徳川家最後の将軍となった人物として徳川慶喜の名前はよく知られていますね。
2018年の大河ドラマ、西郷どんでは、一橋慶喜公は、大活躍しています。
大政奉還や江戸城無血開城と将軍家として最後の役目を果たしています。
そんな
- 徳川慶喜の生い立ちとは
- 徳川慶喜の性格は?
- 徳川慶喜のエピソードは?
これらについてお話ししましょう。
これを読めば徳川慶喜の生い立ちや、人柄や性格までよくわかります。
大河ドラマの西郷どんがより面白くなりますよ。
徳川慶喜(一橋慶喜)の生い立ちと経歴は?
徳川慶喜は1837年9月29日に、江戸の小石川にあった水戸藩邸で生まれました。
父は、徳川斉昭、母親は正室の吉子女王でした。慶喜は斉昭の七男です。
幼名を松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまる)。
生後7ヶ月で江戸から水戸へ移され、江戸に戻るよう命じられるまでの9年間を水戸で過ごしました。
七郎麻呂君はとてもできる子で、藩校の弘道館で学問や武術の面で目立つ存在でした。
1847年慶喜を将軍候補にしたいと、第12代将軍徳川家慶の考えで、一橋家を相続することになりました。
この時徳川慶喜と初めて名乗りました。
1853年黒船がやってきた混亂の最中、将軍家慶が亡くなり、跡を継いだのは病弱な家定でした。
家定に子供を設けることは困難だと知っている者たちは、慶喜を将軍に押す 一橋派と、紀伊藩主徳川慶福を押す大奥の南紀派が対立することとなります。
一橋派には、
- 徳川斉昭
- 阿部正弘
- 薩摩の島津斉彬
- 西郷隆盛
- 月照
などがおり、特に島津斉彬は自分の養女篤姫を家定に嫁がせ大奥内部から力を加えようとしましたが、志半ばで急死してしまいました。
南紀派には
- 井伊直弼
- 本寿院(家定の生母)
がいました。
その後大老となった井伊直弼が将軍の後継を慶福に決めてしまいます
井伊直弼は天皇の許可を取らずに勝手に日米修好通商条約に調印し、このことを慶喜や斉昭らに詰問されると逆に慶喜らを謹慎処分にするのでした。
この頃から井伊直弼の粛清が横行し、世に言う「安政の大獄」が始まるのでした。
「安政の大獄」ではたくさんの人が捕縛されたり死罪になったりしていますね。
例えば
- 徳川慶喜を押した西郷隆盛や橋本左内、月照
- 吉田松陰
ところが1860年井伊直弼が暗殺されました。
皆さんご存知の「桜田門外の変」です。
これを受け慶喜は謹慎を解かれました。
慶喜は将軍の後見役になり勢いを取り戻しつつありました。
1863年には孝明天皇にも会っています。
1864年「禁門の変」に際しては御所を守るため長州藩と戦っています。
1866年第14代将軍家茂が亡くなり、ついに慶喜が将軍となります。
第15代将軍徳川慶喜の誕生です。
しかし将軍となってからは大変でした。
第二次長州征伐は薩摩藩が「薩長同盟」を結び、長州攻めに加わらなかったことで中止となります、
幕府の権威がなくなってしまいました。
その上外国嫌いの孝明天皇が崩御し、新しく明治天皇が即位しました。
- 幕府の面子も落ちている時に、朝廷側では若き新天皇が即位したのです。
- そこで慶喜は1867年、京都の二条城で大政奉還を行いました。
- ここで260年近く続いた江戸時代が終わりを告げたのでした。
しかし大政奉還したものの慶喜はまだ征夷大将軍のままでした。
- 慶喜は260年もの間政治の表舞台にいなかった朝廷に政治ができるとは思っていなかったのです。
- 表向き朝廷に主役は譲っても、実権は自分が持つつもりでした。
- 慶喜は天皇の下に武家中心の議会を作り政治を行おうと思っていました。
しかし岩倉具視や薩摩藩、長州藩は、慶喜を追い出さなければ本当の朝廷の世は来ないと察していました。
