黒田長政は豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の息子で武勇に優れていました。
豊臣秀吉の家臣として多くの戦に参戦し天下統一を成し遂げます。
また、徳川家康から気に入られ江戸時代には福岡藩の初代藩主となりました。
今回は黒田長政について
- 黒田長政の代表的な戦とは
- 【逸話】黒田長政の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】黒田長政の強さはどれくらい?
を紹介します。
こちらを読めば黒田長政の戦や強さがわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
黒田長政の代表的な戦とは
黒田長政の代表的な戦い1.冠山城の戦い
この戦いは天正10年(1582年)6月に織田軍(羽柴勢)と毛利軍(清水勢・林勢)との間で起こった戦い。
羽柴秀吉の水攻めで有名な備中高松城攻めの前哨戦といわれている戦いで黒田長政にとっては初陣となった戦いでした。
黒田長政はこの戦いで兜首(身分のある武将の首)を上げ功名を上げたと言われています。
この戦いぶりに父・黒田官兵衛からは褒められるどころか叱責されてしまいます。
理由は、黒田長政は将来は黒田家の後継者であったことから、勇猛果敢(勇ましく力強い)な姿は結構ですが、猪突猛進(向こう見ずに突進する)のような戦いをするのは危険であったからでした。
黒田長政の代表的な戦い2.小牧長久手の戦い
この戦いは天正12年(1584年)に羽柴軍と織田・徳川連合軍との間で起こった戦いです。
織田信長の死後に台頭した羽柴秀吉は柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破ると、柴田方の織田信雄を安土城から追い出します。
織田信雄は徳川家康と同盟を結び親羽柴秀吉派の家臣を処刑したため、羽柴秀吉は出陣します。
この時、黒田長政は父とともに大坂城を守っていましたが、羽柴秀吉が留守している隙を突いて雑賀衆(紀伊国雑賀荘周辺の鉄砲傭兵・地侍集団)や根来衆(ねごろしゅう、紀伊国北部の根来寺周辺一帯に居住している増兵集団)、さらには四国の長宗我部水軍が大坂の岸和田城へ攻めてきました(岸和田城の戦い)。
黒田長政はこれらを撃退し、後に羽柴秀吉から2千石の加増(領地や給与の増加)されました。
黒田長政の代表的な戦い3.九州征伐
この戦いは天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州平定のため主に島津家と戦った戦いです。
黒田長政は日向国(宮崎県)の高鍋城攻めで活躍し豊前国中津に領地をもらいます。
しかし、豊前国の国人を支配するのに苦労し、とくに城井鎮房は豊臣秀吉の出陣命令を無視するなどの無礼な行為をします。
そこで黒田長政は秀吉の命により城井鎮房を暗殺することを決め、酒宴と偽り城井鎮房を呼んで暗殺します。
また、城井鎮房の家族や侍女、城井家臣も皆殺しにしました。
【逸話】黒田長政の勝ち戦と負け戦は?
黒田長政の勝ち戦:関ヶ原の戦い
この戦いは豊臣秀吉亡き後、慶長5年(1600年)に徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍(総大将は毛利輝元ですが参戦せず)との間で起こった戦いです。
両軍の兵力は
- 東軍が約7万から10万
- 西軍が約8万
黒田長政は5千人を率いて東軍として参戦します。
関ヶ原の戦いが始まる以前は西軍の方が配置的に有利な状況にありました。
※西軍は鶴翼の陣、鶴が翼を広げているように敵を囲んでいて、さらに山の上に陣をとっている
『日本戦史関ヶ原役』に拠る関ヶ原布陣図(慶長5年9月15日午前8時前)
※青→東軍 赤→西軍 橙→西軍から東軍に寝返る
戦いは9月15日の午前8時頃に、東軍の井伊直政・松平忠吉勢の抜け駆け(先陣ではない者や部隊が先に攻撃を仕掛ける。軍法違反にあたる)による発砲から始まります。
この抜け駆けに先陣であった福島正則は怒りながら猛攻撃を仕掛けます。
黒田長政もこれに続き石田勢に攻撃します。
西軍先陣の島左近(布陣図上は島勝猛)の前に苦戦するも黒田長政は迂回し側面から鉄砲で攻撃します。
一方の西軍は石田三成が狼煙を上げ松尾山の小早川勢と南宮山の毛利勢に攻撃するように伝えますがどちらの軍勢も動かず、小早川勢は東軍に寝返り、西軍敗色濃厚となると毛利勢は戦線を離脱します。
西軍が崩壊していく中、黒田長政は島左近を討ち取り東軍の勝利に貢献し、戦後には関ヶ原の戦いの1番の功労者として筑後国名島52万3千石を与えられました。
しかし、黒田長政の本当の功績は関ヶ原の戦い当日ではなく、戦いが始まるまでの中にありました
それが、毛利勢と小早川勢に対しての東軍への寝返り交渉でした。
中でも、東軍本陣の背後(南宮山)にいた毛利勢を動かさなかったのは東軍勝利の大きな要因となります。
関ヶ原の戦い当時、毛利勢を率いていたのは毛利家当主・毛利輝元ではなく、毛利輝元の養子・毛利秀元(毛利元就4男・穂井田元清の次男)でした。
黒田長政は毛利家臣・吉川広家(毛利元就次男・吉川元春の3男)に調略を仕掛けました。
吉川広家とは豊臣秀吉の家臣の時から親しい間柄で、秀吉亡き後、毛利家内では徳川派の吉川広家と石田派の毛利秀元・安国寺恵瓊の間で対立していました。
そん中、吉川広家と徳川家康の仲介を黒田長政が務め、東軍に味方すれば毛利の本領安堵を約束しました(この約束は主君・毛利輝元にも秘密にしていました)。
戦いが始まると西軍として南宮山に布陣しますが、毛利秀元の前に陣取り毛利勢の進軍を妨害します。
結果は東軍の勝利となり、毛利勢は撤退を余儀なくされました。
関ヶ原の戦いは小早川秀秋の裏切りで東軍が勝利したと言われていますが、徳川本陣の背後にいた毛利勢が動けば(実際には毛利秀元も安国寺恵瓊も攻撃するつもりでいた)西軍が勝っていた可能性は高くなっていたでしょう。
また、関ヶ原の戦いの本当の裏切り者は吉川広家ともいえるでしょう。
関ヶ原の戦いのキーマンとも言える吉川広家を調略し東軍に味方させた黒田長政は当然1番の功労者と言えるのではないでしょうか?
