上杉景勝の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは上杉景勝という人物をご存知ですか?

上杉景勝はあの上杉謙信の後継者で、豊臣秀吉・徳川家康といった天下人を相手に上杉家を守っていき、江戸幕府政権下では米沢藩を治めます。

また、上杉景勝は上杉謙信の本当の子ではありませんでした。

では、なぜ上杉家の後継者となったのか?また、上杉家を継いではどうだったのか?

今回は上杉景勝について

  • 上杉景勝の生い立ちとは?
  • 上杉景勝の経歴や最後は?
  • 【エピソード】上杉景勝の人柄や性格が分かる逸話

を紹介します。

こちらを読めば上杉景勝の経歴や性格がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

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上杉景勝の生い立ちとは?

上杉景勝は弘治元年(1556年)11月27日、越後国魚沼郡上田庄(現在の新潟県南魚沼市)で上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれます。

幼名は卯松で、通称は喜平次です。

上田長尾家は越後国南部の上田庄を拠点にしたことから上田長尾家と呼ばれ、上杉謙信(元々の名は長尾景虎)が生まれた越後長尾家の分家にあたります。

永禄7年(1564年)、上杉景勝が8歳の時に父の長尾政景が急死(溺死)してしまいます。

この時、上杉景勝は母が上杉謙信の姉・仙桃院であったことから上杉謙信の養子となります。

初陣は永禄9年(1566年)の上杉謙信による関東出兵の時で、以降は上杉家内での中心的な役割を担っていくことになります。

天正3年(1575年)には名を長尾顕景(あきかげ)から上杉景勝に改名します。

上杉景勝の経歴や最後は?

天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が急死します。

上杉謙信には子がいなかったために存命中に後継者を選んでおく必要がありましたが、後継者を決めずに亡くなったため、後継者争いが起きてしまいます。

その後継者争いというのが御館の乱(おたてのらん)です。

後継者候補に上がったのが上杉景勝と上杉景虎です。

上杉景虎とは、上杉謙信が相模の北条氏と同盟(越相同盟)を結んだ際に、北条氏康の七男・北条氏秀を人質としてもらい、その後、上杉謙信が自らの名前であった「景虎」を与え養子にした人物です。

この戦いはただの後継者争いではなく上杉家内や長尾家内の問題や他国との関係など、様々な事情が絡んだものでした。

結果は上杉景勝が勝利し上杉家第17代当主となります。

上杉家の当主となった上杉景勝ですが、上杉謙信の実子ではなかったことや御館の乱の影響もあり、かならずしも安定していたとは言えませんでした。

まず行ったのが戦後処理です。

  • 戦の恩賞は自身の出身であった上田長尾家の家臣に多くわたす
  • 上杉謙信時代からの国人を景虎派だけでなく自分を支持した者まで粛清する

これらは上杉景勝が上田長尾家で周りを固めて、上杉家を支配していくことを表しています。

しかし、この戦後処理し対して北越後の新発田氏(しばたし)が反乱を起こします。

また、御館の乱の混乱を狙っていた織田信長が越中(富山県)へ進軍してきます。

さらに、御館の乱の最中に上杉謙信の代から争いを続けてきた武田家(この時の当主は武田勝頼)と同盟を結んでいましたが、武田家も織田信長に滅ぼされ、上杉家は窮地に立たされます。

天正10年(1582年)3月になると織田軍の攻撃よって越中の魚沼城が落城しますが、同年6月に本能寺の変が起こると織田軍が撤退したため上杉家は助かりました。

本能寺の変以後、上杉景勝は旧武田領(甲斐・信濃・上野)をめぐり徳川氏と北条氏と争います(天正壬午の乱)。

特に信濃をめぐって北条氏と争いますが、上杉家は北越後で反乱を起こした新発田氏への対処、北条氏は上杉氏と徳川氏の両方を相手にすることへの危機感から、互いに妥協し上杉家は北信濃の4郡(それ以外の信濃は北条氏またはその他の勢力)を手に入れ、川中島から南には侵攻しないことを約束します。

天正壬午の乱が終わると織田政権で台頭してきた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に近づきます。

  • 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは柴田方の越中国を攻める
  • 天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは佐々方の宮崎城攻撃し奪還する
  • 天正13年(1585年)の富山の役では佐々軍を牽制する

そして、天正14年(1586年)6月には豊臣秀吉に会うため上洛し正式に臣従します。

豊臣秀吉の下では

  • 天正15年(1587年)に北越後の新発田氏を滅ぼし越後国を統一する
  • 天正16年(1588年)には出羽国(山形県)に出陣し最上領の庄内3郡を手に入れる
  • 天正17年(1589年)には佐渡国(現在の佐渡島)を平定する
  • 天正18年(1590年)の小田原征伐では上野・武蔵の北条方の城を落とす
  • 文禄元年(1592年)の朝鮮征伐にも従軍し熊川倭城を築城する

