あなたは日野富子という女性をご存知でしょうか。
室町幕府8代将軍足利義政の正室であった彼女は応仁の乱のきっかけを作ったため、日本三大悪女のうちの1人されています。
日野富子とは一体、どのような女性であったのでしょうか。
今回は日本三大悪女の1人、日野富子の
- 生涯
- 性格
- 子孫
- エピソード
についてご紹介いたします。
これを読めば日野富子の生涯や性格、子孫やエピソードを知ることができますよ。
日野富子の生い立ちと生涯。家族や兄弟、子孫はいる?
日野富子の生い立ちと家族についてご紹介いたします。
日野富子は永享12年(1440年)
- 父・日野重政
- 母・従三位北小路苗子(北小路禅尼)
の娘として京都で誕生しました。
兄弟には
- 兄・日野勝光
- 妹・日野良子(足利義政の弟・足利義視の正室となる)
- 弟・日野永俊(11代将軍足利義澄の義父となる)
- 弟・日野資治(日野兼興の養子となる)
がいました。
富子の生まれた日野家は、藤原家の血を汲む由緒ある家系で、足利将軍家と縁組を結び、深い関わりを持つようになります。
- 日野栄子は4代将軍・足利義持の正室
- 日野宗子は6代将軍・足利義教の正室
- 日野重子は6代将軍・足利義教の側室(富子の大叔母)
- 日野富子は8代将軍・足利義政の正室
- 日野良子は義政の弟・足利義視の正室(富子の妹)
- 実名不詳(富子の兄・勝光の娘)は9代将軍・足利義尚の正室
- 日野阿子は11代将軍・足利義澄の正室
富子は康正元年(1455年)8月27日に16歳で足利義政の正室となります。
2人の間には
- 長禄3年(1459年)1月9日に長男
- 寛正3年(1462年)に長女
- 寛政4年(1463年)に次女
- 寛正6年(1465年)に次男・足利義尚(9代将軍)
4人の子どもが誕生しました。
そのうちの長男は誕生して間もなく亡くなっています。
早くに長男を亡くした富子にとって、後継ぎとなる次男の誕生は非常に喜ばしいものでした。
息子・義尚は後に将軍となりますが、義尚は25歳にして病気で亡くなってしまったため後継ぎとなる子供はいませんでした。
よって足利義政の子孫は断絶となります。
日野富子と足利義政。応仁の乱をわかりやすく解説経歴と生涯。最後や辞世の句はある?
日野富子は康正元年(1455年)8月27日に16歳にして、室町幕府8代将軍・足利義政の正室となります。
この時、足利義政は19歳です。
長禄3年(1459年)1月9日、2人の間に長男が誕生しますが、誕生した当日に亡くなってしまいました。
富子は長男が生まれて間もなくして命を落としたのは、夫・足利義政の乳母・今参局の祟りだと考え、乳母・今参局を琵琶湖沖島に島流しします。
夫・足利義政の乳母であった今参局は、足利義政の教育係りだけではなく、足利義政の行う政治にも口をはさみ、夫・足利義政は将軍として主導権を握ることができませんでした。
よって富子と乳母・今参局は仲が悪かったとされています。
富子は乳母を島流しするだけではなく、夫・義政の側室4人を追放しました。
かなり嫉妬深い女性であったことがわかりますね。
その後、寛正3年(1462年)とその翌年に、娘2人が誕生しますが、跡取りとなる息子はなかなか授かることはできませんでした。
寛正5年(1464年)跡取りとなる息子が誕生しなかったため夫・義政は、仏門に入り、僧侶となっていた弟・義尋を還俗させ、名前を足利義視と改名し、将軍の後継者とさせます。
この時、細川勝元が足利義視を支える後見となります。
富子にとって、後継者となる息子ができないことは非常に悔しいものでした。
しかし、夫・義政の後継者が決まった翌年の寛正6年(1465年)、念願の男の子が誕生します。
この子供は義尚と名付けられ、富子は義尚を溺愛していました。
夫・義政の後継者は義尚が誕生する前に決められていましたが、富子は自身の息子・義尚を夫・義政の後継者として擁立します。
この時、山名宗全という人物が富子の子・義尚の後見となりました。
こうして、
- 夫・義政の後継者とされている足利義視
- 夫・義政の後継者として義尚を擁立を目論む日野富子と、日野家
が後継者の座を巡って対立関係となりました。
この次期将軍を巡る後継者争いに
- 管領家であった畠山氏の家督争い
- 細川勝元と山名宗全の幕府内での主導権争い
が絡み合うこととなり、応仁の乱が勃発しました。
つまり応仁の乱とは
- 将軍継嗣問題
- 畠山氏の家督争い
- 幕府内における細川勝元と山名宗全と主導権争い
からなっているということです。
文正元年(1466年)12月に応仁の乱は始まり、文明9年(1477年)11月20日に終結を迎えたとされています。
11年にも及ぶ長い戦いであったのです。
応仁の乱をわかりやすく解説
応仁の乱の原因となったのは
- 将軍継嗣問題
- 畠山氏の家督争い
- 幕府内における細川勝元と山名宗全と主導権争い
