儒教の祖である孔子の思想を継承し、自らも儒教のTOP2として崇められている孟子。
彼はどのような人生を送り、儒教の主要人物になっていったのでしょうか。
今回は、孟子の
- 生い立ち
- 経歴と代表作
- 性格が分かるエピソード
を紹介していきます!
こちらを読めば、孟子の生い立ち・経歴や作品・性格や人となりが分かって、作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。
孟子の生い立ちは?
孟子は紀元前372~紀元前289年、中国の戦国時代を生きた思想家です。
孟子と呼ばれるのが定着していますが、
- 名字:孟
- 名前:軻(か)
- 字:子輿(しよ)、子車(ししゃ)
となるので、本名は孟軻(もうか)と言います。
孟子の「子=先生」を表すので、「孟先生」と呼んでいる感じになるわけなんですね。
孟子の出身地は鄒(すう)で、現在の山東省になります。
父を幼いうちに失い、厳格な母に育てられました。
孟子のお母さんはとっても有名なので、性格が分かるエピソードの見出しで紹介しますね。
お楽しみに!!
- 厳格な母に育てられ、勉学にも励んでいた孟子は、20歳の頃、故郷を離れ魯国へと赴きました。
- 遊びに出かけた訳ではなく、孔子の孫・子思の門人のもとで学びました。
- こうして、孟子は孔子の思想を学んでいったわけです。
30歳を過ぎてからは、斉国に行き、威王のもとで他の学者たちの中で思想を鍛えていました。
40歳を過ぎてからは、弟子と共に、諸国に遊説して回る日々を送ります。
- 斉の宣王
- 梁の恵王
などに「王道政治」を説きましたが、戦乱が当たり前の世の中だったので受け入れられませんでした。
「王道政治」については、次の見出しで説明しますね。
実は孔子も、生前は思想を受け入れてくれる諸侯はいませんでした。
孟子も同じように、思想を受け入れてもらえなかったんですね・・・
20年間ほど遊説の旅はつづきましたが、思想をうまく受け入れてもらえなかった孟子は、60歳を過ぎると故郷に帰ることにしました。
故郷では門人の教育に専念しました。
諸侯に訴えかけ、政治を変えることを果たしきれなかったので、せめて思想を受け入れてくれる弟子を育てようと考えたんでしょうね。
孟子は長生きで、84歳まで生きたと言われています。
門人教育に専念してから20年ほどの時間があったので、多くの門人を育てることができたことでしょう。
孟子の経歴と作品。代表作は?
では、孟子はどのような思想の持ち主だったのかを紹介していきましょう。
- 性善説
- 仁義説
- 王道政治
これら3つを見ていきますね。
1.性善説
孟子の思想の根底にあるのは「性善説」です。
人が生まれながらにして持っている性質は「善」であるという考えです。
そして、善である性質が悪となってしまうのは、環境のせいであるとしています。
これは孟子の代表作『孟子』で説かれている思想です。
国語の授業で習った人もいると思います。
- 人は誰でも「他人にひどいことをすることができない心」を持っている。
- 例えば、幼児が井戸に落ちそうになっていたら、可哀想に思って助けようとする。
- これは「可哀想に思う心」であり、「仁」の「端=糸口」である。
このように考えていました。
人が生まれながらにして誰でも持っている心は4つあると孟子は言っています。
- 可哀想に思う心
- 不善を憎む心
- 譲り合う心
- 善悪を判断する心
これら4つの心が4つの徳へと繋がると考えていました。
2.仁義説
「仁=深い人間愛」を実践するには「義=人の行うべき正しい道」が不可欠であるという主張を仁義説と言います。
- これは、孔子の思想を継承したものです。
- この仁義説を説いた相手は梁の恵王なのですが、このエピソード、実は皆さんもよく知っているものなんです。
- 教科書にも取り上げられていることが多い「五十歩百歩」です。
「五十歩百歩」は『孟子』の中にあるエピソードからできた故事成語なんですよ!
