黒田長政の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは黒田長政という人物をご存知ですか?

黒田長政は豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の息子です。

関ヶ原の戦いで活躍したことで徳川家康にも気に入られました。

今回は黒田長政について

 

  • 黒田長政の生い立ちとは?
  • 黒田長政の経歴や最後は
  • 【エピソード】黒田長政の人柄や性格が分かる逸話

 

を紹介します。

 

こちらを読めば黒田長政の経歴や性格がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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黒田長政の生い立ちとは?

黒田長政は永禄11年(1568年)12月3日に播磨国姫路城にて黒田官兵衛の嫡男として生まれます。

幼名は松寿丸です。

黒田長政が生まれた当時の黒田家は、播磨国御着城(ごちゃくじょう)城主・小寺政職に仕えていました。

また、家老(家臣の長)として仕えていたため、小寺姓を賜り小寺吉兵衛とも呼ばれていました。

しかし、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が天下統一に動くと播磨国にも影響し、播磨国では織田方につく国人と西から攻めてくる毛利方にわかれて争います。

黒田家が仕えていた小寺氏は織田方についた播磨国龍野城主・赤松氏や三木城主・別所氏と戦います。

  • 永禄12年(1569年) 青山・土器山城の戦い(対 赤松)
  • 天正元年(1573年) 増位山・有明山城(対 別所)

この状況の中、黒田長政の父・黒田官兵衛は小寺政職に対して織田家への従軍を進言し織田信長に従います。

この時、9歳だった黒田長政は人質として織田家家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の居城・近江国長浜城へ行きます。

黒田長政は人質として送られていましたが、羽柴秀吉の正室・おね夫人からは大切に育てられます。

黒田長政の6歳上には加藤清正、7歳上には福島正則がおり、ともにおね夫人のもとで育てられました。

ところが天正6年(1578年)に10歳だった黒田長政が死ぬかもしれない状況になってしまいます。

理由は織田信長の家臣で1度は降伏した荒木村重という武将が反旗を翻したからです(有岡城の戦い)。

この説得に行ったのが荒木村重とは旧知の仲で、長政の父でもある黒田官兵衛でした。

しかし、荒木村重は黒田官兵衛を監禁してしまいます(約1年間の監禁)。

中々戻ってこない黒田官兵衛に対して疑い始めたは織田信長は、黒田官兵衛が裏切ったと思い黒田長政を処刑するように命令します。

この処刑役を買って出たのが黒田官兵衛とともに秀吉に仕えていた竹中半兵衛でした。

しかし竹中半兵衛は黒田長政を処刑せず長浜城から自身の居城・菩提山城(ぼだいやまじょう)に匿います。

竹中半兵衛は黒田官兵衛が裏切っていないと分かっていたためだといわれています。

そして織田信長には処刑したと嘘の報告をします。

父・黒田官兵衛は1年後に有岡城が落城した際に救出され姫路に戻ることができ、黒田長政も姫路に帰ることができました。

その頃、織田信長は嘘をついた竹中半兵衛を処罰しようとしますが、この時、竹中半兵衛はすでに病によって36歳で亡くなっていました。

黒田長政は自分の死期を察していた竹中半兵衛によって命を救われました。

これ以降、黒田家と竹中家は固い絆で結ばれることになります。

黒田長政の経歴や最後は?

天正10年(1582年)6月に本能寺の変で織田信長が亡くなると、黒田長政は羽柴秀吉に仕えます。

  • 天正10年(1582年)4月から6月 備中高松城攻め(対 毛利氏) 長政の初陣
  • 天正11年(1583年)4月 賤ヶ岳の戦い(対 柴田氏) 河内国(大阪東部)に領地をもらう
  • 天正12年(1584年)3月から11月 小牧長久手の戦い(対 徳川氏) 大阪城の守り長宗我部水軍と戦う
  • 天正15年(1587年)昨年の7月から4月 九州平定(対 島津氏) 日向国高鍋城を攻略

