キング牧師の性格と経歴の代表作は?生い立ちとエピソードが面白い

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアという人をご存知ですか?

「キング牧師」の名前の方が有名なので、「キング牧師という人をご存知ですが?」と聞かれたらピンと来る人が多いでしょう。

最近では、英語の教科書に彼の有名な演説『I have a dream(私には夢がある)』の一部が載せられています。歴史上の人物という印象よりも、この演説をした人という印象が強い人もいます。

では、キング牧師はどんな人生を送り、何のためにあの有名な演説をしたのでしょう?

今回はキング牧師について、

  • キング牧師の生い立ちと年表は?
  • キング牧師の経歴と生涯。死因と最期は?
  • キング牧師の演説と思想。公民権運動とのかかわり。
  • 【逸話】キング牧師の性格が分かる面白いエピソード
  • まとめ キング牧師はどんな人?おすすめ入門本は?

を紹介します。

これを読めば、キング牧師の生涯や思想、意外な一面を知ることが出来ます。

キング牧師のことを詳しく知らない方はもちろん、キング牧師についてある程度の知識がある方にも、改めてキング牧師のことを知ることが出来る内容になってます。

ぜひ、ご覧下さい!

 

参考文献

キング牧師
『キング牧師 : 人種の平等と人間愛を求めて』 著:辻内鏡人、中絛献 出版:岩波書店
『はじめてのキング牧師』 著:R. バロウ 訳:山下 慶親 出版:教文館

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キング牧師の生い立ちと年表は?

キング牧師は20世紀中頃に生きた人物です。

具体的には、

  • 1929年1月15日、アメリカのジョージア州アトランタのアフリカ系アメリカ人の家庭に生まれる
  • 1968年4月4日、アメリカのテネシー州メンフィスのホテルで暗殺される

39年の人生を生きました。

「アメリカは分かるけど、ジョージア州やテネシー州ってどこか分からない」と言う人は、下の地図を見て下さい。これから沢山のアメリカの地名が出てくるので、この地図を参照しながら読むという分かりやすいです。

(参照:コトバンク 南北戦争https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89-108979)

これは、1860年代のアメリカの地図です。

「あれ?キング牧師って1900年代の人だよ?地図の時代間違ってるじゃん!」と思った人、鋭いですね。

時代は違いますが、この地図の方がこれから書かれていることを理解するためにちょうど良いんです。

先ほど少し触れましたが、キング牧師はアフリカ系アメリカ人として生まれました。つまり、昔の言い方で黒人と呼ばれていた人です。

アメリカでは、アフリカ系の人々に対して、今でも根強い差別があります。

では、何故アフリカ系の人々はアメリカで差別されるのでしょうか?

その理由は、アフリカ系の人々は、アメリカで奴隷として扱われていた歴史があるからです。

  • 1492年、コロンブスがアメリカに到着する。その後、主にヨーロッパの人々(いわゆる白人)がアメリカ大陸に移住する。
  • 彼らは、広大な大陸で田畑を開発するために、当初はネイティブアメリカンの人々を働かせていた。
  • しかし、ヨーロッパから持ち込まれた天然痘やチフスなどの病気の免疫が当時のネイティブアメリカンの人々にはなく、病気と重労働のため、次々と亡くなってしまった。
  • 労働者不足になって困った白人たちは、1619年頃からアフリカの人々を捕まえてアメリカに連れて来た。
  • アフリカの人々は、アメリカで奴隷として売り買いされ、白人の主人の元で強制的に働かされた。
  • 奴隷としてアメリカに連れて来られたアフリカの人々の子どもたちも、代々奴隷として扱われた。

