毛利元就の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

「三本の矢」の逸話で知られる毛利元就は息子思いの優しいお父さんの印象が強いですが、戦歴を見てみると、50戦のうち勝ったのは40回程と勝率が高い武将でした。

毛利元就が生まれた当時の毛利家は安芸国内の国人領主で、周りを大内氏や尼子氏といった強大な戦国大名に囲まれていました。

しかし、毛利元就はたった1代で戦国大名にし、毛利家を後世まで語り継がれる名家にしました。

今回は毛利元就について

  • 毛利元就の代表的な戦とは
  • 【逸話】毛利元就の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】毛利元就の強さはどれくらい?

を紹介します。

こちらを読めば毛利元就の戦や強さがわかりますよ。

是非読んでみてください。

 

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毛利元就の代表的な戦とは?

今回は毛利元就の戦いの中でも1番有名な厳島の戦いを紹介します。

厳島の戦いとは天文24年(1555年)に安芸国厳島を舞台に毛利軍と陶(すえ)軍の間で起こった戦いです。

また後世には日本三大奇襲(他、河越城の戦い・桶狭間の戦い)の一つとして数えられます。

厳島の戦いが起こる前の毛利家は大内家の傘下にいましたが、天文20年(1551年)に大内氏の当主であった大内義隆が家臣の陶晴賢に殺害され、新当主に大内義長(義隆の養子)がなると状況が一変します。

当初、毛利元就は大内家の当主交代に理解を示しており、大内家の実権を握った陶晴賢と良い関係を築き、安芸国と備後国の国人領主達を支配する権限を与えられます。

権限を与えられた毛利元就は安芸国内の大内義隆派の国人を討伐するなど、次第に安芸国内で勢力を拡大していきます。

しかし、毛利家の勢力拡大に危機感を覚えた陶晴賢は支配権を返上するように毛利元就に要求してきました。

毛利元就はこの要求を拒否し、次第に毛利元就と陶晴賢は対立していきます。

毛利元就は厳島の戦いが起こる前から外交や調略で準備を整えていました。

  • 陶晴賢と尼子氏が挟撃してくることに備え、尼子氏と対立していた国人を支援
  • 肥前国(佐賀県と長崎県)の少弐氏(しょうに)に出兵の催促
  • 瀬戸内海で制海権を握っていた来島村上氏と婚姻関係を結ぶ
  • 陶家臣・江良房栄を内通させ陶晴賢に討たせる

天文24年(1555年)10月1日に両軍が厳島で激突します。

両軍の兵力は

  • 毛利軍が5千人
  • 陶軍が2万人

と毛利軍の方が劣勢でした。

毛利元就は正面から戦ったら大損害を受けることをわかっていたため、平坦な地が少なく大軍が一斉に動けない厳島へ誘い込むことを考えます。

ここで活躍したのが毛利家臣で桜尾城城主・桂元澄です。

桂元澄は陶晴賢に対して「陶軍が厳島へ攻めれば、毛利軍は厳島防衛のため厳島まで来るだろ。そして吉田郡山城(毛利居城)へは自分(桂元澄)が攻める。」という内容の密書を送ります。

毛利元就の策略は的中し陶軍は厳島へ上陸し宮尾城へ攻撃します。

宮尾城には500程の兵しかおらず陥落するのは時間の問題でした。

陶軍による宮尾城への攻撃を聞いた毛利元就は、9月30日の夕方に軍を第1軍(毛利本隊)・第2軍(小早川隊)・第3軍(村上水軍)の3つに分けて厳島へ上陸する準備を行います。

毛利軍が動いた9月30日の夕方は突如として天候が暴風雨となりますが、毛利元就は「今日は吉日」と説き、酉の刻(午後6時)に出陣します。

一方、陶軍は暴風雨だったことから毛利軍は出陣しないだろうと油断していました。

そして毛利軍は日が変わった10月1日の午前6時に奇襲攻撃を仕掛けます。

第1軍(毛利本隊)が背後から攻撃し、第2軍(小早川隊)と宮尾城守備兵が陶本陣を攻撃します。

また、村上水軍も陶水軍を攻撃し船を燃やしました。

挟撃された陶軍兵士は大混乱し四方八方へ逃げ島から脱出しようとし船を奪い合ったため、溺死する者が多く出ました。

毛利軍が追撃をする中、陶晴賢は厳島神社から西の大元浦(広島県廿日市市宮島町)方面へ逃げますが、船が無かったため陶晴賢は大元浦で自害しました。

毛利元就が陶晴賢に勝ったことで大内氏は一気に衰退していき2年後の弘治3年(1557年)に大内氏を滅ぼしました。

【逸話】毛利元就の勝ち戦と負け戦は?

