立花宗茂の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは

あなたは立花宗茂という武将をご存知ですか?

立花宗茂は武術の達人で知られおり、豊臣秀吉からは「西国一」「西国無双」と称賛されました。

また、立花宗茂が率いた軍団は「立花の3千は他家の1万にも匹敵」と言われたほど強く、各地での戦いでは多くの武功を立てました。

今回は立花宗茂について

  • 立花宗茂の代表的な戦とは?
  • 【逸話】立花宗茂の勝ち戦と負け戦は?
  • 【最強伝説】立花宗茂の強さはどれくらい?

を紹介します。

こちらを読めば立花宗茂の戦いや強さがわかりますよ。

是非読んでみてください。

 

 

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立花宗茂の代表的な戦とは?

立花宗茂は多くの戦に参戦しましたが、今回は豊臣秀吉が行った朝鮮征伐を紹介します。

天正18年(1590年)に小田原を征伐したことで豊臣秀吉は天下統一の夢を叶えます。

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、今度は中国・明を征服するために朝鮮(李氏朝鮮)に侵攻します。

文禄の役

この戦いは文禄元年(1592年)4月から文禄2年(1593年)7月の間に行われました。

両軍の兵力は

  • 日本軍(豊臣政権)は約16万人(諸説あり)
  • 朝鮮・明連合軍は約25万人(諸説あり)

と両軍合わせて40万人が戦った大規模な戦争となります。

日本軍は大きく分けて9つの部隊に分け、立花宗茂は3千の兵で第6番隊に配属され参戦します。

4月12日中には日本軍第1番隊が釜山を攻め上陸します(釜山鎮の戦い、多大鎮の戦い)。

その後、立花宗茂が属していた第6番隊も釜山に上陸します。

日本軍はさらに北上(慶尚道を制圧しながら)しわずか半月(5月2日までに)で朝鮮国の首都漢城(かんじょう、現在のソウル)府を落とします(朝鮮王は平壌へ逃亡)。

漢城を落とした日本軍は各部隊を各方面に進軍させます。

立花宗茂が属する第6番隊は全羅道の制圧を任されます。

朝鮮八道。中国版wikipediaより

 

全羅道(ぜんらどう)とは現在の全羅北道・全羅南道・済州・光州にあたる地域です。

※「道」とは日本でいうと都道府県にあたり(ちょっとした違いもある)、南北に分けると~南道、~北道となります(例:全羅道は全羅北道と全羅南道)。

第6番隊は全羅道制圧のため漢城から南の忠清道(ちゅうせいどう)へ進軍し、忠清道南東部の錦山郡(クムサンぐん)を拠点に全羅道制圧を目指します。

しかし、朝鮮軍の将軍であった権慄(ごんりつ)が全羅道の守りを固めたため、全羅道の攻略は困難となります。

また、権慄と戦った錦山の戦い(7月9日)では朝鮮軍を破りますが、7月16日に明の援軍が朝鮮に侵入してくると、第6番隊は全羅道を諦め漢城に退却します。

一方、明の援軍を平壌で迎え撃っていた第1番隊の小西行長は、第1次平壌城の戦い(7月16日)と第2次平壌城の戦い(7月29日)で明軍を撃退します。

8月29日に日本軍と明軍の間で約50日間の休戦が結ばれます。

文禄2年(1593年)1月6日に明の将軍・李如松(りじょしょう)が5万の軍勢を率いて平壌城を攻撃します(第3次平壌城の戦い)。

この戦いで第1番隊の小西行長は平壌城を放棄し撤退します。

平壌城を落とした明・朝鮮連合軍は漢城を目指し南下します。

日本軍は朝鮮半島北部にいた戦力を漢城に集めて体勢を立て直し軍を2つに分けます。

  • 先鋒隊 小早川隆景
  • 本隊  宇喜多秀家

そして、1月26日に漢城郊外の碧蹄館(へきていかん)で激突します(碧蹄館の戦い)。

立花宗茂は先鋒隊に配属されます。

立花勢は左側面から奇襲し、撤退した敵軍を追撃し大きな損害を与えます。

碧蹄館の戦いには勝ったものの、同年4月に両国の講和交渉で日本軍は釜山まで後退することが決められます(明軍は開城まで後退)。

しかし、両国の認識のずれ

  • 小西行長が豊臣秀吉に「明が降伏した」と報告
  • 明は「日本が降伏した」と報告

これにより、日本・明双方が約束を破ったと認識してしまい、豊臣秀吉は朝鮮南部を支配するために、同年6月、晋州城(現在の慶尚道晋州市)を攻撃します(第2次晋州城攻防戦)。

