毛利元就の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

毛利元就という人物をご存知でしょうか?

毛利元就といえば息子達に説いた三本の矢の逸話が有名です。

毛利元就が生まれた時の毛利家は大名ではなく安芸国の一国人領主でした。そんな時代に生まれた毛利元就はたった1代で毛利家を戦国大名にし中国地方の大部分を手中に収めました。

今回は毛利元就について

  • 毛利元就の生い立ちとは?
  • 毛利元就の経歴や最後は?
  • 【エピソード】毛利元就の人柄や性格が分かる逸話

 

を紹介します。

こちらを読めば毛利元就の経歴や性格がわかりますよ。

ぜひ読んでみてください。

 

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毛利元就の生い立ちとは?

明応6年(1497年)に安芸国の国人領主・毛利弘元の次男として生まれます。

幼名は松寿丸です。

この時の毛利氏は、北九州から中国地方を支配していた大内氏(周防国や長門国の守護)に従っていました。

 

明応9年(1500年)、父の毛利弘元が家督を嫡男の毛利興元に譲ると、松寿丸は父とともに多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)に移ります。

 

永正3年(1506年)、父が酒毒(アルコール中毒)で亡くなると、家臣の井上元盛が多治比猿掛城を奪い、9歳だった松寿丸は城を追い出されます。

追い出されてからは貧しい生活を強いられますが、養母・杉大方(父・弘元の継室)が面倒を見てくれていました。

 

永正8年(1511年)、兄・毛利興元の許可によって元服し名を多治比元就と名乗ります。

多治比家は毛利家の分家となります。

 

永正13年(1516年)、兄で毛利家当主だった毛利興元が24歳で急死すると、嫡男・毛利幸松丸が家督を継ぎます。

  • 幸松丸はまだ2歳であったため、多治比元就が後見役(サポート役)となります。
  • 毛利家が混乱している中、佐東銀山城(さとうかなやまじょう)城主・武田元繁(安芸武田氏、甲斐武田氏の分家)が毛利家と同様に大内氏に従っていた吉川氏の有田城に攻めてきます。多治比元就は毛利幸松丸の代わりとして有田城救援に向かいます(有田中井手の戦い)。
  • この戦いは多治比元就にとっては初陣でしたが、武田軍先鋒隊の熊谷元直を討ち取る活躍をします。

 

その後、戦いは武田軍が優勢に進めていましたが武田元繁が矢に倒れ討ち死にしたことで、毛利軍が勝利します。

この戦いの結果、毛利氏が勢力を拡大する要因となりました。

 

大永3年(1523年)、毛利家当主だった毛利幸松丸が9歳で早世すると、多くの家臣からの支持もあり毛利家当主となり、名を毛利元就と改名します。

また、この年には嫡男の毛利隆元が生まれます。

当主となった毛利元就は、自身の家督相続に反対だった相合元綱(元就の異母弟)や家臣を粛清し毛利家内部をまとめ勢力拡大に動きます。

 

毛利元就の経歴や最後は?

大永5年(1525年)、家督を継いだ毛利元就は、家督相続の際に異母弟・相合元綱を擁立しようと裏で働きかけていた出雲守護尼子氏と手を切り敵対関係となります。

毛利元就が家督を継いだ当時の中国地方は大内氏と尼子氏が広大な領地を持っていました。

  • 大内氏:長門国(山口)・周防国(山口)・石見国(島根西部)・安芸国(広島西部)
  • 尼子氏:備後国(広島東部)・出雲国(島根東部)・伯耆国(ほうきのくに、鳥取西部)

 

と毛利家はまだまだ弱小勢力であったため毛利元就は大内氏の傘下に入ります。

 

享禄2年(1529年)、尼子氏と通じていた同じ安芸国国人・高橋氏を攻め滅ぼし毛利家は安芸国内で勢力を伸ばします。

  • 勢力を伸ばす一方、毛利元就は長年宿敵であった宍戸氏と縁戚関係を結び和解するほか、大内氏に負けて窮地に追いやられていた天野氏や安芸武田氏と関係が悪くなった熊谷氏と良い関係を築き、安芸国内で少しずつ味方を増やしていきます。