毛利元就の勝ち戦:第二次月山富田城の戦い

永禄8年(1565年)4月から永禄9年(1566年)11月の間に、尼子家の居城・月山富田城(がっさんとだじょう)をめぐって、毛利家と尼子家の間で起こった戦いです。

毛利元就は厳島の戦い(1555年)で陶軍に勝利し、その勢いで弘治3年(1557年)に大内氏を滅ぼすと、次は尼子氏領に侵攻します。

毛利元就が侵攻し始めた永禄元年(1558年)当時の尼子家の当主は、尼子氏の最盛期を築いた尼子晴久でした。

毛利軍は永禄2年(1559年)8月に石見銀山(日本最大の銀山)を奪取するため尼子方の山吹状を攻めます。

毛利軍は1万4千の兵で攻めますが、山吹城主・本条常光の抵抗の前に撤退を余儀なくされます。

毛利軍が降露坂(ごうろざか)を下っていると尼子軍の思いも寄らぬ追撃に遭い敗走します(降露坂の戦い)。

毛利元就は命からがら逃げ帰りました。

ところが、永禄3年(1561年)に尼子晴久が急死すると、後を継いだ尼子義久は将軍・足利義輝の仲介のもと毛利家と和議を結びます(雲芸和議)。

この和議で毛利元就は尼子方に石見銀山へ干渉を行わないように申し出て、尼子義久に同意させます。

雲芸和議の結果、尼子家臣達が一気に不満を漏らし、特に出雲南西部の国人が毛利側に寝返ってきます。

これを好機とみた毛利元就は永禄5年(1562年)7月に息子達(隆元・元春・隆景)と吉田郡山城を出陣します(隆元は途中で九州の大友氏への対応にあたるため帰国)。

毛利軍は道中、月山富田城に日本海から物資を運ぶルートを遮断するために白鹿城を攻撃し落としました(白鹿城の戦い)。

しかし、白鹿城を攻略している間に嫡男・毛利隆元を亡くしてしまいます。

永禄8年(1565年)4月、毛利軍は月山富田城への攻撃を開始します。

両軍の兵力は

  • 毛利軍が3万人
  • 尼子軍が1万人

月山富田城への道は3つあり毛利軍は軍を3つに分けます。

  • 御子守口(正面)へは毛利元就勢  尼子守備隊は尼子義久勢
  • 塩谷口(南側)へは吉川元春勢   尼子守備隊は尼子倫久・山中幸盛勢
  • 菅谷口(北側)へは小早川隆景勢  尼子守備隊は尼子秀久勢

毛利軍は尼子守備隊の徹底抗戦の前に1度退くことを決めます。

同年9月にもう一度攻めますが、尼子家家臣・山中幸盛の善戦で苦戦します。

しかし、この頃になると毛利軍による兵糧攻めが効き始め尼子軍将兵が次々と寝返り始めました。

一方、永禄9年(1566年)1月、尼子側では宇山久兼が兵糧を密かに月山富田城へ運んでいましたが、毛利元就の調略により尼子義久が讒言(ざんげん、他人を陥れる)を信じ宇山久兼を殺してしまいます。

