あなたは戦国武将の1人である福島正則をご存知でしょうか?
福島正則は豊臣秀吉に仕えた武将の1人で、かの有名な関ヶ原の戦いの際は、加藤清正とともに石田三成に対抗しました。
そんな福島正則は一体どのような人物だったのでしょうか?
そこで今回は福島正則の
- 生い立ち
- 経歴や有名な伝説
- 人柄や性格
この3つをご紹介いたします。
これを読めば福島正則の生い立ちや生涯、経歴や性格について知ることができますよ。
福島正則の生い立ちは?
福島正則は永禄4年、福島正信の長男として誕生しました。
- 福島正則が誕生したのは、尾張国海東郡とされ、現在の愛知県あま市に位置します。
- 福島正則の母は豊臣秀吉の叔母であったため、幼少期から豊臣秀吉の小姓として仕えることとなりました。
- この頃に秀吉に仕えた者としてのちに盟友となる加藤清正がいます。
福島正則の経歴と有名な伝説は?
天正6年、正則が17歳の時、播磨三木城の攻撃によって初陣を飾ります。
天正10年の山崎の戦いでは加藤清正と共に、秀吉本隊として勝龍寺城を攻撃しました。
その後も
- 天正11年 賤ヶ岳の戦い
- 天正12年 小牧・長久手の戦い
- 天正13年 四国討伐
- 天正15年 九州平定
に参加し、この九州平定の後、正則は秀吉から伊予国今治11万3千余石を与えられ領主となります。
文禄元年の大明帝国の征服を目指した文禄の役では、主将として長宗我部元親、戸田勝隆などを率い現在の朝鮮半島中西部にあたる京畿道の攻略に向かいました。
その後、1度日本に帰国したとされていますが、再び朝鮮に向かい文禄3年10月に起きた場門浦海戦には、正則自ら船に乗って指揮をとり、李舜臣の率いる朝鮮水軍を焼き討ちにし勝利を収めます。
日本に戻った正則は慶長3年に秀吉から羽柴名字、豊臣姓が与えられました。
文禄の役に続く慶長2年の慶長の役では正則は参加しませんでしたが、秀吉は慶長4年に朝鮮半島に大軍を派遣する計画を立てており、その軍の中には石田三成とともに選抜されていました。
しかし、その計画は実行されることはなく慶長3年に秀吉が亡くなると、秀吉亡き後の権力を巡って五奉行の石田三成と五大老の徳川家康が対立を起こします。
- これまで、秀吉の下で五大老を務めていた徳川家康は秀吉亡き後、好き勝手に政治を動かし始めました。
- 秀吉の後継者であった秀頼はまだ幼かったため、好き勝手に政治を行う家康に対して何も言えず、よって五奉行である石田三成が秀頼に代わって徳川家康を強く糾弾し始めます。
- 好き勝手に政治を行っていた徳川家康に注意する石田三成でしたが、その性格から多くの大名から嫌われていました。
正則は、そんな石田三成と朝鮮出兵頃から対立関係にありました。
慶長4年には盟友である加藤清正とともに石田三成の屋敷を襲うなどの事件も起こされています。
このように石田三成と対立関係であった正則であったので、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に味方することとなりました。
関ヶ原の戦い
慶長5年、かの有名な関ヶ原の戦いが幕をあげました。
- この戦いで、兵力は石田三成率いる西軍の方が多かったとされていますが、互角の兵力だったという説もあります。
- 東軍に味方した正則は宇喜多秀家率いる1万7000の兵力と戦闘を行いました。
- 宇喜多秀家の前衛部隊であった明石全登に一時退去を余儀なくされるも、結果、宇喜多秀家の勢力を破ることができました。
その後、西軍であった小早川秀秋が東軍に寝返ったため、西軍の勢力は総崩れとなり、東軍の勝利となります。
この小早川秀秋の裏切りがなければ、西軍が勝利をおさめていたのかもしれません。
この戦の功績として、正則は安芸広島と備後鞆49万8,000石を与えられます。
慶長6年に安芸に正則は入ると、そこでは石高の再算出や領内の寺の保護などに努め
- 慶長7年に厳島神社の平家納経の補修
- 慶長8年に亀居城の築城
- 慶長9年に江戸幕府による諸城修築に参加
などを行いました。
また慶長13年に豊臣秀頼が病に倒れるとすぐさま秀頼のもとに駆け付け、