 

享禄3年(1530年)に次男・毛利次郎(後の吉川元春)が生まれます。

 

天文2年(1533年)に三男・毛利徳寿丸(後の小早川隆景)が生まれます。

 

天文6年(1537年)、長男の毛利隆元を人質として大内氏へ送り、大内氏との関係を強化します。

 

天文9年(1541年)には尼子晴久が約3万の兵を率いて毛利氏の本拠地・吉田郡山城に攻めてきます(吉田郡山城の戦い)。

 

毛利元就は3千の兵で籠城します。

  • 毛利軍は縁戚関係を結んだ宍戸氏や大内氏の援軍(陶晴賢勢)の助けもあり尼子軍に勝利します。
  • また、吉田郡山城の戦い勝つと、今度は大内氏とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻め落城させます(安芸武田氏の滅亡)。
  • 吉田郡山城の戦いや佐東銀山城の戦いの結果、中国地方の勢力図は大内氏が優勢となります。

 

天文11年(1542年)、大内義隆を総大将として尼子氏の居城・月山富田城(がっさんとだじょう)攻めに参戦します(第一次月山富田城の戦い)。

  • 戦いは吉川興経の尼子氏への寝返りや補給ルートを遮断されるなどし大内軍は敗走します。
  • 毛利勢も月山富田城の塩谷口方面から攻めますが敗れ、敗走中に毛利元就は死を覚悟するも家臣の一人が身代わりとなり、安芸に帰還しました。

 

天文13年(1544年)、毛利元就は三男・毛利徳寿丸を竹原小早川家に養子に出し名を小早川隆景と名乗ります。

 

天文14年(1545年)、妻と養母を相次いで亡くします。

 

天文15年(1546年)、毛利元就は隠居を表明し家督を長男の毛利隆元に譲ります。

ただし、実権は毛利元就が握っていました。

 

天文16年(1547年)から天文20年(1551年)の間に「毛利両川体制」を確立させます。

「毛利両川体制」とは毛利元就が確立した組織です。

これは吉川家と小早川家に自身の息子を養子として送り当主にします。

  • 吉川家には次男の毛利元春(吉川元春)を継がせる
  • 竹原小早川家を継いでいた三男の小早川隆景に沼田小早川家も継がせる

 

これにより毛利家は吉川家と小早川家を吸収し、毛利家の勢力拡大を助けていきます。

 

天文20年(1551年)、大内氏当主・大内義隆が家臣の陶晴賢によって殺害され、大内義隆の養子・大内義長が擁立します。

  • 毛利元就もこの当主交代に同意していましたが、毛利家の勢力拡大に対して陶晴隆が危機感を感じ始めます。
  • 陶晴賢は毛利元就に与えていた安芸国内の国人領主たちをまとめる権限を返すように求めます。
  • 毛利元就はこの要求を拒否し陶晴賢と対決することを決めます。

 

弘治元年(1555年)、陶晴賢が2万の大軍を率いて厳島に進軍してきます。

  • 毛利元就は約4千の兵で奇襲し、また、小早川水軍と村上水軍が陶水軍を攻撃します。
  • 毛利軍は大内軍を挟撃し陶晴賢は自害し大内軍を壊滅させます。

 

弘治3年(1557年)、大内氏の内紛を好機とみた毛利元就は大内義長を攻め自害させ大内氏を滅亡させます。

 

永禄5年(1562年)には2年前に尼子氏当主・尼子晴久が亡くなったことを好機とみて、月山富田城を攻撃します(第二次月山富田城の戦い)。

 

戦いは4年ほど続き永禄9年(1566年)に尼子義久を降伏させます。

  • 尼子氏の降伏によって毛利元就は中国地方8カ国を支配する大名になります。
  • 一方、この戦いの最中の永禄3年に長男の毛利隆元を亡くしてしまいます(病死説や暗殺説なはっきりしていない)。
  • 毛利家の家督は毛利隆元の嫡男・毛利輝元が継ぎますが、実権は毛利元就が握ります。

