立花宗茂の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

あなたは立花宗茂という人物をご存知でしょうか?

立花宗茂は多くの人たちから称賛された人物でした。

主君・大友宗麟からは「忠義の者」と称され、豊臣秀吉からは徳川家康の家臣・本多忠勝と並べられて「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評されました。

 

また、立花宗茂は生涯で14回(元服後は12回)も名前を変えた人物でもありました。

(千熊丸、彌七郎、高橋統虎、戸次統虎、立花鎮虎、宗虎、正成、親成、尚成、政高

俊正、経正、信正、宗茂、立斎)

※宗茂と名乗ったのは晩年の時ですが、今回は立花宗茂で紹介します。

今回は立花宗茂について

 

  • 立花宗茂の生い立ちとは?
  • 立花宗茂の経歴や最後は?
  • 【エピソード】立花宗茂の人柄や性格が分かる逸話

 

を紹介します。

 

こちらを読めば立花宗茂の経歴や逸話がわかりますよ。

ぜひ読んで見てください。

 

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立花宗茂の生い立ちとは?

立花宗茂は永禄10年(1567年)8月18日に大友家重臣・吉弘鎮理(よしひろしげまさ)の長男として豊後国国東郡筧(大分県豊後高田市)で生まれます。

幼名は千熊丸です。

 

立花宗茂が生まれた永禄10年(1567年)当時の九州は主に

  • 大友氏:豊後(大分)・豊前(福岡東部)・筑後(福岡南部)・肥後北部(熊本北部)
  • 島津氏:薩摩(鹿児島西部)・大隅(鹿児島東部)・日向南部(宮崎南部)
  • 龍造寺氏:肥前東部(佐賀)・筑前西部(福岡西部)
  • その他:肥前西部(長崎)の有馬氏・肥後南部(熊本南部)の相良氏・日向北部(宮崎北部)の伊東氏

などの戦国大名が九州の覇権を巡って争っていました。

中でも、立花宗茂の父が仕えていた大友氏は九州では一二を争うほどの勢力を持っていました。

 

立花宗茂は2歳の時に名を高橋彌七郎に変えます。

理由は永禄12年(1569年)に父・吉弘鎮理が大友氏家臣であった高橋氏の名跡を継いで、高橋鎮種(たかはししげたね、後に紹運に改名)と名乗ったからでした。

 

元服の際には高橋統虎(たかはしむねとら)と名乗りました。

その後は高橋家で育ちますが、15歳になった天正9年(1581年)の時に同じく大友氏の重臣として仕えていた戸次道雪(べっきあきつら、立花道雪の名で知られていますが本人は立花姓を名乗っていませんでした)から養嗣子(養子が家督を継ぐ)として迎えたいという話がありました。

この話に父・高橋紹運は立花宗茂は高橋家の嫡男であったため断っていましたが、戸次道雪は何度も願ってきたため話を受けました。

 

そして、同年8月18日に立花宗茂は戸次道雪の娘・誾千代(ぎんちよ)の婿養子として戸次家に入り、名を戸次統虎に改名します。

戸次家の養子となった立花宗茂は立花道雪から戸次家の家督を譲られますが、誾千代とはうまくいかず子は生まれず後に別居状態になってしまいます。

同年7月には第二次大宰府石坂の戦いで初陣をします。

立花宗茂の経歴や最後は?

立花宗茂が戸次家の当主となった頃(1581年)の九州は

  • 主家・大友氏が耳川の戦い(対島津、1578年)で敗北し勢力縮小
  • 有馬氏を倒し肥前国を統一した龍造寺氏が大友領へ侵攻
  • 島津氏が伊東氏と相良氏を滅ぼし北上を開始

と大友氏は次第に勢力を縮小していきます。

 

また、大友氏・島津氏・龍造寺氏の三大勢力が覇権を争っている状態を、現在は「九州三国志」と呼んでいます。

天正10年(1582年)4月に起こった岩戸の戦い(対秋月・原田・宗像連合軍)では、立花道雪の本隊1000が敵軍2000に包囲されると、立花宗茂は500の兵を奇襲し養父・立花道雪を救います。

また、同年11月に立花山城で「御旗・御名字」の祝いを行い、戸次から立花へ名字を変え立花統虎に改名します。

天正12年(1584年)8月には実父・高橋紹運と養父・立花道雪が筑後国奪還のため出陣すると立花宗茂は立花山城の留守を任されます。

留守中に秋月氏が攻めてきますが撃退します。

一方、高橋紹運と立花道雪は筑後国のほとんどを奪還しますが、天正13年(1585年)に立花道雪が亡くなると、筑後国の大友軍は一気に士気が落ちてしまいます。

 