これらの活躍により文禄4年(1595年)には豊臣政権で中心的な役割を担う五大老(他に徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元)に任ぜられます。

また、慶長3年(1598年)には豊臣秀吉の命令で越後から会津(福島県西部)に移封(国替え)します。

これは、東日本の反豊臣(徳川氏や伊達氏など)の大名を監視するという意味もありました。

慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が亡くなると、同じく五大老であった徳川家康が実権を握り上洛するように全国に命令を出します。

上杉景勝は徳川家康の命令を受け入れず、家臣の直江兼続が直江状という書状を徳川家康に送りつけます。

この書状には徳川家康を挑発するような内容が書かれていました。

上杉氏の態度に怒りを露わにした徳川家康は慶長5年(1600年)に上杉討伐のために出陣します(会津征伐)。

しかし、徳川家康の出陣から数週間後に石田三成が決起したことで、会津征伐は中止され同年9月に関ヶ原の戦いが起こります。

徳川家康の危機がなくなった上杉景勝ですが、親徳川であった伊達政宗・最上義光と戦うことになります(慶長出羽合戦)。

最上領を攻めていた上杉軍は兵力の差から序盤は優勢でしたが、伊達援軍が最上軍に加勢すると次第に劣勢になっていき、関ヶ原の戦いで西軍が敗れると上杉軍は撤退します。

上杉景勝は関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)2月に上洛し徳川家康に陳謝し、命は奪われませんでしたが、会津から米沢に移封させられました。

江戸幕府下では

  • 米沢藩主として米沢藩を治める
  • 慶長10年(1605年)4月には徳川秀忠の第2代将軍宣下(せんげ、天皇が征夷大将軍に任命する儀式のこと)に参列する
  • 大坂の陣(冬・夏)では幕府方として豊臣家と戦い勝利に貢献する
  • 元和5年(1619年)4月には徳川秀忠の上洛のともをする

また、重臣の直江兼続が亡くなる

  • 元和8年(1622年)に山形藩主・最上氏が改易されると、山形城の受け取りをする

そして元和9年(1623年)3月に69歳で亡くなります。

【エピソード】上杉景勝の人柄や性格が分かる逸話

上杉景勝のエピソード1.無口で人前で笑わない

上杉景勝は無口で人前では笑わなかったと言われています。

とくに家臣の中では上杉景勝の笑った顔を見た人はいなかったと言われており、上杉景勝が近くに来ると緊張感が漂ったと言われています。

また、豊臣秀吉が伏見城に各大名を招き宴会を開いた際に、家臣で傾奇者(かぶきもの)でも知られる前田慶次が猿真似を披露しましたが、前田慶次が参加していた大名の膝に乗るなどの無礼を働きましたが、上杉景勝の前に来るとさすがに止めたそうです。

こんな上杉景勝ですが1度だけ笑ったことがありました。

その瞬間というのが、飼っていた猿が膝の上で、上杉景勝が命令する姿を真似した時だそうです。

上杉景勝のエピソード2.キリスト教徒を守る

日本にキリスト教が伝来したのは天文18年(1549年)のことで、宣教師フランシスコ・ザビエルが西日本を中心に広めていきました。

とくに西日本の大名(大友氏など)がキリスト教を保護しました。

洗礼を受けた大名をキリシタン大名といいます。

キリスト教はあの織田信長も保護し全国に広めていきます。

しかし、キリスト教の勢力拡大を危惧した豊臣秀吉や徳川家康は禁教令を出し、日本全国のキリスト教を弾圧していきました。

もちろん上杉景勝が治めていた米沢藩にも禁教令が出されましたが、上杉景勝は「領国内には一人のキリシタンもいません」と報告します。

これは上杉景勝がキリスト教を信仰していた訳ではなく、家臣や領民を失いたくないという思いがあったからではないかと言われています。

まとめ 上杉景勝はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで上杉景勝について紹介してきましたがいかがでしたか?

まとめてみると

  • 上杉景勝は元々は長尾家の出身だった
  • 上杉景勝は上杉謙信の実子ではなく養子だった
  • 上杉景勝は後継者争いに勝って上杉家を継いだ
  • 上杉景勝は豊臣秀吉政権で五大老となった
  • 上杉景勝は生涯で越後・会津・米沢の3国を治めた
  • 上杉景勝は無口な性格だった

上杉景勝が登場する作品

大河ドラマでは

  • 『天地人』2009年・・・・俳優の北村一輝さん
  • 『真田丸』2016年・・・・俳優の遠藤憲一さん

があります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「上杉景勝の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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