です。
長く続いた応仁の乱の原因を時系列でわかりやすく解説していきます。
1.畠山氏の家督争い
応仁の乱が勃発する26年前、当時の将軍は足利義教でした。
将軍職の力を強化していた足利義教は守護大名の権力を無力化させます。
これに対し、室町幕府侍所頭人・赤松満祐が足利義教を暗殺するといった事件が起こります。
この時、将軍・足利義教に隠居させられていた管領・畠山持国は足利義教が亡くなったことによって管領職に復帰し、足利義教に失脚されていた大名たちも、足利義教が亡くなったことを機に、復職となりました。
管領職・畠山持国は自身の跡取りとなる息子がおらず、仕方なく、自身の弟・畠山持富を後継者としていました。
しかし、息子・畠山義就が誕生したため自身の息子・畠山義就を後継者として擁立させようとします。
ですが、畠山氏の重臣たちは、このことに納得せず、弟・畠山持富の息子・畠山政久を擁立させました。
これに怒った畠山持国は重臣の1人、神保国宗を殺害します。
重臣を殺害した畠山持国でしたが、
- 細川勝元
- 山名宗全
- 畠山氏の家臣
などが、畠山持国の弟・畠山持富に味方したため、
- 畠山持国は隠居
- 畠山持国の息子は京都から追放
となります。
この間、細川勝元の下にいた畠山政久は畠山持国の屋敷を襲撃していました。
この畠山持国を匿っていた細川勝元の部下はこの頃、将軍となっていた富子の夫・足利義政に処刑を命じられました。
しかし山名宗全は、処刑を命じた足利義政と、処刑を受け入れた細川勝元に猛反発します。
これに対し、将軍・足利義政は、山名宗全を但馬国で隠居させる処分としました。
山名宗全が京都を出て但馬国で隠居を始めた頃、京都では、追放処分を受けていた畠山持国の息子・畠山義就が挙兵し、父・畠山持国が亡くなったため、畠山氏の家督を相続します。
家督を相続した畠山義就は京都にいる畠山持富の子・政久派の勢力の討伐を行いました。
2.山名宗全と細川勝元の対立
しかし、勢いのあまり、細川勝元の領地にも攻撃してしまったため家督争いの際、見方をしていた細川勝元が怒り畠山持富の子・政久に味方しました。
これに対し、畠山義就は山名宗全を頼ることとなり
- 細川勝元と畠山政久
- 山名宗全と畠山義就
の対立関係が生まれることとなりますが、畠山義就は京都から追放処分となり吉野へと逃げます。
畠山政久が亡くなると寛正元年(1460年)9月20日、弟・畠山政長が後を継ぎました。
3.将軍継嗣問題
畠山氏の家督を争っている時、将軍家内でも家督争いが勃発していました。
- 日野富子とその息子・足利義尚、日野家
- 夫・足利義政の弟・足利義視
が夫・足利義政の後継者を巡って争っていました。
この対立で、富子は細川勝元と対立関係であった山名宗全に援助を求めます。
これによって細川勝元と山名宗全の間で対立関係が深まることとなりました。
応仁の乱の勃発
文正元年(1466年)12月、吉野に逃れていた畠山義就が軍を率いて上洛します。
この上洛には将軍・義政の政治をよく思っていなかった山名宗全や斯波義廉が関わっていたとされています。
将軍・義政は、軍事的圧力に負け、人事において実質、山名宗全が権力を持つこととなります。
これに対し、山名宗全と対立関係であった細川勝元は各地から兵を集め
- 東軍・細川勝元、足利義政、斯波義敏ら
- 西軍・山名宗全、足利義視、吉良義藤ら
の争いが始まりました。
応仁の乱における日野富子の行動
この戦いの際、東軍であった日野富子は、東軍、西軍の両軍に金の貸付を行うことに精を出していました。
金の貸し付けを行っていた富子の資産は現在の価値になおすと総額70億もあったとされています。
文明3年(1471年)頃、応仁の乱の戦から逃げるため、京都市内にある足利将軍家の邸宅、花の御所に逃げ込んでいた後土御門天皇と富子の男女関係の噂が流れます。
実際は、後土御門天皇が富子の侍女に手を付けたということであったのですが、このような噂が流れるということは、富子と夫・義政の関係は冷え込んでいたということです。
文明5年(1473年)西軍の山名宗全、東軍の細川勝元が亡くなると、両軍の間で和睦交渉が始まります。
同年12月19日、夫・足利義政が息子・義尚に将軍職を譲り9代将軍に就任となり、兄・日野勝光が新将軍代となりました。
この頃になると夫・義政は政治に関心を示さず、小河御所を建設し、1人で移り住み別居生活となります。
文明8年(1476年)に新将軍であった兄・日野勝光がが亡くなったため、富子は幕府の実質的な指導者となりました。
同年11月に、自宅が焼失したため、夫・義政のいる小河御所に移りましたが、文明13年(1481年)になると、夫・義政は長谷聖護院の山荘に移り住んでしまったため、また別居生活となります。
応仁の乱の終結後
文明9年(1477年)京都から、西軍が撤退するとようやく応仁の乱は終結となりました。