簡単にまとめると、こういう歴史がありました。

1860年代の時点で、アフリカ系アメリカ人はヨーロッパ系アメリカ人(いわゆる白人のこと)からは物として扱われており、そもそも同じ人間と思われていなかったのです。

この風潮に最初の変化が起きるのが、1861年〜1865年に勃発した「南北戦争」の時でした。

ここで地図を見て下さい。当時のアメリカは、主に

  • 北部…田畑にできる土地が少なかったため、工業を主な産業にして都市を発展させた
  • 南部…肥沃な土地がたくさんあり、プランテーションという農園で、綿や作物をたくさん作り、輸出していた

はっきりとした産業の違いがありました。そのため、

  • 北部…奴隷を使う必要がなく、奴隷制度に疑問を持つ人々が少しずつ現れ始めた
  • 南部…奴隷を労働力として使わないと、産業が成り立たない

意識の差が生まれ、

  • 北部を支持基盤とする共和党は奴隷制度反対
  • 南部を支持基盤とする民主党は奴隷制度賛成

という政治的な対立にまで発展しました。

そんな状況の1861年3月4日に、共和党のエイブラハム・リンカーンがアメリカ大統領に選出されます。

奴隷制度を廃止させられるのではないかと恐れた南部の州は、なんと南部の一部の州を除いて『アメリカ連合国』を作って独立宣言をします。さらに、自分たちで新たに首都を定め、大統領も決めてしまいました。

ここで地図を見て下さい。

緑で塗られている州が、この時にアメリカ連合国として独立を宣言した地域です。

アメリカ連合国の独立を認めなかったリンカーン大統領は、南部の州に宣戦布告をします。これが、

  • 北部…合衆国(自由)諸州、準州
  • 南部…合衆国(奴隷)諸州、南部連合諸州

が対立したアメリカ史上唯一の内戦「南北戦争」です。これ、テストに必ず出る用語なので、この際覚えて下さい!

さて、話は逸れましたが、この南北戦争では北部が勝利し、奴隷制度は廃止されました。

しかし、元々アメリカ連合国に属していた州で、アフリカ系アメリカ人への差別がすぐに無くなったのかというと、残念ながらそうではありませんでした。というより、「奴隷は人間ではない。」と思っていたヨーロッパ系アメリカ人たちが、「今日から奴隷制度は禁止されたので、アフリカ系アメリカ人も同じ国の国民として扱いなさい」と言われて「はい、そうですか。」とすぐに変わる方がビックリですよね。

しかし、その差別意識は、なんとキング牧師が生まれる1920年代まで残っていたんです!そんなに長く残っているのも驚きですよね?

実は、驚くのはまだ早いんです!

キング牧師が生まれた頃、南部では

  • 鉄道や学校、プール、映画館では、白人と黒人で使える施設を分ける
  • もしも黒人が白人の施設に無断で入ったら、裁判にかけられて有罪にされる
  • バスでは白人専用席と黒人専用席が分けられているが、バスが込み始めたら、黒人の乗客は白人の乗客に席を譲って立たなければいけない
  • 黒人の定義は、先祖に1人でも黒人がいて、1滴でも黒人の血が流れていたら黒人とみなす

という内容の州法が、南部のあらゆる州で定められていました。この州法は、まとめて「ジム・クロウ法」と呼ばれます。

もう黒人の定義から「どうなってるの?」と首を傾げたくなる基準ですよね。

ちなみにこの州法は、日本人を含むアジア系の人々も対象になっていたため、私たちにとっても他人事ではないんです!ヨーロッパ系アメリカ人からそんなに嫌われるようなことをした覚えはないんですけどね…。

実際には、奴隷として連れて来られたアフリカ系アメリカ人の子孫の人数の方が、19世紀頃から増え始めたアジア系アメリカ人の移民の人数よりも多く、差別される対象のほとんどはアフリカ系アメリカ人でした。

キング牧師が生まれたのは、ジム・クロウ法を含めた人種差別が激しいジョージア州の州都・アトランタです。

牧師の父であるマーティン・ルーサー・キングと母のアルバータ・クリスティーン、2歳年上の姉のウィリー・クリスティーン、1歳年下の弟のアルフレッド・ダニエルという5人家族の長男として誕生します。父方と母方の先祖はどちらも奴隷でしたが、キング牧師が生まれた時には、裕福な中流家庭になっていました。

