大谷吉継ってどんな人?病気に侵されていたって本当なの?
大谷吉継の名前は知っているといった方は多いのではないでしょうか。
若い方だと、戦国時代を舞台にしたゲームなど大谷吉継を知った方も多いかと思います。
2017年に公開された映画「関ヶ原」や大河ドラマ「真田丸」にも大谷吉継は登場し、戦国時代を語るうえでは欠かせない存在となっています。
しかし、
- 肖像画に描かれる吉継はなぜ頭巾姿なのか、
- またどんな人物であったか
知る人は少ないのではないでしょうか。
そこで、大谷吉継の生涯や性格について調べてみると、大谷吉継は病気を患いながらも、戦友、石田三成に恩義を尽くした人物であることがわかりました。
そんな大谷吉継についてご説明いたします。
大谷吉継の生い立ちと経歴は?
大谷吉継は1559年又は1565年に現在の滋賀県で生まれたとされています。
大谷吉房と豊臣秀吉の正室、ねねの侍女であった東殿との間に生まれた子供とされています
が、大谷吉継はのちに大出世をしていることから豊臣秀吉の隠し子であったのでは?とも推測されました。
天正始め頃になると豊臣秀吉の小姓になったとされていますが、どのような経緯で小姓になったのかは判明されていません。
小姓となった吉継は秀吉御馬廻り衆の1人として播磨国攻略や三木攻め、備中高松城を攻めに参加してた記録が残されています。
1581年に吉継の嫡男、大谷吉勝が誕生したと記録に残されていますが、吉継の正室が誰であったのか記録は残されていないため不明となっています。
本能寺の変のあと豊臣秀吉が政権を握る時代に突入すると豊臣秀吉は柴田勝家と対立するようになります。
美濃国侵攻にも秀吉御馬廻り衆の1人として参加し、数年後の1583年に起きた賤ケ岳の戦いでは石田三成らと共に柴田軍を攻め、三振の太刀と賞賛されるほどの手柄をあげました。
またこの頃から吉継はキリスト教に改宗したと記録に残されます。
仏教が主流であった戦国時代ですが、全国にはキリシタン大名が多く存在していました。
有名な戦国時代のキリシタン大名には黒田官兵衛や高山右近、大友宗麟などがあげられます。
その後は従一位・関白に叙任し有馬温泉湯治の石田三成らと参加、1586年におきた九州征伐では石田三成のもとで功績をたてました。
この頃から吉継はハンセン病を患っていたようです。
1586年に大阪で辻斬り騒動が起きると、ハンセン病の治癒のために吉継が血を求め千人斬りをしているのではないか。というあられもない噂が立ちます。
しかし、このような噂が大阪で広まっていても豊臣秀吉の吉継に対する信頼が変わることはありませんでした。
1590年には小田原征伐、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも参加します。
1594年に湯治のため草津温泉に行ったことが残されており、直江兼続に宛てた書状には目を患っているため本来用いられる花押ではなく印判を使用したことを詫びている内容が記述されました。このころ、吉継の病状は悪化し目が見えなくなっていたようです。
1600年におきた関ヶ原の戦いでは、西軍に味方し、ハンセン病によって病症の重い顔を隠すため綿帽子を頭か被り顔を隠しながら輿に乗り、戦場で指揮をとっていました。
このような見た目から吉継は頭巾姿で肖像画に描かれているようになったのですね。
東軍の藤堂高虎と京極高知と奮戦するも寝返った小早川秀秋によって追い込まれたため大谷軍は総崩れとなり、吉継は自害したとされています。享年36歳もしくは42歳でした。
自害した吉継の墓はこの戦で奮闘した東軍の藤堂高虎によって建てられたとされています。
敵であった藤堂高虎が吉継の墓を建てるといった行為は異例ですが、それだけ吉継に人望があり他の武将から尊敬される存在であったからなのではないでしょうか。
大谷吉継の性格はどんな人?
大谷吉継は一体どのような性格の持ち主であったのでしょうか?
大谷吉継は関ヶ原の戦いの際、石田三成率いる西軍につきます。
この関ヶ原の戦いにおいて東軍は約10万近くの兵力を持っていました。
一方、西軍は東軍よりも少ない約8万人の兵力であったようで、開戦前から西軍の敗北が決まっているも同然でし
た。
しかし、吉継は石田三成のために西軍につきます。
関ケ原の戦い以前に、豊臣秀吉が石田三成らを集め茶会を開いた際、ハンセン病を患っていた吉継の茶碗に口つけることを感染を恐れ誰もが嫌がったそうです。
しかし、石田三成は普段通りに茶を飲み干し、おかわりまで頼んだという逸話が残されております。
この茶会の出来事から石田三成との固い友情が芽生えたとされ、関ヶ原の戦いの際、吉継は石田三成率いる西軍に属したとされます。
きっとこの茶会の際、吉継は感染を恐れ避けられていることに対し悔しく、惨めな思いを抱いたはずです。
そんな吉継の気持ちを思って石田三成は行動したわけですから、戦下手とされている石田三成についていく気持ちは分かります。
このことから、吉継は恩義を忘れず義理堅い性格の持ち主であったのではないかと感じます。
大谷吉継の本名や素顔はわかる?
大谷吉継は本名です。
吉継は、度々「吉隆」ともされていますが、現存する書物の中には「吉隆」と記載されているものは確認されていません。
刑部少輔とういう官途も与えられているので、大谷刑部との通称もあります。
10代後半から20代前半でハンセン病を患っていた吉継は崩れた顔を隠すため白い布で顔を隠していました。
関ヶ原の戦いの際も頭巾姿で参加し、常に布で顔を隠していたということから、顔の病状がひどかったことが分かります。
調べてみると肖像画などにはきれいな顔の吉継が多く描かれていましたが、吉継の素顔は謎のままでした。
最近のゲームやアニメでは吉継はとっても美少年に描かれていることが多いようですが実際はどうだったのでしょうか…気になりますね。
まとめ 大谷吉継の性格と経歴がスゴすぎ?素顔や本名はわかる?
以上、大谷吉継についてご紹介いたしました。
まとめると大谷吉継は
- 豊臣秀吉に仕え秀吉御馬廻り衆の1人として数々の戦に参加し功績を残した。
- 石田三成との友情を大切にし、義理堅い性格の持ち主であった。
- ハンセン病で崩れた顔を布で隠しながらも関ヶ原の戦いに挑んだ。
調べてみると大谷吉継は病気に侵されながらも多くの戦に参加した人物です。
義理堅い性格の持ち主であった大谷吉継と石田三成の友情関係も気になりますね。
大谷吉継を取り上げられた作品を鑑賞されてみてはいかがでしょうか。
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