少し引用してみますね。
【白文】
孟子対曰、「王好戦。請以戦喩。填然、鼓之、兵刃既接。棄甲曳兵而走、或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。」
曰、「不可。直不百歩耳。是亦走也。」
【書き下し文】
孟子対へていはく、「王戦ひを好む。請ふ戦ひをもってたとへん。填然として、これに鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵をひきて走る、あるいは百歩にして後止まり、あるいは五十歩にして後止まる。五十歩をもって百歩を笑はば、すなわちいかん」と。
いはく、「不可なり。ただ百歩ならざるのみ。これもまた走るなり。」と。
【現代語訳】
孟子は答えて言った。「王様は戦争がお好きです。戦争でたとえさせてください。ドンドンと進軍の太鼓が鳴り、武器はぶつかって火花を散らしています。そうしたら、よろいを捨てて武器を引きずって逃げ出した者がおりました。一方は百歩で立ち止まり、もう一方は五十歩で立ち止まりました。五十歩逃げた者が百歩逃げた者をおくびょうだと言って笑ったならば、どうでしょうか。」
王は言った。「それはダメだ。ただ百歩でないというだけで、逃げたことには変わりない。」
(ウィキブックス 中学校国語漢文/五十歩百歩より引用)
有名なのはこの場面です。
教科書にもここが載っています。
この場面の後、孟子は恵王に、自分の目指す政治である「王道政治」を説いています。
次に「王道政治」がどのようなものかを紹介します。
3.王道政治
王道政治とは、徳の力によって人民を心服させようとする政治のことです。
当時は権力や武力によって人民を服従させる政治が一般的でした。
これを覇道と言います。
王道政治の具体的な政策は、
- 民衆に一定の職業と収入を与えて生活を安定させることで、
- 常に変わらない道義心を持たせようとした。
- 理想的な土地分配を行う(井田法)
- 学校教育の整理
これらを掲げていました。
生活を安定させることで心の安定を図り、教育を行うことで、より心の強化を行おうとしていたんですね。
- 今では当たり前の考えですが、当時はなかなか受け入れてもらえなかったのか・・・
- 一人くらい王道政治を行ってくれていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
- さりげなく出てきている『孟子』ですが、これは、孟子の言行や思想を、孟子自身や弟子たちがまとめた書物です。
儒教の経典である「四書」の一つとして数えられています。
孟子は、孔子に次ぐ聖人として「亜聖」と呼ばれ、崇められています。
孟子の性格がわかる面白いエピソード
性格とはちょっと違うんですが、実は孟子、お母さんに頭が上がらなかったと言われています。
と言うのも、孟子のお母さんは、元祖教育ママ!!
早くに夫を亡くしたこともあり、なんとか自分でちゃんとした教育をせねば!と思っていたんでしょう。
孟子に期待を掛けて、教育ママと化していたんですね。
その教育ママっぷりが、現在では故事成語として残されていますよ。
元祖教育ママの教育1.孟母三遷(もうぼさんせん)
【故事成語の意味】
教育には環境が重要な要素となるということ。
【解説】
- 最初は墓地の近くに住んでいた孟子家族。
- しかし、孟子が葬式の真似事を始めてしまったので、一回目の転居をした孟子家族。
- 次は市場の近くに住みますが、今度は商人の真似事を始めてしまいました。
- これではいけないと二回目の転居。
最後に住んだのは学校の近くで、ここでは孟子が学問を志すようになったので、お母さんはやっと安心した。
このように、引越しをしながら教育環境を整えたという故事からきています。
この話は『列女伝』に載っているそうですが、史実ではないとされています。
元祖教育ママの教育2.孟母断機の戒め(もうぼだんきのいましめ)
【故事成語の意味】
何事も中途でやめることは愚かであるということ。
【解説】
- 孟子が学業に飽きて家に戻ってきた際に、お母さんが織りかけの布を断ち切って、
- 「お前が学問を中途でやめるということは、私が今まで一生懸命織ってきたこの布を断ち切るのと同じなんだよ。
- これまでの苦労が全部無駄になってしまう、愚かな行為なのだ。」
と孟子を諭したという故事からきています。
これも『列女伝』に記されいます。
どうですか?
なかなか、強烈なお母さんですよね。
まさに教育ママ!!
こんなお母さんだと、孟子も従わざるを得ないですよね。
何をされるか分からないもの・・・(笑)
まとめ 孟子はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
孟子の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。
簡単にまとめておきますね。
- 孟子は孔子に次ぐ聖人として「亜聖」と呼ばれている
- 孟子の代表作『孟子』は儒教の経典の一つである
- 孟子の思想は、孔子の思想を継承・発展させたものである
- 孟子の思想は、生前、諸侯たちになかなか受け入れられなかった
- 孟子のお母さんは、かなりの教育ママだった
今や孔子に次ぐほどの地位を確立している孟子ですが、生前は思想が受け入れられず苦労したんでしょうね。
孔子の思想を継承・発展させた孟子の思想を読みたい人には、
- 『「孟子」一日一言』川口雅昭
がおすすめ!
『孟子』を愛読し、講義まで行った吉田松陰の解釈が付されているところもあります。
ちなみに、吉田松陰が『孟子』を読んで書いた講義本は、
- 『講孟箚記(上)』近藤啓五
- 『講孟箚記(下)』近藤啓五
です。
興味のある方はこちらもぜひ読んでみてくださいね!
以上、「孟子の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした。
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