キング牧師の父親は、小作人をしていた貧しい解放奴隷の息子でした。

その頃、貧しい家庭の子どもが貧困から抜け出すための道の一つに、牧師になるという方法がありました。優秀な成績さえ修めれば、牧師になるためのお金を支援してもらえて、就職先もアメリカ全土の教会にあったからです。

そのため、キング牧師の父親は

  • 働きながら夜間制高校に通い、アトランタのモアハウス大学を卒業して、地元のジョージア州で牧師をしていた
  • そこで出会った他の牧師の娘が、キング牧師の母親であるアルバータ・クリスティーンだった
  • 牧師の仕事をしながら、人種差別に抗議するための協会を設立し、指導した

途轍もない努力をしたのです。すごい人ですね。

また母親のアルバータは、子どもの時のキング牧師が黒人だからという理由で差別を受けて落ち込んでいた時、「あなたは黒人だからというだけで悪い人になる訳がない。」と言い聞かせました。その上で、「自分を差別した人を憎んではいけない。全ての白人が黒人を差別しているのではないのだから、あなたも白人だからという理由だけで、他の人に憎しみを向けてはいけない。」と何度も教えました。出来た母親ですね!

この人種差別に抗議する運動をしていた父親の態度と考え方、母親の他人に憎しみを抱いてはいけないという教えは、後のキング牧師に大きな影響を与えます。

キング牧師は、成績優秀な子どもで、9年生(日本だと中学3年生)と12年生(日本だと高校3年生)を飛び級しています。

彼は高校生の時まで、自分は父親と同じ牧師にはならないと思っていました。

しかし、15歳になる1944年に、父親が卒業したモアハウス大学に入学すると、宗教を通じて人種差別が行われている社会を変えることが出来るかもしれないと、考えが変わりました。そこでキング牧師は、ボストン大学大学院神学部、ペンシルベニア州のクローザー神学校を25歳で卒業すると、南部に属するアラバマ州のモンゴメリという町で牧師になりました。

また、キング牧師はボストン大学に在籍していた時に同じアフリカ系アメリカ人であるコレッタ・スコットという女性に出会い、1953年6月18日に結婚していました。モンゴメリはアフリカ系アメリカ人へのコレッタも、キング牧師と一緒にジョージア州に行っています。

アラバマ州に戻ったキング牧師は、いくつかの出来事を通して、次第に人種差別に抗議する公民権運動の指導者となりますが、その出来事とは何だったのかを見ていきましょう!

キング牧師の経歴と生涯。死因と最期は?

さて、牧師としてアラバマ州モンゴメリに赴任したキング牧師ですが、意外にもすぐに人種差別に抗議して、アフリカ系アメリカ人にも人権を保障するための公民権運動を行った訳ではありませんでした。

キング牧師はあくまで牧師であり、モンゴメリに来た時には、教会で人々に神の教えを説くことを主な仕事としていたのです。

一方、モンゴメリに住むアフリカ系アメリカ人、特に女性たちは、通称「ジム・クロウ法」と呼ばれる人種隔離条例にウンザリしていました。そのため、

  • 1951年に、アラバマ州立大学の教員のメアリ・フェア・バークスを中心としたアフリカ系アメリカ人女性で構成される女性政治協議会(WPC)を設立した
  • WPCは、アフリカ系アメリカ人女性が人種隔離条例によって何らかの人権侵害を受けた時に、多くの人々を公民権運動に動員することが出来る組織だった
  • 一方で牧師を始めとする聖職者たちは、トラブルの元になる公民権運動には参加したがらなかった
  • しかし、農民出身の牧師であるヴァーノン・ジョンズは、周囲から風変わりと見なされながらも、亡くなるまで公民権運動に参加した

