黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師として活躍し、竹中半兵衛とならび後世には「両兵衛」「ニ兵衛」と呼ばれた武将です。
戦術面に優れ豊臣秀吉を補佐するほか、外交や調略などにも優れ幅広い活躍をしました。
今回は黒田官兵衛について
- 黒田官兵衛の代表的な戦とは
- 【逸話】黒田官兵衛の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】黒田官兵衛の強さはどれくらい?
こちらを読めば黒田官兵衛の戦や強さがわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
黒田官兵衛の代表的な戦とは
黒田官兵衛の代表的な戦い1.備中高松城攻め
天正10年(1582年)、織田信長の命令で毛利方の備中高松城攻めに参戦します。
備中高松城の周辺は湿地帯であったため難攻不落の城でした。
- しかし、備中高松城は水面から4m程しか無かったため、そこを突いた黒田官兵衛は水攻めを羽柴秀吉に提案します。
- 備中高松城の周りを高さ5m程の堤防を約3km造り城を囲みます。
- また、梅雨であったことから足守川が増水し城はたちまち水没します。
城攻めは順調にいっていましたが、ここで大事件が起こります。
その事件というのが本能寺の変です。
その後、織田信長の死を毛利方に気づかれないように和平交渉し、備中高松城主・清水宗治の自害を条件に羽柴秀吉は撤退します。
黒田官兵衛の代表的な戦い2.九州征伐
天正14年(1586年)10月、九州で勢力を伸ばしてた島津氏の攻撃によって、危機を迎えていた大友氏から救援要請が豊臣秀吉のもとに来ます。
- 豊臣秀吉は毛利氏を中心とする先鋒部隊を豊前国(福岡県東部、大分県北部)へ派遣します。
- 黒田官兵衛は先鋒部隊の軍監(軍事の監督)として参戦します。
黒田官兵衛は戦う前に九州北部の豪族や諸勢力に対して「味方をすれば領地を安堵、寝返りできない者は刃向うな」と調略します。
この調略により降伏する者が多くいたこと(一部は抵抗したため討伐)で、12月までには豊前国と筑前国「福岡県北西部」を平定します。
そして天正15年3月に豊臣秀吉が約20万の兵を率いて豊前に到着し、5月には島津氏が降伏しました。
黒田官兵衛の代表的な戦い3.小田原征伐
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一のため関東の大勢力北条氏の居城・小田原城に進軍します。
小田原城は堅固な要塞であったことから豊臣秀吉が長期戦になると考えていましたが、各方面軍が順調に城を落としたことや一夜城の効果もあり北条軍の士気を落とすことに成功します。
豊臣秀吉は北条家への使者として黒田官兵衛小田原城へ行き無血開城させました。
黒田官兵衛は兵を従えず丸腰で来たことから北条氏政は感銘したと言われています。
小田原城の落城によって豊臣秀吉が天下統一をしました。
【逸話】黒田官兵衛の勝ち戦と負け戦は?
黒田官兵衛の勝ち戦:青山・土器山の戦い
永禄12年(1569年)、黒田職隆・官兵衛と赤松政秀との間で起こった戦いです。
この戦いの原因となったのが赤松家内での争い(赤松宗家・赤松義祐と龍野赤松家・赤松政秀)からでした。
永禄元年(1558年)、赤松義祐は浦上政宗から擁立される形で赤松家の当主となっていました。
一方、赤松政秀は岳父(妻の父)・赤松晴政が浦上政宗(晴政は父の仇)によって追放されたことで保護していました。
この二人は赤松晴政の死によって1度は和睦をするも、永禄10年(1568年)に足利義昭が将軍となると、赤松政秀は将軍家との関係を築いていきます(縁戚関係、播磨守護の獲得)。
この赤松政秀の行動を危惧した赤松義祐は家臣の小寺政職(黒田家の主君)と村上宗景(政宗の弟)に龍野城攻めを命令します。
一方、赤松政秀は足利義昭に援軍を要請し、足利義昭は織田信長に播磨国出兵を命令します。
織田軍は池田隊を中心に東播磨の別所隊らを派遣します。
また、浦上家では家臣の宇喜多直家が謀反を起こします。
足利将軍家と織田家の介入、さらに浦上家での宇喜多直家の謀反などもあり優勢に立った赤松政秀は小寺家領の姫路城に進軍します。
この姫路城を任されていたのが黒田職隆・黒田官兵衛の黒田家でした。
ここまでの陣容をまとめてみると
〇赤松宗家・赤松義祐方
- 浦上家
- 小寺家
- 黒田家
〇龍野赤松家・赤松政秀方
- 織田家(池田勢・別所勢)
- 宇喜多家
青山の戦い
永禄12年(1569年)5月、赤松政秀が約3000の兵を率いて姫路城に侵攻してきます。
この時の黒田軍は、主君・小寺政職が多くの兵を率いて赤松義祐と置塩城に籠もってしまったため、300程しかいませんでした。
また、姫路城は現在のような大城郭ではなかったため籠城ではなく野戦を仕掛けます。
黒田官兵衛は姫路城の西にある青山に兵を潜ませます。
そして、姫路へ進軍しているところを奇襲し撃退します。
