あなたは最上義光(もがみ よしあき)という人物をご存知ですか?
最上義光は現在の山形県を治めていた戦国大名で、伊達氏や上杉氏といった強大な大名と東北地方の覇権を巡って争いました。
また、最上義光は目的のためなら手段を選ばない人物としても有名であり、調略を用いて敵を内部から崩すなど頭もいい人物でした。
今回は最上義光について
- 最上義光の経歴をわかりやすく
- 最上義光と伊達政宗との関係は?
- 最上義光と徳川家康との関係は?
- 最上義光の逸話。刀・鮭・兜のエピソード
を紹介します。
こちらを読めば最上義光の経歴やエピソードがわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
個人的には伊達政宗といったら渡辺謙のイメージ pic.twitter.com/PCOk0BJtef
— 黒無(CV:森川智之) (@crom0803) 2014年7月18日
最上義光の経歴をわかりやすく
まずは最上義光の経歴を簡単に紹介します。
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最上義光は天文15年(1546年)に生まれます。
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父は最上義守
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母は小野少将
幼名は白寿丸です。
永禄元年(1558年)の元服の際、第13代将軍・足利義輝から「義」の字を賜り、名を義光に改めます。
この頃の最上氏は当主・最上義守によって領土拡大に動いていましたが、永禄3年(1560年)の寒河江城(さがえじょう)攻めに失敗し領土の拡大を一時的に中止します。
また、寒河江城攻めは最上義光にとっては初陣でもありました。
元亀元年(1570年)になると、最上義光は父・最上義守と家督を巡り対立するようになりますが、家臣の仲介によって和解し、同年中に最上義光は家督を相続します。
ところが、天正2年(1574年)に今度は外交政策(対伊達氏)を巡って父と争うようになります。
この争いで伊達氏以外にも周辺の国人らが最上義光に対して軍を興すなど、周りを敵に囲まれる状態となりますが、最上義光は巧みな戦略でこれを退きます。
そして、同年9月には有利な状況で父と和解します。
これら一連の争いを天正最上の乱と呼びます。
最上家内部での対立を収束させた最上義光でしたが、周辺の国人はまだ完全には従順はしていなかったため、義光は天正3年(1575年)以降は出羽統一(特に庄内地方)を目指します。
最上義光は出羽国の国人らを従わせるのに苦労しますが、義光は政略結婚・調略などで味方を増やしたり敵を倒したりしていきます。
義光の出羽統一戦は10年以上続くことになります。
そんな中、天正17年(1589年)に豊臣秀吉に従っていた徳川家康から伊達氏と和解するようにとの要請を受け義光はこれに応じます。
この頃にはすでに豊臣秀吉が甲信越より以西を統治下に置いていました。
これ以降は豊臣秀吉に従います。
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天正18年(1590年)、小田原城征伐に参戦
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天正19年(1591年)、九戸政実の乱に次男の家親を送る 娘の駒姫が豊臣秀次(秀吉の養子)の側室候補になる
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天正20年(1592年)、朝鮮征伐のために肥前国(佐賀県)の名護屋城へ行く
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文禄4年(1595年)、 豊臣秀次が謀反の疑いで自害し、駒姫も一緒に処刑される
豊臣秀吉の死後は徳川家康に仕えます。
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慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍方として、西軍方についた上杉軍と戦う(長 谷堂城の戦い)。
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慶長8年(1603年)、江戸幕府が成立すると山形藩を治めます。
山形藩では政治に尽力し領内の復興を目指します。
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山形城を築城する
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地子銭(土地代)や年貢を免除する
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流通を盛んにする(街道や川の整備)
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治水工事をし農場生産力を上げる
そして、慶長19年(1614年)1月18日に69歳で亡くなります。
最上義光亡き後の最上家は元和3年(1617年)に後を継いだ最上家親が急死し、家親の子である義俊が継ぎましたが、後継問題を巡って争いが勃発し改易されます(最上騒動)。
最上義光の死からわずか9年後のことでした。
最上義光と伊達政宗との関係は?