といった活躍を見せ、豊前国中津12万5千石を与えられます(一石とは成人男性が一年間に食べる米の量、12万5千人を養えるぐらいの米を収穫できる=財力がある)。

天正17年(1589年)、21歳の時に黒田家の家督を相続します。

豊臣秀吉の朝鮮征伐にも参戦します。

文禄の役(1592年から1593年)では第3番隊の主将として朝鮮へ渡り、漢城(現在のソウル)や開城(ケソン、朝鮮民主主義人民共和国南部の都市)を制圧します。

  • 文禄元年(1592年)6月15日 大同江(だいどうこう)の戦い 夜襲を受けた宗勢を救出し朝鮮軍を破る
  • 文禄2年(1593年)1月26日 碧蹄館(へきていかん)の戦い 南下してきた朝鮮軍を撃退する
  • 文禄2年(1593年)6月21日 第2次晋州城攻防戦 晋州城を攻略で活躍する

慶長の役(1597年から1598年)では加藤清正らと供に右軍を率きいます。

黄石山城を落とすほか、稷山の戦いや蔚山城の戦いで明軍を撃退する活躍をします。

豊臣秀吉が亡くなると黒田長政は日本へ撤退します。

豊臣秀吉亡き後は、石田三成との対立から徳川家康に近づきます。

この時、正室であった糸姫(秀吉家臣・蜂須賀正勝の娘)と離縁し、徳川家康の養女・栄姫を正室に迎えます。

また、五大老(秀吉亡き後に豊臣政権を動かしていた五人のこと)1人で石田三成と徳川家康の仲を取り持っていた前田利家が亡くなると、黒田長政は加藤清正や福島正則といった反石田三成の武将らと暗殺未遂事件を起こします。

そして、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いは東軍として参戦し、黒田長政は西軍の前線に猛攻を加え、石田三成の家老・島左近を討ち取るほか、小早川秀秋らを寝返らすための交渉の指揮もとり、東軍勝利の1番の功労者として筑前国名島52万3千石を与えられました。

筑後国に入った黒田長政は居城であった名島城が小さかったため、新しく福岡城を築城します(慶長6年に着工し慶長11年に完成します)。

慶長9年に父・黒田官兵衛が亡くなると、父はキリシタンであったことからカトリック形式で葬儀を行います。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には参戦せず(嫡男・忠之が参戦する)江戸城を守っていました。

冬の陣の翌年に起きた大坂夏の陣では第2代将軍・徳川秀忠の軍に属して豊臣軍と戦い、豊臣家を滅ぼしました。

元和9年(1623年)7月27日には徳川家光の第3代将軍の宣下(天皇が征夷大将軍に任命すること)に参加するために上洛します。

しかし、この頃にはすでに病を発症しており同年8月4日に56歳で亡くなりました。

黒田長政の死後、黒田家では2代目藩主の黒田忠之(長政の嫡男)と筆頭家老・栗山大膳との間で争い(江戸三大お家騒動の1つである黒田騒動)が起こりますが、徳川家光の裁きによって10年で収まります。

以後、黒田家は幕末まで続きました。

【エピソード】黒田長政の人柄や性格が分かる逸話

黒田長政のエピソード1.戦場以外では敵でも礼儀正しく接す

黒田長政は石田三成とは意見が合わず、豊臣政権内では対立していました。

とくに、長政の父・黒田官兵衛は石田三成とは政敵であったことから、父が石田三成のせいで失脚させられた(同年代の一次史料がないことから本当かは不明)ことを恨んでいました。

