村作治著、中経の文庫
吉村作治先生というと、なんとなく気難しそうで、文章も難解そう……とついつい敬遠してしまいそうになると思います。
ところが、意外なことに読んでみるとものすごくわかりやすいんです。
しかも笑いどころがあちこちにあって、楽しみながら、ときには吉村先生と一緒に古代エジプトの謎に迫りながら、あっという間に読めてしまいます。
考古学の入門書としてもオススメです。
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