最上義光の人生の中で1番関わりが深かったのが伊達政宗でしょう。
最上義光にとって伊達政宗は人生の前半は敵で後半は味方という相手でした。
ただ、最上義光の方が伊達政宗よりも20歳も上であり、父と子のような関係でもありました。
そもそも、最上家と伊達家は隣国同士であったため、昔からこの2家は時には味方になり時には敵になっていました。
そんな関係にあった最上義光と伊達政宗の関係を紹介します。
~最上義光は伊達政宗の伯父~
最上氏と伊達氏の関係は室町時代以前からありました。
歴代の当主達は時には味方になり時には敵になったりしていました。
中でも、姻戚関係は両家の安泰を築く上ではかかせないものでした。
最上義光の父・最上義守も伊達氏と姻戚関係を築くために、娘で義光の妹でもある義姫を伊達輝宗に嫁がせます。
そして、義姫と伊達輝宗の間に生まれたのが伊達政宗です。
最上義光は伊達政宗の伯父と言うことになります。
ちなみに、最上義光の方が伊達政宗よりも20歳も年上だったため、ある意味、父と子のような関係でもありました。
~伊達政宗との対立~
伯父と甥という関係にあった最上義光と伊達政宗でしたが、当主となると二人は争うようになります。
ただ、両者が当主になったのは
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最上義光は元亀元年(1570年)
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伊達政宗は天正12年(1584年)
と14年もの差がありました。
最上義光は当主となると伊達氏からの独立するために動きます(ただし、伊達氏との同盟は継続)。
最上義光は伊達政宗が当主になるまでに、最上郡にいた最上八楯(天童氏らをリーダーとする国人連合)を崩壊させ郡の全域を支配下に置きます。
そして、天正12年(1584年)に伊達政宗が当主となります。
伊達政宗はそれまで同盟を結んでいた会津の蘆名領へ侵攻たことで、東北地方の戦況が一変します。
最上義光は甥・伊達政宗の行動に反感を持ち
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蘆名氏
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佐竹氏
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大崎氏
らとともに反伊達包囲網を結成します。
天正16年(1588年)には伊達政宗が最上義光の義兄(義光の正室の兄)である大崎義隆を攻撃すると、義光は大崎氏へ援軍を出し伊達軍を撃破します(大崎合戦)。
この戦いの際、最上義光の妹で伊達政宗の母でもある義姫が自ら戦場へ赴き仲介をしたと言われています。
義姫の仲介でこの戦いは終わりましたが、今度は越後(新潟)の上杉氏が隙をついて庄内地方へ侵攻し庄内三郡を奪われてしまいます(十五里ヶ原の戦い)。
さらに、天正17年(1589年)に蘆名氏が伊達政宗によって滅ぼされる(摺上原の戦い)と大崎氏も伊達政宗に従属したため反伊達包囲網は崩壊し、最上義光は伊達氏・大崎氏・上杉氏に囲まれる形となります。
危機的な状況に陥った最上義光でしたが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原征伐を開始すると最上義光は伊達政宗に遅れる形ではありましたが、秀吉のもとへ参上し本領安堵されました。
最上義光は豊臣秀吉の登場によって危機を脱する状況となりました。
これ以降、最上義光と伊達政宗は豊臣臣下として両者とも争うことはありませんでした。
最上義光と徳川家康との関係は?
~徳川家康の出迎え~
最上義光にとって伊達政宗の次に関係が深かったのが徳川家康で、最上義光と伊達政宗の争いを終わらせたのも徳川家康です。
そんな徳川家康と最上義光が最初に会ったのが天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の時です。
以前まで敵対関係にあった伊達政宗はすでに豊臣秀吉の下へ赴き忠誠を誓っていました。
一方、最上義光は伊達政宗との争い後の片付けや父・最上義守の葬儀で伊達政宗よりも遅れていました。
伊達政宗は豊臣秀吉の下へ参上した際に、死を覚悟し死に装束で謁見しますが、秀吉からは「もう少し遅れていたら首が飛んでおったわ」と言われます。
そんな伊達政宗よりも最上義光は遅れていたため、下手したら殺される場合もありました。
最上義光は急いで豊臣秀吉のもとへ向かっていましたが、その道中で待っていたのが徳川家康でした。
そして、何とか豊臣秀吉のもとへ参上した最上義光は徳川家康と以前から連絡を取り合っていたこともあり遅れたことは咎められませんでした。
~徳川家康との信頼関係を築く~
伊達政宗との和解や豊臣秀吉からの本領安堵など、なんとか窮地を脱した最上義光でしたが小田原征伐後の奥州仕置(秀吉による東北地方の領地の整理)の際に問題が発生します。
それが、最上義光が伊達政宗と戦っていた大崎合戦の最中に上杉氏が奪った庄内地方のことです。
大崎合戦があったのは天正16年(1588年)ですが、ちょうどこの年に上杉氏が庄内地方を奪います。
しかし、最上義光からすると、この時すでに豊臣秀吉の惣無事令(勝手な戦いをしてはいけない)があったことから上杉の行いは違反に値するものと考えていました。
そこで、最上義光は豊臣秀吉に進言しますが、上杉は早くから豊臣秀吉に従っていたことや秀吉側近の石田三成らの上杉への信頼もあり、この進言は聞き入れてもらえませんでした。
ですが、唯一最上義光に賛同したのが徳川家康です。
徳川家康が味方になってくれたことで、庄内地方は上杉領のままになりましたが、庄内地方を奪った張本人である本庄繁長は処分されました。
これによって最上義光は徳川家康を信頼するようになり、豊臣秀吉が亡くなった後の関ヶ原の戦いでは、同じく家康と信頼関係を築いていた伊達政宗と力を合わせ、西軍についた上杉軍と戦うことになります。