 

永禄11年(1568年)、豊後国(大分県)の大友氏が豊前国(福岡県東部)に攻めてくると、毛利元就はこの対処に手を焼きますが(大内残党)、吉川元春と小早川隆景の活躍で大友氏と和睦します(博多を大友氏に譲渡)。

 

元亀2年(1571年)、吉田郡山城で75歳で亡くなります(老衰または食道癌)。

 

【エピソード】毛利元就の人柄や性格が分かる逸話

毛利元就のエピソード1.養母・杉大方

毛利元就は次男であったことから家督を継げる立場にはありませんでした。

兄が家督を継ぐと父とともに多治比猿掛城に移りました。

しかし、移ってすぐに実母が亡くなり、母の死から5年後には父も亡くなってしまいます。

さらに父の死後に家臣の井上元盛が多治比猿掛城を奪ったため、毛利元就は追い出されてしまいます。この時、毛利元就は10歳でした。

毛利元就は貧困生活を送りましたが、父の側室であった杉大方が養母となり面倒を見てくれました。

毛利元就は杉大方から朝日を拝む信仰を教わり、生涯にわたって朝日信仰を欠かさず行います。

毛利元就は後年に杉大方について「養母はすばらしい人であった」と書き残しています。

杉大方との生活は毛利元就のその後に大きな影響を与えることになります。

 

毛利元就のエピソード2.健康に気を使っていた

毛利元就は健康に気を使っていたことから、酒をほとんど飲まなかったといわれています。

理由は自身が酒に弱かったこともありましたが、毛利元就の祖父・父・兄が3代にわたって酒毒(アルコール中毒など)で早くに亡くなります。

  • 祖父 毛利豊元 33歳
  • 父  毛利弘元 40歳
  • 兄  毛利興元 25歳

 

このことから毛利元就は酒をほとんど飲みませんでした。

毛利元就は団子や餅を好んで食べていました。

餅は腹持ちが良く、さらに一個でご飯一杯分のカロリーを摂取できることから、毛利元就は戦地では餅袋を腰にぶら下げていたと言われています。

毛利元就は健康に気をつけていたことで75歳まで生きました。

 

毛利元就のエピソード3.三本の矢

毛利元就の逸話として有名なのが「三本の矢」です。

これは毛利元就が死ぬ直前に3人の息子(隆元・元春・隆景)に矢を使って兄弟で力を合わせることを説いた話です。

この話は史実とは違っていること(長男・隆元の方が元就より先に亡くなっている)から後世の創作とされています。

この話の元になっているのが「三子教訓状」という、毛利元就が弘治3年(1557年)に書いた直筆の書状です(全14条)。

いくつか紹介します。

 第一条:毛利家の名を末代まで衰えさせぬように

第二条:元春と隆景は他家を継いだが、毛利家を忘れることはあってはいけない

第三条:三人は少しでも分け隔てが無いように、そんなことがあれば三人とも滅亡する

第四条:隆元は元春・隆景を力にして、すべてを指図せよ

第五条:隆元は親心をもって接し、元春・隆景は隆元を助けるように

などが書かれています。

これらは毛利元就が毛利の行く末を思って書いたものでした。

長男の隆元は早くに亡くなってしまいますが、元春と隆景は隆元の子である毛利輝元を支え続けました。

 

まとめ 毛利元就はどんな人?大河ドラマや映画はある?

ここまで毛利元就について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 毛利元就が生まれた当時の毛利家は戦国大名ではなかった
  • 毛利元就は養母・杉大方に多くのことを学んだ
  • 毛利元就は兄と甥の早世で毛利家の当主となった
  • 毛利元就は安芸国内から勢力を拡大させていった
  • 毛利元就は酒をあまり飲まず健康に気を使っていた
  • 毛利元就は息子達に仲違いしないように説いた

 

毛利元就に関する作品は1997年に放送された大河ドラマ

  • 『毛利元就』

 

がオススメです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「毛利元就の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い」でした。

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