など、キング牧師がモンゴメリに来る前から、人権隔離政策への抗議活動や公民権運動の先駆けになる活動を行っていました。

そして1955年12月、公民権運動の歴史に残る事件が起きます。

  • アフリカ系アメリカ人のローザ・パークスは、デパートで裁縫師の仕事を終えた後、バスで帰路に着いた
  • バスが混み、運転手が彼女に、ヨーロッパ系アメリカ人の乗客に席を譲るようにと指示した
  • ローザは過去に何度も同じことを指示されて内心ウンザリしていたため、運転手の指示を拒否した
  • すると運転手は警察に連絡し、ローザは逮捕された
  • それまで、アフリカ系アメリカ人女性がバスで運転手の指示を拒否して逮捕されたことは何度もあり、その度にアフリカ系アメリカ人たちは怒りと屈辱を感じていた
  • 公民権運動に熱心に参加していたローザの逮捕は忽ち彼女の仲間に伝わり、WPCを始めとする組織的な1日バス・ボイコットが行われることになった

「モンゴメリ事件」や「バス・ボイコット事件」と呼ばれるこの出来事を皮切りに、それまで溜まっていたアフリカ系アメリカ人たちの不満が一気に爆発しました。

しかし、彼らはバスをボイコットするという暴力を使わない方法で、抗議をしようとしたのです。

彼らは地元の有力な15人の牧師たちにも参加を呼びかけ、その中には赴任して1年しか経っていなかったキング牧師も含まれていました。

呼びかけに応じたキング牧師は、

  • バス・ボイコットのリーダーシップを取り、バスをボイコットした市民を車に乗せて送迎した
  • バス人種隔離法は違憲ではないかと他の人々と共に連邦訴訟に訴え、1956年6月5日に違憲判決を勝ち取った

など、公民権運動の中心的な役割を果たします。

この時果たした役割をきっかけに、キング牧師は公民権運動の指導者と見なされていきます。本人は指導者になるつもりは最初からなかったのですが、牧師として正義を人々に説く延長線上で、公民権運動の指導者としても動くことに決めました。

一方、バス・ボイコット事件ではアフリカ系アメリカ人の子どもや若者の多くが自主的にボイコットに参加しました。中には10代前半の子どもたちもいました。

さらに、アフリカ系アメリカ人を中心とした学生たちは、飲食店の白人専用席に数人で座り込む「シット・イン活動」と、アフリカ系アメリカ人とヨーロッパ系アメリカ人が一緒の車両に乗る「フリーダム・ライド」をあらゆる場所で始めます。

また、自主的に学生非暴力調整委員会(SNCC)を組織し、そのメンバーには人種差別に反対するヨーロッパ系アメリカ人の学生も含まれていました。彼らは自分たちの人権のためではなく、学友たちの人権を守るために活動することを選んだ学生でした。

友達と言っても自分が危険なことに巻き込まれるかもしれないのに、ここまでしてくれる友達っていないですよね。本当にいい子たちだなって思います。私も見習いたい姿勢です!

これらの若者の姿を見たキング牧師は感銘を受け、SNCCに声援と支援を送りました。人種差別に耐えることしかしない大人よりも、自分たちの未来での自由のために戦う若者の力が公民権運動には不可欠だと考えたのです。

キング牧師自身も、1957年2月に、公民権運動を南部で拡大させるための組織として南部キリスト教指導者会議を結成し、公民権運動に本腰を入れ始めていた時期でした。

自分が望んでいないのに周囲から指導者と見なされて、ここまで本格的に活動することができるキング牧師ってすごい人ですよね〜。

公民権運動が盛り上がってきた1960年代初頭、アラバマ州のバーミングハムという町では、人種隔離政策が激しく、アフリカ系アメリカ人は人種差別主義者(白人が一番良い人種だと考える人々のこと)が起こした爆破テロなどの犠牲者になっていました。

キング牧師は1963年から、バーミングハムで人種隔離政策の撤廃を求めるキャンペーンを実施しました。具体的には、街中をプラカードを持った人々が行進したのです。その中には、大人だけでなくたくさんの子どもたちも自主的に参加しており、参加者には1人だけで参加した8歳の少女もいました。

白人警察官たちは、無抵抗の人々に警察犬をけしかけたり、催涙スプレーを吹きかけたりしながら拘束しました。その様子はテレビによって映像で撮影され、なんと全世界で配信されたのです!