慶長16年に徳川家康によって秀頼の上洛が要請された際は、秀頼の上洛に反対する淀殿や加藤清正を説得し、秀頼の上洛を実現させました。
晩年
徳川家康亡き後、正則は元和5年に台風によって破損したた広島城の本丸、二の丸、三の丸と石垣の補修作業を始めました。
しかし、この補修作業は幕府に許可なく行ったとされ、武家諸法度に違反したとして処罰の対象となってしまいます。
このことに対して、正則は2カ月前から届け出を出していたと主張するも幕府は認めることはありませんでした。
そんな正則に対し幕府は
- 参勤交代中に謝罪すること
- 正則が修復した本丸以外の修復分を破却
この2点の条件を正則に提示しました。
しかし正則はなぜか指定されていない本丸の修復分だけを破却したため、幕府に「破却が不十分」と咎められます。
また参勤交代の人質として江戸に送るはずであった嫡男・忠勝の江戸への出発が遅かったことも咎められ、怒った徳川家によって
- 領地である安芸、備後50万石を没収
- 高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石に対し減転封の命令
がなされました。
また嫡男の忠勝が早くに亡くなったため幕府に2万5000石を返すこととなりました。
その後、寛永元年、正則は現在の長野県である高井野で64歳で生涯を終えることとなります。
正則は後に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる秀吉方で活躍した7人のうちの1人に指定されます。
この賤ヶ岳の七本槍は正則の他に
- 脇坂安治
- 片桐且元
- 平野長泰
- 加藤清正
- 糟屋武則
- 加藤嘉明
が指定されました。
【エピソード】福島正則の人柄と性格はどんな人?
正則は乱暴者の武将としてイメージされることが多いです。
正則の乱暴者を表す逸話として、
- 正則が幼き頃に大人と喧嘩して彫刻するときに用いる鑿で大人を殺害した。
- 正則が安芸へと船で向い入国の際、地嵐と呼ばれる強い風が吹いていたため、なんの罪のない船の船員に、「国入りの初めに地が荒れてよきものか」として殺害した。
このような逸話が残され、正則が乱暴者であったことは間違いないです。
また酒癖も悪く、酔った際に家臣に切腹を命じた記録も残されています。
この家臣は、正則に命じられたため切腹をし命を落としたのですが、正則は命じたことを全く覚えていなかったとされています。
そんな正則ですが、豊臣家をとても気にかけた人物でした。
関ヶ原の戦いでは東軍につき徳川に味方しましたが、関ヶ原の戦いの後、豊臣秀頼が病に倒れると真っ先に駆け付けます。
東軍に属しながらも豊臣家の恩を忘れない正則は義理固い性格の持ち主でした。
まとめ 福島正則の性格と経歴は?生い立ちやエピソードが面白い
福島正則の生涯と性格、おもしろいエピソードをご紹介いたしました。
福島正則について簡単にまとめると
- 幼少期から秀吉の小姓として仕えていた
- 盟友には加藤清正がいた
- 多くの戦に参加し、その功績から後に賤ヶ岳の七本槍のうちの1人として指定される
- 関ヶ原の戦いでは東軍に属す
- 秀吉亡き後も豊臣家を気にかけていた
- 無断で城の修復工事をしたため武家諸法度違反となり、処罰を受ける
- 乱暴者で酒癖が悪かったが、恩を忘れない義理固い性格の持ち主であった
多くの戦に参加し、その功績が後に賤ヶ岳の七本槍として評価された人物でしたが、晩年に無断で城の修復工事を行ったため処罰になるとは、なんとも情けなく感じますね。
そんな福島正則が登場する大河ドラマは
- 「真田丸」
- 「黒田官兵衛」
- 「江 姫たちの戦国」
- 「天地人」
などがあげられます。
戦国時代を語る上で、正則は欠かせない存在なので、多くの作品に登場していますね。
盟友である加藤清正との関係性に注目しながら観るのもおもしろいかもしれません。
これを機に、福島正則に興味を持ったという方は、見返してみてはいかがでしょうか。
以上、「福島正則の性格と経歴は?生い立ちとエピソードがすごい」でした。
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