宇山久兼の殺害は尼子軍全体に影響し一気に士気が落ちてしまいます。

そして、永禄9年(1566年)11月についに尼子氏は降伏します。

尼子家を滅ぼした毛利家は中国地方で最大の勢力を得ることとなりました。

毛利元就の負け戦:第一次月山富田城の戦い

天文11年(1542年)1月から天文12年(1543年)5月の間に大内氏と尼子氏の間で起こった戦いです。

天文11年(1542年)第一次月山富田城の戦いが行われた当時の毛利家は、安芸国の国人領主で大内家の戦力下にいました。

この戦いの原因となったのが天文10年(1541年)に尼子家の当主・尼子晴久が毛利家の居城・吉田郡山城に攻めてきたことです。

この戦いは毛利元就の活躍で尼子軍を撃退します。

尼子家の吉田郡山城攻略の失敗により、安芸国と備後国の国人の中で大内氏側に寝返る者が続出します。

これを好機とみた大内家当主・大内義隆は天文11年(1542年)に出雲へ出陣します。

毛利元就も安芸国・石見国の国人(小早川氏や益田氏)らを集めて大内軍に合流します。

同年7月に尼子軍側の赤穴城を攻略し、10月には本陣を三刀屋峰に本陣を構えました。

そして、年が明けた天文12年(1543年)に本陣を京羅木山(きょうらぎさん、島根県松江市と安来市の境界にある山)に構え、3月に攻撃を開始します。

両軍の兵力は

  • 大内軍が4万5千人
  • 尼子軍が1万5千人

と大内軍が優勢でした。

しかし、尼子軍の徹底抗戦の前に城攻めは難航し、さらに大内軍の補給路を尼子軍のゲリラ部隊によって遮断されます。

そして、同年4月に尼子家から寝返っていた国人達(本城常光や吉川興経ら)が、再び尼子家に寝返ったことで、大内軍の負けは決定的なものになります。

毛利隊も月山富田城へのルートの1つである塩谷口を攻めていましたが敗れ敗走します。

大内軍が撤退するなか毛利隊は殿軍(しんがり、本隊が撤退するまで身代わりになるため全滅の可能性が大きい)を命じられます。

毛利隊は尼子軍の激しい追撃を受け毛利元就は死を覚悟します。

しかし、家臣の渡辺通が毛利元就の甲冑を着て身代わりとなります。

渡辺通はわずか7騎で囮となり追撃部隊と戦い戦死します。

この犠牲の結果、毛利元就は本拠・吉田郡山城へ帰ることができました。

第一次月山富田城の戦いによって、大内義隆は可愛がっていた養子の大内晴持を亡くし、以後政治を怠るようになり大内家は衰退していきます。

尼子家は尼子晴久のもと最盛期を迎えます。

一方の毛利家は大内家の衰退により次第に勢力を拡大していきます。

【最強伝説】毛利元就の強さはどれくらい?

毛利元就の強さ1.謀略の武将

毛利元就は謀略によって多くの戦に勝利してきました。

毛利元就の謀略のほとんどは兵書『孫子』に書かれている内容を応用したものです。

『孫子』とは中国・春秋時代(紀元前5世紀中頃~紀元前4世紀)に活躍した孫子(呉の軍事思想家)によって書かれた兵法書です。

この兵法書に中には「兵は詭道(きどう)なり」と書かれており、戦はだまし合いという意味があります。

これを応用した毛利元就は反間の計(敵の間者を利用する)を多く使っていました。

特に、厳島の戦いでは陶家臣の中でも知謀にかけていた江良房栄を内通させる工作をし「房栄が寝返った」という偽情報を流しました。

陶晴賢はこの偽情報を信じ江良房栄を殺害してしまいます。

これによって厳島の戦いは毛利軍が勝利しました。

毛利元就の強さ2.毛利両川体制

毛利両川体制とは毛利元就が確立した軍事面・政治面での通称です。

毛利元就は次男と三男をそれぞれ吉川家と小早川家に養子に出し後を継がせます。

吉川家は当主・吉川興経と家臣・吉川経世との間で対立していたところを、吉川経世は吉川家の血を引いていた次男・毛利元春(母は吉川家出身で経世の妹)を養子に迎えようと提案してきます。

毛利元就はこれを承諾し、毛利元春は名を吉川元春に改名し吉川興経を強制的に隠居させる形で後を継ぎました。

一方、小早川家は竹原小早川家と沼田小早川家がありましたが、三男・小早川隆景はすでに竹原小早川家の当主となっていました。

沼田小早川家は当主・小早川繁平が盲目であったことから、家中では繁平派と隆景擁立派で争っていました。

毛利元就は大内義隆と共謀して、小早川繁平を隠居させて竹原小早川家と統合させて小早川隆景が両小早川家を継ぎました。

小早川家は強力な水軍がいましたが、毛利家は水軍も手に入れることになります。

これによって吉川家と小早川家を吸収した毛利家は勢力拡大を行うことができました。

毛利元就の強さ3.息子思い

毛利元就には正室との間に3人の息子がいました。

上から毛利隆元・吉川元春・小早川隆景です。

日本では昔から男子を産まなければ家が無くなるという考えありました。しかし、戦国時代では男子が多く生まれるほど後継ぎ争いが起きてしまい、逆にこれが家を滅ぼす原因となってしまいます。

毛利元就は息子の間で争いが起こらないように「三子教訓状」という文書を残し、後世には「三本の矢」の逸話の基になったものです。

内容は、吉川家と小早川家を継いだ吉川元春・小早川隆景に対して毛利家のことを1番に考えるように説き、長男・毛利隆元には兄弟で仲良くするようにと説いています。

この教えは毛利隆元が早くに亡くなった後も、吉川元春と小早川隆景は毛利隆元の嫡男・毛利輝元を支え続け、これは毛利氏の家名を幕末まで残すことができました。

まとめ 毛利元就のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで毛利元就について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 毛利元就は兵法書『孫子』を読み戦に備えた
  • 毛利元就は謀略にかけていた
  • 毛利元就は息子の結束を説いた

オススメ作品

大河ドラマでは1997年の『毛利元就』

本では利重忠さの『元就と毛利両川』

がオススメです。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「毛利元就の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

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