京極高次の性格や逸話の人物像は?関ヶ原やお初とのいい話

あなたは京極高次という戦国武将をご存知でしょうか。

浅井三姉妹のうちの1人である浅井初と結婚した人物です。

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では俳優の斎藤工さんが演じられ、ご存知の方も多いかもしれません。

京極高次は出世した際、妻・初(信長の妹・市の娘)や妹・竜子(秀吉の側室)のおかげで出世できたと噂され「蛍大名」と呼ばれました。

では京極高次という人物は一体どのような人物であったのでしょうか。

今回は

  • 生い立ち
  • 性格
  • 人物像
  • 関ヶ原の戦い
  • 妻・初との逸話

をご紹介いたします。

これを読めば京極高次の生涯や性格、関ヶ原の戦いや妻・初との逸話を知ることができますよ。

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京極高次の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?

京極高次は永禄6年(1563年)、浅井氏の居城であった現在の滋賀県、近江国の小谷城京極丸で誕生しました。

父・京極高吉と母・京極マリア(浅井長政の姉)からの長男として誕生します。

高次の両親は2人ともキリスト教徒でした。

長男として誕生した高次には

  • 弟・高知
  • 妹・竜子(武田元明の正室となった後に豊臣秀吉の側室)
  • 妹・松雲院(氏家行広室)
  • 妹・マグダレナ(朽木宣綱室)

がいました。

後に高次は浅井長政と信長の妹・市の次女である初と結婚します

しかし、2人の間には子供は誕生しませんでした。

高次は正室・初との間に子供はできませんでしたが、側室との間には

  • 京極忠高(後の若狭小浜藩第2代藩主)
  • 安毛高政

が誕生しています。

京極高次の経歴や生涯。死因や最後は?

父・京極高吉は足利義昭に仕えていましたが、織田信長と主君・足利義昭が対立した際に出家し、高次は織田信長の領地である美濃国へと人質として送られます。

人質となった高次は美濃国で育ち元服すると、そのまま信長に仕えるようになり、元亀4年(1573年)7月に足利義昭が籠る宇治の槇島城に信長とともに侵攻しました。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、信長の家臣であった明智光秀が反旗を翻し、信長は自害します。(本能寺の変

主君を失った高次は、妹・竜子の夫で若狭国の武田元明とともに明智光秀の味方をすると、信長の家臣であった豊臣秀吉の居城・長浜城を攻め始めました。

しかし、6月13日に豊臣秀吉と明智光秀が対立した山崎の戦い(豊臣軍の勝利)において明智光秀が戦死、武田元明は自害となります。

残された高次は美濃国の武田領へと逃げ、柴田勝家に匿われることとなりました。

その後、秀吉の側室であった妹・竜子の嘆願おかげで、高次は秀吉に許され、秀吉に仕えることとなりました。

天正12年(1584年)に近江国高島郡2,500石を与えられ、その翌年には5,000石が加増されます。

天正14年(1586年)に行われた秀吉による九州平定(豊臣軍の勝利)において、高次の働きが認められ

  • 1万石の加増
  • 大溝城を与えられる

大名となりました。

浅井長政の次女・初と結婚する

天正15年(1587年)、京極家の旧家臣であった浅井長政の娘・初と結婚します。

この時、高次は24歳、妻となった初は17歳でした。

妻・初の父・浅井長政は、高次の母・京極マリアの弟であることから、高次と初は従弟同士ということとなります。

この時代は従弟同士の結婚も許された時代でした。

天正18年(1590年)豊臣秀吉が後北条氏を征伐した小田原征伐(豊臣軍の勝利)において、高次の働きが認められ近江八幡山城2万8,000石を与えられ、翌年に秀吉が関白に就任した際は、従五位下侍従に任命されました。

文禄4年(1595年)には近江大津城6万石へと加増されます。

この大津城(現在の滋賀県大津市浜大津にあった水城)は明智光秀が所有していた坂本城の後継として秀吉の親族・浅野長政が建てた城です。

また

  • 従四位左近衛少将に任命
  • 豊臣姓を下賜される
  • 翌年には従三位参議に任命

昇進を繰り返しました。

しかし、この昇進に対し、裏では

  • 妹・竜子が秀吉の側室
  • 自身の妻・初の姉は秀吉の側室・茶々
  • 自身の妻・初の妹は徳川秀忠の正室・江

であり、豊臣家と徳川家と深く関わりを持っていることから、出世できたのは自身の功ではなく、妹や妻のおかげと陰口を叩かれ、妹や妻の尻の光という意味で「蛍大名」と呼ばれました。