この時、キング牧師を含めて多くの大人と子どもが捕まりましたが、こんなことが全世界に配信されてバーミングハムのお偉いさんたちに何の圧力もない訳がありません。

バーミングハムは、キング牧師とSNCCを受け入れるしかありませんでした。

他にもキング牧師とSNCCは、

  • 1963年8月15日にワシントンで大行進を行い、そこでキング牧師は有名な「I have a dream」の演説を行う
  • バーミングハムよりも人権差別が酷かったミシシッピ州でも、公民権運動を行う
  • アフリカ系アメリカ人が選挙権を持つための登録が妨害なく行われるように支援する

など積極的に活動します。

その働きが認められ、1964年12月10日にキング牧師はノーベル平和賞を受賞しました。

さらに、それまでの公民権運動が功を奏し、1965年に生活上の様々な人種差別を禁止する公民権法に、当時のリンドン・ジョンソン大統領が署名をしたのです!

これは、奴隷から解放された後もアフリカ系アメリカ人たちが奪われていた基本的人権が、彼らの手の中に戻って来たことを意味しています。

公民権法という結果を出したことで、キング牧師は1960年代の公民権運動における伝説的な人物と見なされました。

しかし、公民権運動の指導者として有名になるということは、人種差別主義者たちから命を狙われることを意味しています。

1958年、キング牧師は1度暗殺されかけましたが、この時は瀕死の状態から助かっています。

しかし、1968年4月4日、2度目に降りかかった暗殺事件では、銃弾が頭の右側を貫通し、キング牧師は命を落としました。この時の暗殺犯は、公民権運動に不満を持っていた貧困層の白人男性・ジェームズ・アール・レイでした。

キング牧師の早すぎる死は、アメリカだけでなく、世界中の人々を悲しませました。

キング牧師の演説と思想。公民権運動とのかかわり

キング牧師は39歳という若さでこの世を去りましたが、彼が公民権運動の中で示した思想は、後世の人種差別に立ち向かう人々にも影響を与えました。また、彼の演説は、日本の英語の教科書に載るほど有名です。

ここでは、そんなキング牧師の演説やどんな思想を持っていたのかを見ていきましょう!

キング牧師は元々、キリスト教の牧師でした。そのため、公民権運動では

  • 「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい。」という教えに従い、「非暴力抵抗」「受動的抵抗」を念頭に置いた
  • 「罪」についての教えから、完全に善良な人間はいないこと、誰でも間違いを犯すのが人間だと考えていた
  • そのため、「自分に対して暴力を振るう人を憎むのではなく、人間として愛しなさい。」と支持者たちに説いた
  • 暴力を使わずに抵抗する姿は、アメリカの人種差別だけではなく、世界中の差別や貧困、紛争を良い方向に変える力にもなる

姿勢を見せていました。

キング牧師は、アメリカの人種差別だけではなく、世界中を良い方向に変える思想は何なのかを生涯を通じてずっと考えていました。そのために必要な考え方を、他の人から謙虚に教わることもありました。