最上義光の逸話。刀・鮭・兜のエピソード
~最上義光と刀のエピソード~
最上家ならびに最上義光に伝来した家宝の中に「鬼切安綱」という刀があります。
別名「鬼切丸」や「髭切」とも呼ばれているこの刀は、もともとは源家(河内源氏、源頼朝や足利尊氏ら歴代の将軍を輩出した一族)に伝わる刀でした。
源家に伝わっていた刀がなぜ最上家に伝来したのかというのが今回紹介する内容です。
「鬼切安綱」については『太平記』という南北朝時代に書かれた軍記物に登場します。
『太平記』によると
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鍛えたのは伯耆国(鳥取県西部)の鍛冶職人である安綱(平安中期の鍛冶職人)※大原安綱ともいわれています
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安綱が坂上田村麻呂(758年~811年)へ献上した ※坂上田村麻呂とは初代征夷大将軍で東北の蝦夷を討伐した人物
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坂上田村麻呂が伊勢神宮へ参拝した際に、夢で天照大神からのお告げを受けて伊勢神宮に奉納した
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源頼光(948~1021年)が伊勢神宮に参拝した際に、夢の中で天照大神から「子孫代々に伝え、天下を守るべし」と告げられ刀を受け取った
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源頼光の家臣・渡辺綱(953~1025年)に渡され鬼の腕を切り落とした
そして、話は時代が流れ鎌倉幕府が滅亡した後になります。
鎌倉幕府は中期から末期は執権北条氏が実権を握っていました。
この鎌倉幕府を滅ぼした重要な人物(後醍醐天皇・足利尊氏ら)の中に新田義貞という人物がいます。
新田義貞は源頼朝や足利尊氏らと同じ河内源氏の分家である新田氏の生まれです。
そして、鎌倉幕府滅亡の際に幕府の家宝となっていた鬼切安綱を手にしたのが新田義貞です。
しかし、新田義貞は足利尊氏と対立した際に、足利尊氏に味方した斯波高経(後に室町幕府管領)によって討たれて鬼切安綱は斯波家のものとなります。
足利尊氏は斯波高経の対して「足利氏は源氏の嫡流である」と言い、鬼切安綱を引き渡すように求めましたが、高経は斯波氏は足利氏と同格だと自負し要求を拒絶します。
その後、斯波高経の弟である斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)に任命され東北地方に向かう際に、高経は鬼切安綱をはなむけとして家兼に贈ります。
斯波家兼は奥州として東北を統治し、息子達にそれぞれの領地を持たせます。
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斯波直持 → 長男、大崎氏の祖
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斯波兼頼 → 次男、最上氏の祖
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斯波義宗 → 三男、天童氏の祖
そして、鬼切安綱は家兼の次男・兼頼に引き継がれ最上家の家宝となりました。
ちなみに、最上家への渡った経緯として諸説あり完全な経緯はわかっていません。
また、鬼切安綱は後の時代に売りに出されたものの、買い戻され現在は北野天満宮に奉納されています。
~最上義光と鮭のエピソード~
最上義光が生まれた山形県の食べ物で中で、現在でも県民を初め日本全国から愛されているものと言えば鮭です。
現在でも多くの人から愛されている鮭ですが、最上義光もその中の一人で鮭が大好きだったと言われています。
そのため、最上義光は「鮭様」と呼ばれていたそうです。
鮭は戦国時代では高級魚であったことから市場にはあまり出ていませんでした。
そんな高級魚の鮭を最上義光は好んでいたため、庄内地方を手に入れたときは毎日のように鮭が食べれていたのでしょう。
また、最上義光は鮭を贈り物やお土産としていろんな相手に送っています。
もしかしたら、伊達政宗や徳川家康も食べたかもしれませんね。
~最上義光と兜のエピソード~
最上義光は「三十八間金覆輪筋下兜(さんじゅうはちけんきんぷくりんすじかぶと)」という兜をかぶって戦場に出ていました。
この兜は織田信長から貰った兜としても有名です。
そんな兜が最上義光の命を救った戦いがありました。
それが「北の関ヶ原」と呼ばれる長谷堂城の戦い(別名:慶長出羽合戦)です。
この戦いの序盤は上杉軍を率いていた直江兼続に苦戦しますが、中盤にかけて伊達政宗の援軍もあり上杉軍を撃退します。
そして、最上義光は上杉軍を完全に撃破するため追撃をしますが、ここで上杉軍の後方にいた直江兼続の鉄砲隊に撃たれます。
この銃撃は最上義光の頭にあたり馬から落ちてしまいますが、兜が義光の命を守ります。
また、兜にはこの時に撃たれた銃痕が残っています。
まとめ 最上義光はどんな人?小説や大河ドラマや映画はある?
ここまで最上義光について紹介しました。
まとめてみると
- 最上義光は伊達政宗の伯父だった
- 最上義光は1代で勢力を拡大させた
- 最上義光は徳川家康とは大きな信頼関係があった
- 最上義光は戦う以外にも内政にも手腕を発揮した
最上義光に関する小説
- 『北天に楽土あり:最上義光伝』 天野純希
- 『最上義光』 伊東清郎
- 『家康に天下を獲らせた男 最上義光』 松尾剛次
大河ドラマでは
- 『独眼竜政宗』1987年 原田芳雄
があります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
以上、「最上義光の経歴や逸話をわかりやすく!伊達政宗や徳川家康との関係は?」でした。
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