清河八郎の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い

清河八郎。

一度は耳にしたことがある名前でしょう。

新選組ができるきっかけとなったのが清河八郎だとご存知でしょうか?

さて今回は、清河八郎について、

  • 清河八郎の性格がわかる面白いエピソードとは
  • 清河八郎の人物像がわかる面白いエピソードとは?
  • 清河八郎の生い立ちや家族を紹介

を紹介します。

これを読めば新選組の発起人となった清河八郎の生涯が分かります。

ぜひご覧下さい。

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清河八郎の性格はどんな人物像?生い立ちエピソード・逸話が面白い

清河八郎の性格がわかる面白いエピソードとは

清河は1830年に庄内藩領出羽国田川郡清川村の郷士、齋藤治兵衛と亀代の長男として生まれます。

その1:清河が7歳の時、父より教の素読を受けはじめるようになります。

3年後には鶴岡の伊達鴨蔵から学問、清水郡治に書を学ぶようになるのですが、当時ワンパクだった清河は塾を追い出されてしまうのです。

やがて14歳になると清川関所役人だった畑田安右衛門より、論語・孟子・易経・詩経・文遷を学ぶようになるのです。

そして更に3年後、酒田の伊藤弥藤治に剣を教わります。

藤本鉄石と出会い、これにより江戸遊学の志に火をつけるのでした。

その2:江戸遊学を行う

清河は1847年に江戸へと出て、江戸古学派の東條一堂から経学を学びます。

この際東条一堂塾の三傑に数えられるといいます。

4年後には東条塾の塾頭に推薦されるほど。

とても頭がよかったんですね!

しかし清河は昌平坂学問所を志し当時最高学府の安積艮斎塾に移ることを決め、塾頭の話を断っているんです。

もったいない…

そこで推薦を受け、晴れて昌平坂学問所に入学をします。

しかしこれに失望した清河は、25歳になると江戸神田三河町に『清河塾』を開くのです。

剣は1851年2月に千葉周作の北辰一刀流玄武館に入門し、1860年には北辰一刀流兵法免許を得ています。

清河は文武両道だったんですね!