キング牧師が教えを乞うた考え方の代表的なものが、ガンディーの非暴力思想でした。

  • 公民権運動を始めた当初、キング牧師は家族の安全のため、自宅の周りに警備員を配置していた
  • ある日、キング牧師の自宅を訪れたベイヤード・ラスティンは、ガンディー的非暴力理論について詳しい人物だった
  • 彼はキング牧師に、「非暴力抵抗を行うなら、指導者であるあなたが自宅の周辺に警備を置くのは、かえって危険なのではないか。もし自宅を襲撃した人に武力で対抗することがあって、それが支持者たちに伝わったら、あなたの非暴力抵抗は説得力がない物になってしまうよ。」と警告した
  • それまで自宅周辺に警備員を置くことは、身の安全を守るために当然のことだと受け入れていたキング牧師は、ラスティンの言葉で初めて、自分が武力を持っていることに気づいた
  • そこで、ガンディーの非暴力理論を学ぶために、インドまで行ってガンディーの思想や行動を学んだ

キング牧師が、ガンディー的非暴力理論を取り入れたのには、このような経緯がありました。

さらに、キング牧師は帰国してから、ガンディーの思想をアメリカの公民権運動に合わせた形に直して実践していきます。

具体的には、

  • ガンディーは非暴力抵抗運動の前に、宗教的な理由から数日間の断食を行ったが、キング牧師は行わなかった
  • 組織的な「シット・イン」や「フリーダム・ライド」、行進を行う前には、参加者たちを集めて、途中で暴力を振舞われても抵抗しないということの具体例を示した
  • 暴力に抵抗しないという具体例を教えられた参加者たちは、自分が出来そうだと思ったら、誓約書類にサインをして参加を認められた
  • もしも自分が出来なさそうだと思ったら、誓約書類にサインをすることも、活動に参加することも許可されなかった
  • その代わり、事務的な手続きなど、表に出ない活動に参加することは出来た

などを行い、支持者たちには非暴力抵抗を徹底させました。

キング牧師は自分にない考え方に出くわして感銘を受けたら、教えを乞いに国境線すら飛び越える人物だったのです。

謙虚で頭が良い人しかこんなこと出来ませんよね。私が同じ立場になったら(一生ないとは思いますけど)、同じことは出来ないし、しようと思うかどうかも怪しいですね。

また、先ほど少し触れましたが、キング牧師は子どもや若者が公民権運動に参加することを喜び、快く迎え入れていました。

彼らの親や周りの大人たちは当然、心配するから参加を辞めさせようとします。それでも大人に黙って参加している子どもを見つけたら、保護者に連絡をして、もしも本人が参加することを望んでいたら責任を持って預かっていました。

子どもの意志を尊重するなんて、素敵な大人ですね!

それに、子どもって意外と大人が思うよりも色んなことを考えて生きてるんですよ。「子どもだからどうせ分からない」と下に見るのではなく、1人の人間として見ていたキング牧師は、そのことを分かっていたのかもしれません。

また、キング牧師には3人の子どもがいましたが、公民権運動の指導者である彼は家を空けることが多く、子どもたちと多くの時間を一緒に過ごすことが出来ないことを悲しんでいました。

それでもキング牧師が公民権運動を辞めなかったのは、子どもたちが未来で悲しい思いをしないように、自分が世界を良い方向へ変えようと決心していたからです。公民権運動に自主的に参加する子どもたちは、キング牧師の子どもたちと同じ世界を生きることになる子どもたちです。キング牧師は、彼らの姿に自分の子どもたちの姿と未来を重ねて見ていたのでしょう。

父親の大きな愛情ですよね!子どもたちのために本気で世界を変えようとしたんですから!

そんな彼の子どもたちへの想いは、有名な演説である「I have a dream」にも込められています。

今までの記事の内容を念頭に置いて、もう1度演説を聞き直してみて下さい。今までとは違った想いが込み上げてきます!

【逸話】キング牧師の性格がわかる面白いエピソード

さて、アメリカの公民権運動を代表するキング牧師は、

  • 子どもの時から頭が良かった
  • 演説が上手かった
  • 正義のために戦った

人というイメージが浮かぶ方が多いのではないでしょうか?