立花道雪が亡くなった頃(1585年)の九州は

  • 島津氏が天正12年(1584)に沖田畷の戦いで龍造寺氏に勝利し肥前国を平定、九州の大部分を手に入れる
  • 大友氏は豊後国・豊前国・筑前東部まで縮小

そんな中、天正14年(1586年)7月に島津軍が筑前国の岩屋城へ攻めてきました(岩屋城の戦い)。

この岩屋城を守っていたのが立花宗茂の実父・高橋紹運でした。

高橋紹運はわずか750の兵で2万(5万とも)の島津軍を相手に奮戦し、1ヶ月ほど持ちこたえましたが、最後は島津軍の総攻撃を受けて高橋紹運をはじめ高橋勢は全滅します。

高橋紹運は戦死しましたが、高橋勢の奮戦によって島津軍は4千5百もの死傷者を出し、体勢を立て直すのに時間がかかりました

 

一方、立花宗茂が守っていた立花山城にも8月に島津軍が攻めてきます(実父・紹運を破った軍勢)。

立花宗茂はゲリラ戦法で戦い島津軍を撤退させるほか、岩屋城を奪還する活躍を見せます。

 

同年10月には島津軍が体勢を立て直して主家・大友氏の本拠・豊後国へ攻めると、大友氏は滅亡寸前まで追い込まれてしまいます。

 

しかし、ここで救世主が登場します。

その救世主というのが豊臣秀吉です。

豊臣秀吉は大友氏からの援軍要請を受けると、天正17年(1587年)3月に豊臣秀長(秀吉の弟)・毛利輝元・宇喜多秀家の軍勢10万を豊前国小倉(北九州市)に送り上陸させます。

援軍によって窮地を脱した大友氏は豊臣秀吉の九州平定に協力します。

 

立花宗茂は西から攻めて行き、

  • 肥後国(熊本)の竹迫城(たかばじょう)と宇土城を攻め落とす
  • 南下して島津忠辰(しまづただとき)の出水城を落とす

といった活躍を見せます。

 

この活躍を見た豊臣秀吉からは「その忠義も武勇も九州随一である」と称され、また、筑後国柳川13万石を与えられます。

豊臣政権下では

  • 天正15年(1587年)9月に肥後国で起こった国人一揆を平定
  • この間に小早川隆景を養父とし、小早川秀包(ひでかね)と義兄弟となる
  • 天正16年(1588年)に豊臣秀吉から侍従に叙任され、豊臣姓を賜る
  • 天正18年(1590年)の小田原征伐に参戦します。
  • 文禄元年(1592年)の文禄の役では碧蹄館(へきていかん)の戦いで活躍

 

また、この頃に名を立花統虎から立花鎮虎、さらに立花宗虎に改名

  • 慶長2年(1597年)の慶長の役では孤立した小西勢を救出する

 

豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは西軍につきます。

立花宗茂は本戦には参戦せず、東軍方の京極高次が籠もる大津城を攻めます(大津状の戦い)。

立花勢は大津城を落とすことができましたが、城を落とした9月15日は関ヶ原の戦いで西軍が負けた日でもありました。

立花宗茂は西軍敗北の知らせを受けると大坂城を経て居城・柳川城へ撤退します。

立花宗茂は無事に柳川城へ帰ることができましたが、同年10月に黒田官兵衛や加藤清正らが柳川城へ攻めてきます。

 

立花宗茂は徹底抗戦をしますが、黒田官兵衛の説得によって降伏します。

降伏後、立花宗茂は命は助けられましたが改易され浪人となります。

浪人生活中は

  • 加藤清正や前田利長(前田利家の長男)から家臣へ誘われますが断る
  • 慶長7年(1602年)に別居していた正室の誾千代が亡くなる
  • 慶長9年(1604年)に本多忠勝の推挙で幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊隊長)になる

 

そして、徳川秀忠の御伽衆(おとぎしゅう、主君の話相手)となると、陸奥国棚倉(福島県東白川郡棚倉町)1万石を与えられ大名に復帰します。

さらに、慶長15年には加増され最終的には3万5千石の大名となります。

 