土器山の戦い
同年6月、赤松政秀が再び約3000の兵を率いて攻めてきました。
黒田軍約300は青山に近い夢前川の対岸にある土器山(かわらけやま)に陣取ります。
青山の戦いで奇襲を受けた赤松政秀は今度は自分が土器山(現在の船越山あたり)に奇襲をかけます。
この奇襲によって叔父・井上友氏と家臣の母里小兵衛が戦死し黒田軍は大打撃を受けます。
しかし、英賀城(あがじょう)の三木通秋と姫路城から父・黒田職隆の援軍によって体勢を立て直します。
大打撃を受けた黒田軍でしたが黒田官兵衛はあえて攻勢に転じ、赤松軍が陣取っていた小丸山に夜襲をかけ敗走させました。
黒田官兵衛は追撃を命令し数百人を討ち取りました。
しかし、黒田軍も多くの母里武兵衛(小兵衛の子)ら280人以上の死傷者を出し途中で追撃を止めます。
この戦いの結果、黒田家は領地を守り、赤松政秀は浦上宗景に屈服します(2年後に政秀は浦上家に暗殺されます)。
黒田官兵衛の負け戦:上月城救出戦
天正6年(1578年)4月から7月まで間、毛利軍と尼子再興軍・織田軍との間で起こった戦いです。
天正5年(1577年)、織田信長は本格的に中国の毛利氏を討伐するために西に軍を進めます。
黒田官兵衛は羽柴秀吉とともに毛利氏の最前拠点である上月城を攻撃し落とします。
この上月城の防衛を任されたのが尼子勝久と山中幸盛(別名:山中鹿之助)です。
尼子氏は永禄9年(1566年)に毛利氏によって滅ぼされますが、遺臣の山中幸盛が尼子一族の尼子勝久を擁立し尼子氏を再興するために織田軍に味方していました。
しかし、天正6年(1578年)3月に播磨国の別所氏が毛利氏へ寝返ると織田信長は上月城ではなく、別所氏の居城・三木城へと視点を切り替えます。
そして、毛利家臣・吉川元春と小早川隆景らが上月城へ進軍し4月18日に城を包囲します。
両軍の兵力は
- 尼子・織田軍が約1万3千
- 毛利軍が約3万人
と毛利軍の方が優勢でした。
しかし、織田軍が別所氏の集中していたことから実際は尼子軍3千程でした。
毛利軍は兵糧攻めをし尼子軍は次第に士気が無くなっていきます。
この状況に羽柴秀吉と黒田官兵衛は別所氏を攻撃しつつも尼子氏を支援する動きを見せますが、織田信長は播磨国平定を優先していたため上月城は捨て駒にされてしまいます。
そして、7月1日に尼子軍は降伏し尼子勝久など尼子一族は自害し、山中幸盛は備後国へ輸送中に暗殺され、尼子家は滅亡しました。
黒田官兵衛は尼子家を救出できなかったことを悔やんだといわれています。
【最強伝説】黒田官兵衛の強さはどれくらい?
黒田官兵衛の強さ1.忍耐強さ
織田信長の中国地方侵攻の際に摂津国の荒木村重が謀反を起こし有岡城に籠城します。
また、主君の小寺政職も荒木村重に呼応し織田信長を裏切ろうとします。
この状況に対して黒田官兵衛は荒木村重を説得するために単身で有岡城に向かいます。
しかし、荒木村重によって拘束され幽閉されてしまいます。
荒木村重は黒田官兵衛と旧知の仲であったことから仲間に引き入れようとしましたが、黒田官兵衛は応じませんでした。
幽閉生活は1年続き片足が悪くなるものの有岡城が陥落するまで耐え抜きました。
黒田官兵衛の強さ2.斬新な戦術
黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師として多くの戦術を考案します。
中でも一番有名なのが備中高松城を攻撃した際の水攻めです。
備中高松城は湿地帯に建っていたため難攻不落でしたが、黒田官兵衛はこの湿地帯を利用します。
敵の強みを利用して敵を倒すという頭のキレるところが黒田官兵衛の強さでしょう。
黒田官兵衛の強さ3.少ない兵で敵を倒す
黒田家が小寺家家臣の時は少ない兵で戦うことが多くありました。
青山の戦い、土器山の戦い、英賀合戦はいづれも10倍近い相手に戦っています。
しかし、黒田官兵衛は奇襲攻撃をしかけ戦に勝っています。
これは黒田官兵衛の統率力が高かったからでしょう。
まとめ 黒田官兵衛のおすすめ作品や本。大河ドラマ
ここまで黒田官兵衛について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 黒田官兵衛は少ない兵でも高い統率力で敵を倒した
- 黒田官兵衛は厳しい状況でも耐え抜いた
- 黒田官兵衛は奇襲攻撃を得意とした
- 黒田官兵衛は行動力があった
オススメ作品
- 大河ドラマでは岡田准一さんが演じた『軍師官兵衛』
- 本では吉川英治さんの『黒田如水』
- 諏訪勝則さんの『黒田官兵衛ー「天下を狙った軍師」の実像』がオススメです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
以上、「黒田官兵衛の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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