応仁の乱以降、戦地で崩壊となった内裏の修復費や諸祭礼の費用を集めるため関所が設置されます。
しかし、富子はこの資金を自分のものにしたため、民は怒り文明12年(1480年)に徳政一揆を起こし、関所は破壊されました。
将軍となった富子の息子・義尚は成長するにつれ、富子を避けるようになり文明15年(1483年)になると、富子を置いて1人で伊勢貞宗邸に移り住みました。
応仁の乱のきっかけをつくり、また父とは別居、修復費を奪った母親ですので、避ける理由もわかります。
将軍の息子が伊勢貞宗邸に移ったことで、一時権力を失うこととなりました。
延徳元年(1489年)溺愛していた息子・義尚が病気で25歳にして亡くなります。
悲しみにくれた富子でしたが、自身の妹である日野良子と足利義視の息子・足利義材を将軍として擁立することを考え、夫・義政と協議しました。
その結果、延徳2年(1490年)正月に夫・義政が亡くなると足利義材が10代将軍となります。
足利義材の後見となったのは、足利義材の父・足利義視です。
この時、すでに富子の出番はなかったのですが、それでも権力を持ち続けようとする富子に対し、足利義視は怒り、富子の邸宅である小河邸を破壊します。
翌年、足利義視が亡くなったため足利義材は親政を開始しましたが、この時も富子は口出ししたため、足利義材と対立関係となりました。
明応2年(1493年)足利義材が出征し京都にいないことを機に、富子は細川勝元の息子・細川政元と共にクーデターを起こします。
このクーデターは明応の政変と呼ばれ、富子は足利義材を廃し、夫・義政の甥・堀越公方足利政知の息子・足利義澄を11代将軍に就任させました。
その3年後の明応5年(1496年)富子は57歳で亡くなります。
辞世の句は残されていません。
最後の最後まで権力を持ち続けようとした富子でした。
【エピソード】日野富子の人柄や性格が分かる逸話
庶民から嫌われていた富子
富子は約70億円の資産を持っていたとされています。
応仁の乱の最中、両軍から金の貸付を行っていた富子は、戦乱で苦しむ民を置いて巨万の富を築いていました。
また応仁の乱の後、
- 夫・義政が造営していた東山山荘には一銭も資金援助を行わなかったのに対し、応仁の乱の後の御所の修復には多額の資金を出した。
- 民から集めた内裏の修復費や諸祭礼の費用を懐に入れていた
などから庶民からはとても嫌われ
- 「天下の悪妻」
- 「守銭奴」
と呼ばました。
応仁の乱で一番の被害者となったのは、応仁の乱に巻き込まれた庶民です。
このような富子の態度に怒るのも当然です。
家族仲に恵まれなかった
夫・義政との間に4人の子どもが誕生していますが、
- 応仁の乱の最中、富子と後土御門天皇の男女関係が噂されるほど、仲は冷え込んでいた
- 夫・義政が小河御所を建設すると1人で移り住み、別居生活となる
- 富子の邸宅が火災で崩壊したため夫のいる小河御所に移るも、夫・義政は長谷聖護院の山荘に1人で移り住む(2度目の別居)
- 溺愛していた息子・義尚からは避けられるようになり、富子を置いて伊勢貞宗邸に移り住む
また
- 夫・義政の弟・足利義視とは後継者争いがあったため不仲であった
- 足利義視の息子で将軍となった足利義材からも嫌われる
など、富子はあまり家族仲に恵まれませんでした。
最期まで権力を持ち続けようとしていた富子ですので、相当気の強い女性であったことが分かります。
まとめ 日野富子の漫画、小説、ドラマはある?
日野富子の生涯と性格、エピソードや応仁の乱のご紹介でした。
簡単にまとめると
- 応仁の乱のきっかけをつくった女性であった
- 庶民からは嫌われ「天下の悪妻」「守銭奴」と称されていた
- 家族仲に恵まれなかった
- 気の強い性格の持ち主であった
日野富子の生涯を見てみると、後継者争いや金儲け、権力を持ち続けることに対し、力を注いだ女性であることが分かります。
悪女と称される富子でしたが、室町幕府の財政を賄っていた一面もありました。
そんな日野富子が登場する有名な大河ドラマは「花の乱」です。
この作品で
- 日野富子を女優の松たか子さん、三田佳子さん
- 足利義政を歌舞伎役者の市川海老蔵さん、市川團十郎さん
- 足利義尚を俳優の松岡昌宏さん
が演じられました。
その他に、日野富子が登場する作品として
- 司馬遼太郎さんの小説『妖怪』
- 瀬戸内晴美さんの小説『幻花』
- 永井路子さんの小説『銀の館』
- 藤田素子さんの漫画『日野富子』
などがあります。
これを機に、日野富子に興味を持った方は大河ドラマ「花の乱」や司馬遼太郎さんの小説『妖怪』、藤田素子さんの漫画『日野富子』を手に取ってみてください。
以上「日野富子の性格と生涯のエピソード。生い立ちや子孫」のご紹介でした。
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