この頃に名を立花宗茂の改名します。

幕府政権下では

  • 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では徳川秀忠の参謀を務める
  • 元和2年(1616年)に起きた坂崎事件(幕府への反乱未遂事件)を処理する
  • 元和6年(1620年)には旧領の筑後柳川10万9千石を与えられる
  • 寛永15年(1638年)の島原の乱に参戦し総大将・松平信綱を補佐する

といった活躍を見せます。

そして、寛永15年(1638年)養子・立花忠茂に家督を譲り出家し、その4年後の寛永19年(1642年)に76歳で亡くなります。

【エピソード】立花宗茂の人柄や性格が分かる逸話

立花宗茂のエピソード1.偉大な2人の父・紹運と道雪

立花宗茂には2人の父がいました。

  • 実父が高橋紹運
  • 養父が立花道雪

大友氏の重臣として仕えていた高橋紹運と立花宗茂は風神・雷神と称された武将でした(風神が紹運、雷神が道雪)。

 

ちなみに立花道雪の方が35歳も年上でした。

そんな2人に育てられた立花宗茂は忠義に厚く誰からも慕われる武将に育ちました。

実父・高橋紹運からは英才教育を受け文武両道の道を歩んでいきます。

この姿に目をつけたのが後に養父となる立花道雪(実子がいなかった)です。

 

立花道雪が何度も高橋紹運に養子したいと懇願したことでこの養子縁組が成立します。

高橋紹運は養子として立花家に出て行く立花宗茂に対して

  • 「道雪殿を実の父と思いなさい」
  • 「もし、わし(実父・紹運)と道雪殿が争うことになった場合は、お前(宗茂)がわしを討ち取れ」

という言葉をかけます。

 

また、この時に立花宗茂は実父・高橋紹運から刀を貰いましたが、死ぬまで離しませんでした。

 

一方、立花道雪は高橋家でお坊ちゃま生活をしていた立花宗茂に厳しい教育をします。

ある日、立花宗茂が立花道雪と山に出かけた際にトゲのついた栗を踏んでしまいます。

立花宗茂はトゲを抜いてくれと家臣に言いますが、家臣の一人が足を踏みつけ、トゲがさらに食い込んでしまいます。

立花宗茂は泣きそうになりますが、近くでは養父の立花道雪が睨んでいたため、泣くこともできなかったと、後に語ったそうです。

実父・高橋紹運と養父・立花道雪は立花宗茂が20歳になる頃に亡くなってしまいますが、父2人の教えはこれからの人生に大きな糧となります。

 

立花宗茂のエピソード2.正室・立花誾千代

立花宗茂が立花家の養子となった際、立花道雪の娘・誾千代の婿となります。

立花道雪には息子がいなかったことから、立花宗茂を養嗣子(養子が後を継ぐ)として迎えました。

 

しかし、立花宗茂と誾千代は仲が悪かったと言われています。

理由としては誾千代は立花家を継ぐために男子と同じように育てられてきましたが、立花宗茂が養子になったことで、誾千代の立場が無くなってしまったことなどが上げられます。

仲が悪かったため子にも恵まれませんでした。

 

誾千代の史料はあまりないため、本当に仲が悪かったかははっきりしていません。

誾千代は慶長7年(1602年)に34歳で亡くなります。

 

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立花宗茂のエピソード3.父の仇・島津義弘を助ける

立花宗茂は関ヶ原の戦いの際に西軍方に味方しましたが、本戦には参戦せず西軍は敗北します。

立花宗茂は本拠・柳川城へ帰ることを決めます。

柳川城への帰還途中に関ヶ原から撤退してきた島津勢に合います。

島津勢を率いていたのが父の仇でもあった島津義弘でした。

この時、家臣の一人が「今のうちに島津義弘を討ちましょう」と進言しますが、立花宗茂は「負けた者を討つのは武士の恥」とこれを拒否し島津勢を護衛しました。

まとめ 立花宗茂はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで立花宗茂について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 立花宗茂は何度も名を変えた
  • 立花宗茂は長男でありながら他家の養子となった
  • 立花宗茂は実父と養父から多くのことを学んだ
  • 立花宗茂は1度改易されるも再び大名となった
  • 立花宗茂は父の仇であった島津義弘を助けた

 

立花宗茂が主役の大河ドラマは残念ながらありませんが、大河ドラマで見てみたい人物の1人でもあります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

以上、「立花宗茂の性格と経歴はどんな人?生い立ちや命はエピソードが面白い」でした。

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