上杉謙信と言えば「義」を重んじる武将として知られています。
一方、生涯の中で70回ほどの戦をしていますが、戦歴を見てみると負けたのは2回というように戦も強かったといわれています。
今回は上杉謙信について
- 上杉謙信の代表的な戦とは
- 【逸話】上杉謙信の勝ち戦と負け戦は?
- 【最強伝説】上杉謙信の強さはどれくらい?
を紹介します。
これを読めば上杉謙信の戦いや強さがわかりますよ。
ぜひ読んでみてください。
上杉謙信の代表的な戦いとは
上杉謙信の戦いとして有名なのが武田信玄との間で行われた川中島の戦いです。
川中島の戦いは約10年の間に5回行われ、中でも1番激しかったのが1561年の第四次川中島の戦いです。
この戦いのきっかけとなったのが武田信玄による北信濃への侵攻です。
上杉謙信(当時は上杉政虎)は北信濃の大名や豪族から助けを求められると川中島へ出陣します。
両軍の兵力は
- 上杉軍は1万3千人
- 武田軍は2万人
と上杉軍は劣勢でした。
この時上杉軍は川中島を見渡せる妻女山に陣を置きます。
武田軍は海津城に陣を置き両軍は睨み合います。
最初に動いたのは武田軍でした。
妻女山を奇襲するために別働隊(1万2千)を組織し午前1時頃に出陣します。
上杉謙信はこの動きを察知(海津城の狼煙の多さ)し静かに妻女山を下り八幡原に着陣します。
上杉軍は午前8時頃に動揺している武田本陣(8千)に車懸りの陣で波状攻撃をしかけました。
武田軍の鶴翼の陣によって囲まれますが、車懸りの陣で攻撃し、武田信玄の弟・武田信繁や武田家臣・山本勘助を討ち取るなど武田軍に大打撃を与えます。
車懸りの陣・・・車のタイヤのように回りながら攻撃し、次々と新しい隊が攻撃するとうい う波状攻撃型の戦術です。
しかし、午前10時頃に武田別働隊が戻ってきたため、上杉軍は劣勢になり善光寺方面へ退却し越後国へ引き上げました。
この戦いでの死傷者は
- 上杉軍が約3千
- 武田軍が約4千
と互いに大きな被害を被ります。
第四次川中島の戦いはこれだけの死傷者を出したのにも関わらず、引き分けという結果に終わりました(一説にはこの後に武田軍が北信濃を支配したことで武田軍の優勢ともいわれています)。
ちなみに、この戦いで有名な上杉謙信と武田信玄の一騎打ちは後の創作で、両軍の大将が戦うほど懇着状態だったことから、このエピソードが生まれました。
【逸話】上杉謙信の勝ち戦と負け戦は?
上杉謙信の勝ち戦:手取川の戦い
天正5年9月23日(1577年11月3日)、上杉謙信と織田信長の間で起こった戦いです。
天正2年(1574年)に能登守護・畠山義隆が亡くなると、5歳で嫡男の畠山春王丸が当主となりますが重臣の長続連(ちょうつぐつら)が実権を握ります。
上杉謙信はこれを機に2万の兵で能登国の七尾城へ侵攻します。
1度は北条氏が北関東へ進軍してきたたため越後へ帰りますが、再び長続連らが反撃してきたため、天正5年(1577年)7月に七尾城へ進軍します。
長続連は織田信長へ援軍を要請し、同年8月8日に北ノ庄城の柴田勝家が4万の軍勢で出陣してきます。
この時、七尾城では疫病によって当主の畠山春王丸が亡くなります。
上杉謙信は織田の援軍が来る前に七尾城を攻略するために動き、畠山家の家臣への寝返り工作を仕掛け、同年9月15日に七尾城を落とします。
七尾城を落とした上杉謙信でしたが、七尾城の落城によって退却していた織田軍を追撃し手取川で激突します。
この時の両軍の兵力は
- 上杉軍が約2万
- 織田軍(柴田隊)が約4万
この時の織田軍は内部分裂(柴田勝家と羽柴秀吉が対立し羽柴隊が離脱)していたためまとまりがありませんでした。
そこをついた上杉軍は次々と織田軍を倒していき織田軍を壊滅させます。
また、織田軍の中には手取川の増水で溺死した者も多くいました。
この戦いは上杉軍の勝利に終わり上杉謙信は能登を手に入れました。
しかし、手取川の戦いから6ヶ月の天正6年(1578年)3月に上杉謙信は亡くなってしまいます。
上杉謙信の負け戦:臼井城の戦い
永禄9年(1566年)、上杉謙信と千葉胤富・原胤貞の間で起こった戦いです。
永禄4年(1561年)に関東管領・上杉憲政から関東管領職を譲渡された上杉謙信は関東平定のために動きます。