その3:虎尾の会を結成

志士としての活動を再開したのは1860年の事。

時の大老・井伊直弼が、白昼少数の水戸浪士に暗殺された、桜田門外の変後のことでした。

この事件の1か月前に『虎尾の会』を結成。

この名前には”国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない”という意味がこめられていました。

メンバーは全部で15名。

チームの目的としては尊皇攘夷。

外国人を日本から追い払い、天皇を中心に日本をひとつにまとめて事に当たるというものでした。

同年12月には虎尾の会のメンバーが米国ハリスの通訳ヒュースケンを暗殺します。

このため清河塾は幕府に監視されることになってしまいます。

1861年には幕府の罠にはまり、幕府の手先を無礼斬りしてしまいます。

このことにより清河は追われる身となり、同士・妻・弟が投獄されてしまうのです。

逃亡生活を繰り返していた清河。

仙台に潜伏中、「廃帝の動きがある幕府に対し、水戸藩士が天皇を奉じて天下に号令しようとしている」ことを聞かされます。

これを良策としなかった清河は上洛して密かに封事を天皇に奉り、薩摩藩の同士を集い勤皇のもとに挙兵する策を押し立てるのです。

その4:寺田屋事件

1862年、薩摩藩主・島津の京都行きが倒幕のきっかけとなる行動であるという命令がでます。

それをもとに全国の尊攘派志士に呼びかけ、京都で兵を集めて戦いをしようと計画します。

しかし島津の本心は倒幕ではなく公武合体。

意見の対立した薩摩藩士同士が斬リ合うこととなりました。

しかし寺田屋事件によりその計画はダメになってしまいます。

その後再三勅旨(何度も天皇の意思)が江戸に下り、将軍家茂の京都行きと公武一和の義が広がるのです。

その5:浪士組結成

同年11月、江戸に戻った清河。

幕府政事総裁・松平春嶽に『急務三策』という建白書を提出します。

これは、

  1. 尊王攘夷をどんなことがあっても行うこと
  2. 浪士組参加者は今まで犯した罪が免除される
  3. 文武に優れているものを重い地位に取り立てて用いること

という内容のものでした。

幕府はこれに飛びつき、将軍上洛の護衛として『浪士組』編成が許可されるのです。

1863年、幕府に建言した『浪士組』が結成され、将軍警衛の黒幕として京都へと向かいます。

浪士組一向が京都に到着し壬生村へ入ると、清河は新徳寺の本堂へと浪士組を集めました。

そこで、尊王攘夷論を演説した清河。

浪士たちは驚き何も言えずにいると、あらかじめ用意しておいた血判状に血判を集めだすのです。

そうして翌日、京都御所の学習院へ血判状を提出。

それが受理されると、浪士組宛てに勅諚(天皇のお言葉)をもらうのです。

ちょうどこの頃、生麦事件が別で起こっていました。

イギリスからの主張を強く押し通そうとする交渉内容を聞いた清河は浪士組を集めます。

そして横浜へ行き鎖国をし、攘夷の先駆けをするというのです。

しかしこれに反対したのが芹沢一派と近藤一派の13名でした。

この13名が後の新選組となるのです。

その6:清河の死

天皇に上表文を提出し天皇の言葉をもらうという奇想天外な事を成し遂げた浪士のことを、幕府が黙っているはずがありませんでした。

既に「浪士組は、攘夷戦争に備えて東帰せよ」と命令が出ていたため、3月13日、浪士組を江戸へ戻すこととなります。

単独で攘夷を計画し始める清河。

しかし浪士は清河一行が京都へと向かった後も続々と集まってきます。

何百人という浪士たちが清河の手先として動く恐れがあったため、幕府にとって最も危険な人物の一人になってしまったのです。

形勢を一変させてから2ヵ月後、清河は志半ばで幕府の刺客・佐々木只三郎らに暗殺されてしまうのです。

清河八郎の人物像がわかる面白い逸話とは?

さてそんな清河はどんな人物だったのでしょう。

逸話1 幼少時代

1833年、清河が4歳のときでした。

世に言う「天保の大飢饉」が起こり、清川村も天候不順などで大凶作の年でした。

しかし、庄内藩の年貢米の取立ては厳しく、村人は生活困窮に陥っていたのです。

そんな中、清川村の若者16人が藩からの預かり米を盗むという事件が起こります。

一部始終を見ていた清河が家の人にそのことを話し、押し入った16人全員が藩に捕獲されてしまいます。

父は藩に対し助けてほしいと頼むのですが、15人が斬首、1人が追放となってしまいます。

村人は村の窮地を救おうとした16人の若者を悼み、清河を非難する声もありました。

しかし4歳の清河の鋭さと度胸に驚いたといいます。

逸話2 西遊草

清河の旅好きは有名ですが、それ以上に学問への意欲は目を見張るものがありました。

19歳の時、叔父一行と大阪、広島、岩国、四国、京をめぐる約4ヶ月の旅をしています。

清河は京遊学を望みますが、その年弟・熊次郎の病死により一旦実家に戻ることに。

しかし、京遊学をあきらめきれず、1850年、3年間の許可を得て京都へ行き、梁川星厳を先生とします。

それも物足りず、ついに九州を目指すようになるのです。

小倉、福岡、大宰府、佐賀、諫早、長崎、熊本、日田、日出と、有名な文人学者を訪ねながら2ヶ月あまりの旅となりました。

そうして江戸に戻った清河は、東条塾から安積良斎塾へと移るのです。

その後、1855年に母を連れ北信、伊勢をめぐる母孝行の旅に出ます。

その時の旅日記が紀行文「西遊草」となるのです。

とても母親思いだったんでしょうね。

私も母に親孝行しなきゃですね!

清河八郎の生い立ちや家族を紹介

さてそんな清河ですがどのように育ったのでしょう。

1830年、庄内藩領出羽国田川郡清川村(現庄内町)の郷士、齋藤治兵衛と亀代の長男として生まれました。

斎藤家は、庄内一の醸造石数を誇る酒屋でした。

父・齋藤治兵衛豪寿は清川村の素封家、母・亀代は鶴岡三井家の第三子、兄弟は弟に熊次郎、熊三郎、妹に辰代、家の5人兄弟。

兄妹が沢山いたんですね!

清河の幼名は元司といいます。

清河塾開塾の際、その名を清河八郎と戒名したのです。

故郷清川を流れる最上川を大河の意味の『河』に変えて「清河」とし、故郷を立て名乗ったと伝えられています。

故郷を思って付けた名前だったんですね!!

【結論】清河八郎はどんな人?性格や人物像がわかる逸話・エピソードを紹介

さて、清河八郎の性格や生い立ちをご紹介しました。

ざっくりまとめますと……

  • 清河八郎は新選組結成となる人物だった
  • 清河八郎は母思いの母孝行者だった
  • 清河八郎は幼少時代から秀才だった

清河の勉学へののめり込み方はとても凄いですよね。

私は学生時代から偏りが激しかったので尊敬します!

山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られているので、参拝に足を運んでみてください。

また清河八郎を題材にした映画もあるので、ぜひ見てみてくださいね!

以上、「清河八郎の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い」でした!

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