実はその他にも

  • 繊細
  • 行動する前に慎重に考え込む
  • 音楽鑑賞が好きだった
  • 喫煙に厳しいキリスト教の牧師でありながら、喫煙者だった

という意外な一面もありました。

というのも

  • 12歳の時に、大好きだった母方の祖母ジェニー・セレスト・ウィリアムズが亡くなり、ショックのあまり家の2階から飛び降りる自殺未遂をした(軽傷で済みました)。
  • 暗殺された時は39歳だったが、公民権運動の指導者の立場からくる長年のストレスから、心臓の年齢は60代になっていたことが死後に判明した。
  • 「モンゴメリ事件」の抗議活動に参加してほしいと電話で依頼された時、キング牧師は3番目に電話を受けた牧師だったが、「そんな抗議活動をして本当に大丈夫なの?」と心配した最初の牧師だった。しかも「返事を考えるための時間がほしい」と言って、その日のうちに再度電話を受けて「参加する」と返事をした。
  • 親友にはミュージシャンのベン・ブランチがおり、暗殺された時の最後の言葉は、自分の葬式の時にベン・ブランチに演奏してほしいという内容のものだった。
  • キング牧師は牧師であるにも関わらず喫煙者だった。しかし、そのことを周囲に隠していたことを一部の人は知っていた。そのため暗殺時、キング牧師が病院に搬送される前に、こっそり彼の煙草を衣服から抜き取った人がいた。

という信じられないような出来事もあったからです。

繊細なのに、よく公民権運動をここまで引っ張りましたね…。

音楽鑑賞が好きなのはまあ分かりますが、聖職者なのに喫煙者って…。相当ストレスが溜まってたんでしょうか?

慎重すぎるのも、頭が良い故なんでしょうね。

とにかく、まるで預言者や救世主みたいに扱われることが多いキング牧師ですが、こういう人間らしいところもちゃんとあったのです!

そう考えると、何だか身近に感じませんか?

まとめ キング牧師はどんな人?おすすめ入門本は?

キング牧師の性格と経歴・生い立ち、面白いエピソードについて紹介しました。

最後に、キング牧師について簡単にまとめておきます!

  • 1960年代のアメリカで活躍した公民権運動の指導者であり、本職は教会の牧師だった
  • 「平和な世界を創るためにはどうしたら良いか?」という疑問を常に考えて、他に人に教えを乞いに行くこともある謙虚な人だった
  • 子どもたちに対してとても優しかった
  • 演説が上手かった
  • 頭が良くて、行動する前によく考え込む慎重な性格
  • 繊細で、音楽鑑賞が趣味だった
  • その代わりに強いストレスがかかったため、煙草を吸っており、心臓にも負担がかかっていた

キング牧師はただ無抵抗運動でアフリカ系アメリカ人の人権を取り戻しただけでなく、無理をしてまで子どもたちに平和な世界を残そうとした人だったんですね!

こんなキング牧師のことを知ったら、私たちも「仕方がない」と諦めずに、世の中を良い方向に変えるために努力しようと思えるようになります。

この記事を読んで、「キング牧師のことを、自分で調べてみたい。もっと知りたい!」と思った方には、

  • 『キング牧師 : 人種の平等と人間愛を求めて』 作:辻内鏡人、中絛献 出版:岩波書店
  • 『キング牧師―黒人差別に対してたたかった、アメリカの偉大な非暴力主義の指導者 (伝記 世界を変えた人々) 』 作:V. シュローデト、P. ブラウン 訳:松村 佐知子 出版:偕成社

をお薦めします。

どちらもあまり分厚くなく、サラッと読める分量の伝記です。

また、

  • 『CD付 I Have a Dream! 生声で聴け!世界を変えたキング牧師のスピーチ【日英対訳】』 作:山久瀬洋二 出版:IBCパブリッシング

も、英語の勉強を兼ねて読むのにぴったりです。

ぜひ、英語の教材としてだけでなく、人間としてのキング牧師に触れてみて下さい。

以上、「キング牧師の性格と経歴・生い立ち、面白いエピソード」でした!

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