立花宗茂は小早川隆景の第5番隊として参戦し、明・朝鮮連合軍の援軍を牽制し晋州城へ近づかせませんでいした(晋州城は8日で陥落)。

この後、日本軍は朝鮮半島南部に多くの城を築城し恒久的に支配する体勢を整え休戦期に入ります。

慶長の役

この戦いは慶長2年(1597年)1月から慶長3年(1598年)12月の間に行われます。

文禄の役での講和交渉が決裂すると、豊臣秀吉は再び朝鮮へ進軍します。

両軍の兵力は

  • 日本軍が約14万人
  • 明軍が約9万人

でした。

立花宗茂は侵攻軍には配属されず、安骨浦(あんこっぽ、慶尚南道昌原郡にある海港)の守備を任されます。

その後、立花宗茂は固城郡(慶尚南道の郡)の守備を任されます。

日本軍は

  • 慶長2年7月に漆川梁(しっせんりょう)海戦で朝鮮水軍を壊滅させる
  • 同年8月に左軍と右軍に分けて全羅道制圧のため進軍する
  • 左軍は8月15日に南原城(なんげんじょう)を陥落させる
  • 右軍は8月16日に黄石山城(こうせきさんじょう)を陥落させる
  • 8月19日には全州城(全羅北道の城)を無血開城させ全羅道と忠清道を占領する

など日本軍は順調に制圧していきます。

同年9月に京畿道の安城(アンソン)まで進軍すると日本軍は1度進軍を止め、慶長3年(1598年)中は侵攻しない方針を出します。

また、朝鮮半島南部を領土化するために慶尚南道の蔚山(ウルサン)から全羅南道の順天(スンチョン)までの東西に城郭(倭城、約28個)を築城します。

日本軍が進軍せず築城を急いでいると、慶長2月12月22日に明・朝鮮連合軍が蔚山倭城へ進軍してきましたが、籠城軍と援軍の活躍によって撃退します(第1次蔚山城の戦い)。

第1次蔚山城の戦いの結果、明・朝鮮軍は漢城(ソウル)まで撤退し、日本軍は進軍せず防御を固めます。

しかし、慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、日本軍は朝鮮から撤退を開始し、明・朝鮮連合軍は泗川(しせん)・順天・蔚山へ同時に攻めてきます(三路の戦い)。

この撤退戦で順天倭城の小西行長が孤立してしまいますが、立花宗茂は島津義弘らとともに

救援に向かい朝鮮水軍と戦い小西行長を救出します(露梁海戦)。

 

日本軍が撤退したことで朝鮮征伐は終結します。

【逸話】立花宗茂の勝ち戦と負け戦は?