関ヶ原の戦いが始まる

慶長3年(1598)8月18日、秀吉が病気によって亡くなります。

その後、亡き秀吉の権力を巡って

  • 西軍の五奉行の一人、石田三成
  • 東軍の五大老の筆頭・徳川家康

が対立を始めました。

そんな中、会津の上杉景勝を討伐するため6月16日に大阪を出発した徳川家康は6月18日に高次のいる大津城へと立ち寄りました。

この際、高次は上杉討伐に向かう家康に

  • 弟・京極高知
  • 家臣・山田大炊

をつかせます。

この頃、徳川家康と対立していた石田三成は徳川家康を討つべく、様々な武将に味方になるように声をかけていました。

石田三成に味方する

  • 氏家行広
  • 朽木元綱

から、三成軍に誘われましたが、一方で高次は徳川家康からは大津城を守るようにと再三の書状で頼まれていました。

大津城は守りが弱く、戦になればすぐ落城すると考えていた高次は、石田三成に味方することにしました。

そのため、嫡子・京極忠高(高次と側室の子供)を大阪に人質として送り、大津城を訪れた石田三成に改めて西軍に味方すると表明します。

しかし、西軍に味方しつつも東軍の徳川家康には、西軍の動向を密かに伝えるなどしていました。

つまり高次は西軍に味方するふりをしながら東軍に属していたということとなります。

大津城の戦いが勃発

同年9月1日、高次は西軍として大津城を出発すると、2日には越前国(現在の福井県敦賀市)の東野に向かいますが、ここから引き3日返し再び大津城へと戻りました。

翌日の3日にはたくさんの食糧と兵を集め大津城に籠城し、西軍を迎え討つということを東軍で徳川家康の重臣・井伊直政に伝えます。

このような高次の行動は大阪に伝えられ、大津城近くにいた西軍の毛利元康に伝えられ、毛利元康によって大津城は襲撃を受けます。

さらに、西軍・立花宗茂軍も加わり大軍が大津城に攻め込むこととなりました。

7日に攻撃を受けると13日には総攻撃を受け、危機的状況となります。

14日には西軍の使者が高次のもとに送られ和平を求めるも高次はこれを拒否します。

しかし、

  • 秀吉の正室・北政所の使者である孝蔵主
  • 老臣・黒田伊予

の説得のもと降伏となりました。

15日の早朝、高次は剃髪し高野山へと入ります。

大津城を開城した15日、関ヶ原では本戦が行われ西軍は総崩れとなりました。

高次が大津城で籠城していたため、西軍の毛利元康、立花宗茂は足止めされ本戦には参加できませんでした。

この高次の足止めに対し徳川家康は関ヶ原の戦い後、高次を高く評価します。

徳川家康はすぐさま使者を高野山へ送り高野山を下りるように伝えましたが、高次はこれを拒否しました。

しかし、さらに徳川家康から山岡道阿弥が送られ、また弟・高知の説得を受け、高野山を下りました。

高野山から下り大坂で徳川家康に対面した高次は若狭一国8万5,000石へ加増転封され、後瀬山城に入りました。

翌年には近江国高島郡のうち7,100石が加増されます。

その後、豊臣家との争いである大坂の陣を控えた徳川家康から福井県小浜の地に二条城に似た城を築くよう命じられ、小浜城を築き始めました。

また小浜の城下町の整備なども行います。

慶長14年(1609年)5月になると47歳で亡くなり、高次の後は長男・忠高が継ぐこととなりました。(高次の側室の子供)

死因は判明していません。

【エピソード】京極高次の人柄や性格が分かる逸話

京極高次の逸話や人物像はあまり残されていません。

しかし京極高次は

  • 妹・竜子が秀吉の側室である
  • 自身の妻・初の姉は秀吉の側室・茶々である
  • 自身の妻・初の妹は徳川秀忠の正室・江である

ということから、自身の功績だけで出世した人物ではなく、妹や妻のおかげで出世することのできた人物とされています。

妹や妻の尻の光徒いう意味で「蛍大名」と呼ばれていたとされ、当時、高次は相当悔しい思いをしたのではにでしょうか。

しかし、関ヶ原の戦いにおいて、西軍に味方するふりをしながら東軍に西軍の動向を伝え、大津城の戦いにおいて西軍の

  • 毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)
  • 名将・立花宗茂

を足止めすることができました。

このような功績は、妹や妻のおかげではもちろんありません。

徳川家康は、しっかりと高次の功績を称え若狭一国8万千石を与えました。

妻・初との逸話

高次が結婚したのは浅井長政と市の次女・初でした。

浅井長政は高次の母・京極マリアの弟であることから初と高次は従弟同士ということとなります。

従弟同士の結婚であったため、恋愛結婚ではなく政略結婚とされています。

初と結婚するも、2人の間には子供は誕生しませんでした。

しかし、高次と側室との間には2人の子供が誕生します。

これに対し、妻・初は嫉妬心から高次と側室との間に誕生した、まだ幼い忠高を殺害しようとしました。

忠高は高次の家臣・磯野信高に預けられ、妻・初の怒りが収まるまで忠高は磯野信高に匿われたとされています。

恋愛結婚ではありませんでしたが、妻・初が嫉妬心を抱くということは夫婦仲は良かったのではないでしょうか。

まとめ 京極高次は斎藤工が演じてるドラマや映画がある?

京極高次の生涯や性格、人物像や関ヶ原、妻・初との逸話のご紹介でした。

簡単にまとめると

  • 両親はキリシタンであった
  • 浅井長政と市の次女・初と結婚する
  • 織田信長に仕えた後、豊臣秀吉に仕える、その後徳川家康に仕える
  • 大津城の戦いで西軍を足止めする
  • 47歳で亡くなる

京極高次は、あまり有名な武将ではありませんでしたが、関ヶ原の戦いにおいて、東軍を勝利に導いた人物の1人でした。

妹や妻のおかげで出世した人物として見られることが多いですが、関ヶ原の戦いで多大な功績を残した人物です。

そんな京極高次が登場する有名な大河ドラマは「江〜姫たちの戦国〜」です。

この作品では

  • 京極高次を俳優の斎藤工さん
  • 初を女優の水川あさみさん
  • 京極竜子を女優の鈴木砂羽さん

が演じられています。

この作品で、初に恋をし結婚に至ったとされていますが、あくまで物語であって、恋愛結婚であったという史実は残されていません。

その他にも

  • 大河ドラマ「葵 徳川三代」で俳優の小野寺昭さん
  • 大河ドラマ「春日局」で俳優の長谷川明男さん

が京極高次を演じられています。

これを機に京極高次に興味を持った方は大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」、「葵 徳川三代」、「春日局」を見てみてください。

以上「京極高次の性格や逸話の人物像、関ヶ原やお初とのいい話」のご紹介でした。

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