そして関ヶ原の戦いで東軍として参戦し石田三成に勝利します。

負けた石田三成は捕縛され大津城の門前で行き曝し(いきさらし、罪人を見世物にする)刑に処されます。

石田三成の無様な姿を見に来た武将らは三成に侮蔑的な言葉をかけます。

とくに福島正則は唾まで吐いたともいわれています。

しかし、黒田長政は侮蔑的な言葉をかけるどころか、馬から下り三成が着ていた服が汚かったため自身の羽織を着させました。

この後に石田三成は六条河原で斬首刑に処されますが、黒田長政は最後まで石田三成を武将として敬っていました。

黒田長政のエピソード2.降伏した敵をだまし討ち

豊臣秀吉の九州平定に参戦した黒田長政は豊前国中津に領地を与えられますが、豊前国の国人領主であった城井谷城城主・城井鎮房(きいしげふさ)は豊臣秀吉の出陣命令に対して、病気を理由に参陣せず、子の朝房にわずかの兵をつけて参陣させます。

秀吉は城井鎮房の行動を不信に思い、九州平定後に伊予国(愛媛県)に移封を命じますが、城井鎮房は拒否し秀吉は激怒します。

城井鎮房の態度に対して、黒田長政は城井谷城を攻めますが、城井軍のゲリラ戦法によって苦戦します。

これに対して、黒田長政は兵糧攻めをします。

兵糧が無くなってはさすがに戦えなくなった城井鎮房は13歳の娘・鶴姫を人質に降伏を申し入れます。

しかし、この降伏を豊臣秀吉は了承しませんでした。

黒田長政は秀吉の了承を得られないと知ると城井鎮房の暗殺を決心します。

天正16年(1588年)4月20日に城井鎮房を中津城に招き酒宴を開きました。

この時、城井鎮房の家臣は合元寺(ごうがんじ)に待機しているよう命じられ酒宴には鎮房忠一人でした。

そして、互いに一杯ずつ酒を飲むと、急に四方から部屋の外に隠れていた兵が飛び出してきて城井鎮房を暗殺しました。

さらに黒田長政は合元寺にいた城井家臣らを皆殺しにし、城井鎮房の娘で人質だった13歳の鶴姫をはじめ13人の侍女を磔にして処刑します。

合元寺は殺された家臣達の血で壁が染まったため白く塗り直しましたが、何度も血の跡が浮かび上がったことから合元寺の壁を赤色で染めました(赤壁伝説)。

そのため、合元寺の入り口には赤壁合元寺の書かれています。

File:View of Sammon Gate of Goganji Temple.jpg - Wikimedia Commons

また、この事件以降、中津城では城井一族の幽霊が出るようになったとも言われています。

この心霊現象は黒田長政を苦しませたため、福岡城の二の丸に城井権現を祀ったとも言われています。

黒田長政のエピソード3.文化や名産品も好んだ

黒田長政は武勇にかけていましたが、藩主となってからは文化や名産品にも目をつけました。

黒田長政は大坂の陣の後に一流の絵師を集めて『大坂夏の陣図屏風』を描かせます。

この絵は、現在、国の重要文化財に指定されています。

大坂夏の陣図屏風 右隻部分

大坂夏の陣図屏風 - Wikipedia

また、福岡県の名産品である博多人形や博多織などの福岡の伝統工芸なども復興させ奨励しました。

侵略者を懲らしめる鎌倉武士(白水六三郎作)「元寇史料館

博多人形 - Wikipedia

博多帯

博多織 - Wikipedia

まとめ 黒田長政はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで黒田長政について紹介してきましたがいかがでしたか?

まとめてみると

  • 黒田長政は9歳の時に人質として羽柴秀吉のもとに送られます
  • 黒田長政は10歳の時に処刑されそうになりますが竹中半兵衛のお陰で助かる
  • 黒田長政は豊臣秀吉の家臣として天下統一を成し遂げる
  • 黒田長政は関ヶ原の戦いでは東軍につく
  • 黒田長政は幕臣として活躍した

大河ドラマでは

  • 俳優の長谷川公彦さんが演じた『江~姫たちの戦国~』(2011年)
  • 俳優の松坂桃李さんが演じた『軍師官兵衛』(2014年)
  • 俳優の大神拓哉さんが演じた『真田丸』(2016年)

があります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上「黒田長政の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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