立花宗茂の勝ち戦:九州征伐

天正14年(1586年)7月に立花宗茂が仕えていた大友氏が、薩摩の島津氏の侵攻によって勢力を縮小し滅亡寸前までに追い込まれます。

しかし、同年8月に豊臣秀吉が九州平定のため九州に侵攻してくると、立花宗茂は豊臣軍として参戦します。

立花宗茂は天正15年(1587年)4月から島津家領を攻撃していきます。

  • 肥後国(熊本)の竹迫城と宇土城を落とす
  • 島津忠辰の出水城を落とす

天正15年(1587年)9月に肥後国で国人一揆が起こると、立花宗茂は肥後国を担当していた佐々成政に援軍を出します。

立花宗茂は一揆を討伐中に平山城にいたところを包囲されますが、偽情報を流し敵が油断しているところを挟撃し一揆勢を壊滅させます。

立花勢は一揆方の城を7つ落とし、600人以上の敵兵を討ち取りました。

立花宗茂は九州征伐での活躍を豊臣秀吉に評価され、従五位下・侍従に叙任される他、羽柴姓と豊臣姓を賜ります。

立花宗茂の負け戦:関ヶ原の戦い 大津城の戦い

慶長5年(1600年)9月15日に日本が東西に分かれて戦った関ヶ原の戦いが起こります。

立花宗茂は関ヶ原の戦いが起こる直前に徳川家康から東軍に付くように誘われます。

しかし、立花宗茂は「秀吉公への恩義があるから、東軍に付くくらいなら、死んだ方が良い」ときっぱりと断ります。

また、家臣からは西軍の勝ち目はないと進言されるも、立花宗茂は「勝敗は関係ない」と答え西軍につきます。

立花宗茂は毛利元康(毛利元就の8男)らとともに伊勢方面に進軍し、東軍方の京極高次が籠もる大津城を攻めます。

両軍の兵力は

  • 西軍(毛利勢・立花勢)が1万5千
  • 東軍(京極勢)が3千

慶長5年9月7日に西軍は大津城を包囲し攻撃します。

しかし、城攻めはあまり上手くいかず、さらに京極家家臣の赤尾伊豆守が城外まで出てきて攻撃してきました。

この状況に西軍は同年9月13日に大砲で攻撃をします。

立花宗茂は養父・立花道雪から伝授された「早合(はやごう)」という戦術を用いて鉄砲で攻撃します。

「早合」とは早込とも言い、通常の鉄砲よりも早く火薬と弾を込められ、敵よりも短時間で多くの攻撃ができます。

この戦術により大津城側は鉄砲狭間(鉄砲を撃つ隙間)を閉じるほかありませんでした。

そして、大砲の攻撃もあり同年9月15日に大津城は降伏します。

立花宗茂は大津城を落としますが、大津城を落としたその日に関ヶ原の戦いで西軍が負けてしまいます。

この知らせを聞いた立花宗茂は大坂城で一戦交えようと考えますが、西軍の総大将・毛利輝元が東軍に恭順したため、本拠・柳川城(福岡県柳川)へ撤退することにします。

結局、この大津城攻めは全く無意味なものになってしまいます。

【最強伝説】立花宗茂の強さはどれくらい?

立花宗茂の強さはなんと言っても家臣達との信頼関係です。

立花宗茂は戦上手として有名ですが、これには立花宗茂の考え方が大きな影響を与えています。

立花宗茂は軍を率いる上で次のように言っています。

  • 「特別な戦術を使っている分けではない。常に兵士に対してえこひいきせず、情けを与え、国法に触れた者はその法によって対処する。そうすれば、戦になったときに皆が一命をなげうって力戦してくれる。これこそが私(宗茂)の功となる。」
  • 「戦の際に大将が采配をとって、ただ”進め”や”死ね”といっても、このような下知では従う者はいない。普段から上の者は下の者を子のように情をかけ、下の者は上の者を親と思うように。そうすれば人は下知がなくても動かせる者ものだ。」

これらの立花宗茂の考えは上下で信頼関係を築き強い軍団を作っていくことができました。

また、立花宗茂は忠義に厚かった人物でもありました。

立花宗茂がまだ大友氏の家臣だった時に、薩摩の島津氏が勢力を拡大し、主家・大友氏が滅亡しそうになりますが、立花宗茂は最後まで大友氏のために戦いました。

さらに、関ヶ原の戦いでは秀吉公への恩義から西軍に参加し、西軍が負け撤退する際には、同じく西軍に参加していた島津義弘を助けます(父の仇であったが)。

このように、立花宗茂は戦は強かったですが、本当の強さは立花宗茂の考え方にあったのでしょう。

まとめ 立花宗茂のおすすめ作品や本。大河ドラマ

ここまで立花宗茂について紹介してきましたがいかがでしたか。

まとめてみると

  • 立花宗茂は朝鮮征伐では第6番隊として参戦した
  • 立花宗茂は関ヶ原の戦いでは西軍についた
  • 立花宗茂は家臣との信頼関係を大事にした

最後に、立花宗茂はいくつかの渾名(あだな)があるので紹介します。

  • 「西国無双」・・小田原征伐での活躍で豊臣秀吉から呼ばれた
  • 「鬼将軍」・・・柳川の民から呼ばれた
  • 「武神」・・・・島原の乱での活躍を見た諸大名から武神再来とほめられた
  • 「飛将」・・・・三国志に出てくる呂布のように戦場以外で射芸を披露した

オススメ作品

本では童門冬二さんの『小説 立花宗茂 全一冊』や上田秀人さんの『孤闘-立花宗茂』がオススメです。

大河ドラマはありませんが、見てみたい武将の一人です。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

以上、「立花宗茂の強さはどれくらいすごい?最強の伝説や逸話とは」でした。

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