そこで王政復古の大号令を出し、徳川の世は終わったのだとアピールしました。
その上薩摩藩が旧幕府軍に武力衝突を持ちかけます。
このとき
- 薩摩・長州を官軍
- 旧幕府軍を朝敵
という構図となりました。
慶喜はこの時朝敵とされては敵わないと、兵をおいて船で江戸へと逃げてしまいました。
これはいけません。慶喜の株はどーんと下がってしまいました。
旧幕府軍には愛想をつかれ、朝廷へのとりなしも断られる始末。
篤姫は徳川宗家を継いだ亀之助に慶喜とその子孫とは付き合ってはならないとまで言わせています。
ここまでくると慶喜が哀れですね。
その後朝敵として、慶喜討伐の命が下りましたが、当の慶喜は徳川家当主を下り隠居しました。
- その後は写真や狩猟の趣味を楽しんでいます。
- 1897年には東京に戻り、その5年後には貴族院の議員として再び政治の世界にいました。
- 8年間ほど勤め、その後再び隠居し1913年肺炎のためこの世を去りました。
享年77歳でした。徳川歴代将軍としては最長命でした。
徳川慶喜(一橋慶喜)の性格は?
- 我が強かった
- 味方の兵を残して、逃げちゃった
- 大の女好きだった
政治に関しては積極的な人でした。
しかし我が強く、家臣たちには嫌われていました
鳥羽伏見の戦いの中で敵前逃亡してしまったことで敵からも味方からも呆れられました。
この時臆病者とか卑怯者だと言われました。
本当のところはどうだったのでしょう。
国内で戦いが起こると、アメリカをはじめ他の国からの干渉が一番怖いと判断したからだという説があります。
確かにその通りですね。
だとすればこの逃亡には大きな意味があったことになります。
ですが兵を残して行っちゃったのは彼が臆病者と言われても仕方ない行いです。
徳川慶喜の父 斉昭は正室の他に沢山の側室がおり、子供も22男15女と大勢いました。
その血を受け継いでいるからか慶喜も多くの側室を持ちまた子供も多くいました。
親子ともに大の女好きだったようですね。
徳川慶喜(一橋慶喜)のすごいエピソードとは?
将軍としての徳川慶喜は大変有能な人材でまるで徳川家康の再来であるかのように言われました。
- 特に長州藩の桂小五郎からは「慶喜の胆略はあなどれない」と言われていました。
- 幼い頃から学問に秀でていた慶喜でしたが、彼は武術でも優れており特に手裏剣の達人でした。
- 成長して大政奉還の後でも手裏剣の鍛錬に励んでいました。手裏剣術の達人たちの中でも最も有名な人とされています。
徳川慶喜は町火消しの親分だった新門辰五郎ととても仲が良く、辰五郎の娘は慶喜の側室の1人でした。
慶喜が上洛するときは辰五郎一家を伴っていたようです。
江戸の火消しの辰五郎といえばまるで暴れん坊将軍の吉宗みたいじゃないですか。
事実は吉宗ではなく、慶喜が暴れん坊将軍だったんです。
まとめ 徳川慶喜(一橋慶喜)はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
徳川慶喜の生い立ちや経歴についてエピソードを加えてお伝えしました。
幼い頃からその才能を見出され、江戸幕府最後の将軍となった徳川慶喜は、隠居するまでとても大変な人生を送ってきました。
大政奉還、王政復古の大変な仕事をやってのけた慶喜はやはり名君だったと言えるでしょう。
ドラマ
- 大河ドラマ「西郷どん」 松田翔太
- 大河ドラマ「八重の桜」 小泉孝太郎
- 大河ドラマ「徳川慶喜」 本木雅弘
小説
- 「最後の将軍ー徳川慶喜ー」 司馬遼太郎
才知に富んだ徳川慶喜を、感情的に不可解な人物として描いています。
以上、徳川慶喜(一橋慶喜)の性格や生い立ちは?すごいエピソードについて紹介しました。
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