永禄8年(1565年)12月頃に関東へ出兵し(第五次関東出兵)、年が変わった2月までに常陸国の小田氏を攻め小田城を開城させます。
また、3月上旬には下総(現在の千葉北部と茨城南西部)の船橋を掌握し、江戸湾での物資調達をしようとします。
そして同年3月20日、北条方の千葉胤富の家臣・原胤貞を治めていた臼井城へ攻めます。
両軍の兵力は
- 上杉軍が1万5千人
- 臼井城は2千人
と上杉軍が圧倒していました。
上杉軍は猛攻を仕掛けて臼井城の本丸以外を落とします。
この状況に臼井城城主・原胤貞は指揮権を白井胤治に譲ります。
白井胤治は占いを行い「敵の陣には殺気が立ち上がり、味方には幸運が立ち上っている」と味方を鼓舞し士気を上げました。
同年3月26日、上杉謙信は全軍に総攻撃の号令をします。
しかし、ここで白井胤治が上杉軍の意表を突き城門をすべて開けて突撃してきます。
また、北条からの援軍として来た北条家臣・松田康郷(松田の赤鬼と呼ばれた)の活躍の前に上杉軍は歯が立ちませんでした。
翌日には、前日の戦いのように敵が突撃をしてくると思っていた上杉謙信は動きませんでしたが、なかなか攻めてこないため昼過ぎに総攻撃を仕掛けます。
ですが、これを見抜いていた白井胤治は城壁を崩し上杉兵を下敷きにします。
白井胤治の前に総崩れした上杉軍は臼井城攻略をあきらめ撤退しました。
臼井城攻略に失敗したことで関東の大名や諸勢力は北条方に寝返ったため、上杉謙信は関東での動きを封じ込まれる形となりました。
【最強伝説】上杉謙信の強さはどれくらい?
上杉謙信の強さ1.若い頃から経験豊富
上杉謙信(当時は虎千代)は7歳の時に林泉寺に送られ、住職の天室光育から学問の教えを受けます。
上杉謙信は父・長尾為景から嫌われていたため避けられる形で林泉寺へ送られたと言われています。
林泉寺では学問以外にも武術を好んだり城郭模型で遊ぶなどしていました。
13歳の時に元服するとともに家督を継いだ兄・長尾晴景の命令で栃尾城に入ります。
そして15歳の時に反乱を起こした豪族を鎮圧します。
その後は
- 黒滝城の戦い 16歳
- 家督を相続 19歳
- 坂戸城の戦い 22歳
を経て22歳の時に越後を統一します。
上杉謙信は若い頃から前線で戦っていたため戦術面でとても優秀でした。
上杉謙信の強さ2.槍兵部隊
上杉軍の兵士は、武田の甲斐兵士・北条の関東兵士・徳川の三河兵士よりも強かったと言われています。
中でも上杉軍の中心となっていたのが槍兵でした。
上杉軍の6割から7割は槍兵で、槍兵が多いほど接近戦を得意としていました。
また、他の大名の軍が使っている槍兵よりも短かったため機動力にも優れていました。
他にも上杉兵が強かったのは越後国特有の田んぼにありました。
越後の田んぼは深田であったため、農作業の際に越後の人たちは足腰が鍛えられたことも強さの秘訣です。
上杉謙信の強さ3.最前線で指揮をとる
上杉謙信は最前線で戦っていたとも言われています。
普通は大将は後方から伝令の知らせを聞いて的確な指示を出しますが、上杉謙信は最前線で戦い敵の状況を見て指示を出しています。
最前線で指揮をとることによって敵よりも早く軍を動かせます。
また、敵の弱い部分を素早く見つけ出しそこを突くことで敵を倒していきました。
上杉謙信の最前線での戦いは兵士を士気を上げ勝利へ導きます。
まとめ 上杉謙信のおすすめ作品や本。大河ドラマ
ここまで上杉謙信について紹介してきましたがいかがでしたか
まとめると
- 上杉謙信は若い頃から多くの経験をした
- 上杉謙信は戦う際は最前線で戦った
- 上杉謙信は戦術面でも優れていた
オススメ作品
大河ドラマでは『天と地と』・『風林火山』などがオススメです。
本では榎本秋さんの『戦国武将の戦術論』がオススメです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
以上、「上杉謙信の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。
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