黒田長政の負け戦:朝鮮征伐 慶長の役
天下統一した豊臣秀吉は今度は中国・明を征服するため朝鮮国に出兵します。
朝鮮征伐は文禄の役と慶長の役の2回行われ今回は慶長の役での黒田長政を紹介します。
文禄の役で日本軍は漢城(現在のソウル)の攻略するなど朝鮮軍を圧倒していきますが、明軍が朝鮮国の援軍として来ると、日本軍は漢城を放棄し朝鮮半島南部を完全に治めるべく、明国との和平交渉を進めると同時に城を築きました。
和平交渉が決裂すると、日本軍は慶長2年(1597年)に再び朝鮮へ出兵します(慶長の役)。
両軍の兵力は
- 日本軍が約14万人
- 連合軍が約9万人
で黒田長政は3番隊の主将として約1万人を率いて釜山へ上陸します。
上陸してからは加藤清正らと右軍を結成し同年8月には黄石山城(こうせきさんじょう)を落とし、全州(チョンジュ、全羅北道中部の都市)で左軍と合流します。
合流した際に行われた全州会議でこれからの作戦が話し合われると、忠清道(ちゅうせいどう)の天安(チョナン)へ進軍します。
道中に明軍と遭遇しますが撃退し(稷山の戦い、しょくさんのたたかい)、稷山に数日間いました。
その後は、慶尚道へ進軍し梁山で梁山倭城(ヤンサンわじょう)を築城しました。
同年12月には明軍が蔚山倭城へ進軍してきますが黒田長政は援軍を派遣し明軍を撃破します。
しかし、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると日本軍は撤退を開始します。
黒田長政は多くの活躍しますが、豊臣秀吉の目標であった明国征服を果せず日本軍は撤退することになります。
また、石田三成らと対立するようになり、後に豊臣家を二分し関ヶ原の戦いが起こってしまいます。
【最強伝説】黒田長政の強さはどれくらい?
黒田長政の強さ1.羽柴秀吉の元で育つ
黒田長政は9歳の時に黒田家が織田家への忠誠として人質として送られます。
黒田長政は織田家臣・羽柴秀吉のもとで人質生活を送ります。
しかし、人質生活といっても秀吉の正室・おね夫人からは実の子のように育てられます。
この時、羽柴家には年上の加藤清正や福島正則がいました。
黒田長政は5歳以上離れている清正や正則に負けないように毎日過ごします。
この人質生活での経験は後の黒田長政に大きな影響を与えることになりました。
黒田長政の強さ2.武勇に優れていただけでなく知略もかけていた
黒田長政は軍略や知略にかけていた父・黒田官兵衛とは違い、戦場での活躍が目立ちますが、知略にもすぐれていました。
それが先程も書いたように関ヶ原の戦いでの小早川や毛利への寝返り工作です。
黒田長政の寝返り工作によって小早川勢は東軍へ寝返り、毛利勢は動かずと黒田長政の工作は東軍の勝利へと繋がりました。
黒田長政の強さ3.虎退治
虎退治の逸話と言えば加藤清正の虎退治です。
内容は、朝鮮征伐の際に加藤清正の陣の近くで人食い虎が現れ兵士や馬が殺されてしまう事件が相次ぎます。
加藤清正はこの虎を退治するために山狩りを行い虎を槍で倒したという話です。
しかし、この元となったのは黒田長政の虎退治です。
江戸時代以降に加藤清正の逸話として紹介されます。
また、黒田長政の功績は他の武将のものとして後世に語り継がれているため、現在では黒田長政について史料などの再研究が進められています。
まとめ 黒田長政のおすすめ作品や本。大河ドラマ
ここまで黒田長政について紹介してきましたがいかがでしたか。
まとめてみると
- 黒田長政は初陣で名のある武将を討ち取った
- 黒田長政は豊臣秀吉の天下統一への夢を助けた
- 黒田長政は豊臣秀吉の亡き後は徳川家康に仕えた
- 黒田長政は関ヶ原の戦いで1番の功労者となった
大河ドラマでは
- 俳優の松坂桃李さんが演じた『軍師官兵衛』
- 俳優の大神拓哉さんが演じた『真田丸』
がおすすめです。
本では
- 近衛龍春さんの『黒田長政ー関ヶ原で家康に勝利をもたらした勇将』
- 徳永真一郎さんの『黒田長政』
がおすすめです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上「黒田長政の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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