聖武天皇の性格と経歴はどんな人?生い立ちやエピソードが面白い

現在、正倉院に保管されている聖武天皇の遺品が一般公開される正倉院展が奈良県で開催されています。

聖武天皇が亡くなった際、妻・光明皇后が夫の遺品を納めたのがはじまりとされていますが、聖武天皇とは一体どのような人物であったのでしょうか。

今回は聖武天皇の

  • 生い立ち
  • 経歴
  • 性格
  • エピソード

をご紹介していきます。

これを読めば聖武天皇の生い立ちや経歴、性格やエピソードを知ることができますよ。

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聖武天皇の生い立ちとは?家族や兄弟、父親や子供は?

聖武天皇は奈良時代にあたる大宝元年(701年)、文武天皇と藤原不比等の娘・藤原宮子の息子として誕生しました。

即位するまでは首皇子と呼ばれてていました。

兄弟はいなかったとされています

慶雲4年(707)6月15日、首皇子(聖武天皇)が7歳の時、父・文武天皇が亡くなります。

すると母・藤原宮子は心身を患ってしまったため、その後、母と会うことはできませんでした。

首皇子(聖武天皇)は後に、

  • 光明子(光明皇后)
  • 県犬養広刀自

という2人の女性を妃に迎えた他、

  • 南殿
  • 橘古那可智
  • 北殿

という女性を妃に迎えていたとされています。

しかし、南殿、橘古那可智、北殿との間には子供はいませんでした。

そのため聖武天皇には

  • 井上内親王(県犬養広刀自の長女)
  • 阿倍内親王(光明子の長女)
  • 基王(光明子の長男)
  • 安積親王(県犬養広刀自の長男)
  • 不破内親王(県犬養広刀自の娘、生没年不詳)

が誕生します。

聖武天皇の経歴や生涯。最後は?

首皇子(聖武天皇)はこの時、まだ幼かったたため父・文武天皇の亡きあとは、首皇子(聖武天皇)が元服するまでの間、父・文武天皇の母・元明天皇が中継ぎの天皇として同年7月17日に即位しました。

つまり、首皇子(聖武天皇)の祖母が、首皇子(聖武天皇)の代わりに即位したということとなります。

和銅7年(714年)6月25日、首皇子(聖武天皇)は元服の儀式を終え、立太子となるも

  • 病弱であった
  • この時、皇族と外戚であった藤原氏が対立していた

このようなことから、首皇子(聖武天皇)の即位は延期され、祖母・元明天皇の姉・元正天皇が霊亀元年(715年)9月2日、即位となりました。

第45代天皇となる

その後、神亀元年(724年)3月3日、24歳になった首皇子(聖武天皇)は元正天皇から皇位を譲られ、即位し第45代天皇となります。

当時、天皇になる人物は父、母ともに皇族の子供が天皇になれるというのが一般的でした。

しかし、聖武天皇の母・藤原宮子は藤原不比等の娘で、皇族ではありません。

藤原家は、娘を天皇の妃とすることで、皇族との関わりを強くしていました。

このようなこともあって、聖武天皇の即位に反対するものも多かったとされています。

聖武天皇の治世は、当時、長屋王という人物が政治権力を握っていました。

長屋王という人物は、聖武天皇の母が藤原家出身であるということから、聖武天皇の即位には反対していた人物の1人で、自身も皇族の血を引いていたため、皇位継承の有力候補として名前があげられていました。

このため、藤原氏と長屋王はたびたび対立を繰り返します。

藤原氏はもっと皇族と関わりを深めるため、藤原不比等と県犬養三千代の娘である光明子を聖武天皇の妃とさせます。

光明子の父・藤原不比等は聖武天皇にとって自身の祖父にあたります。

つまり光明子は聖武天皇の母・藤原宮子にとって異母妹ということです。

これに対し、長屋王は皇族の血を引いていない藤原氏の光明子が妃になることに反対をしました。

聖武天皇は光明子を妃として迎えましたが、光明子の他にも県犬養広刀自という女性を妃としていました。

県犬養広刀自がいつ聖武天皇の妃となったのかは分かっていませんが、光明子と同時期、またはそれ以前とされています。

養老元年(717年)聖武天皇の妃・県犬養広刀自との間に第一子となる井上内親王(第49代光仁天皇の皇后)が誕生します。

養老2年(718年)には聖武天皇と妃・光明子の間に第一子となる長女・阿倍内親王(後の孝謙天皇)が誕生します。

その後、神亀4年(727年)9月29日に聖武天皇と妃・光明子との間に念願の男子である基王が誕生しました。

聖武天皇は基王を生後一か月で皇太子とさせました。

まだ言葉も話せず、政務能力など全くない生後一か月の赤ちゃんが皇太子となるのは前代未聞の出来事でした。

もちろんこのことに対しても長屋王は反発を起こします。

同年、聖武天皇と妃・県犬養広刀自の間に、男子となる安積親王が誕生します。

神亀5年(728年)9月に1歳にもならずして光明子の子供で、皇太子となった基王は亡くなってしまいました

基王が亡くなると、聖武天皇には生まれたばかりの安積親王しか男子の子供がいないということとなり、皇位継承に不安が生じます。

長屋王の変が起きる

このような状況の神亀6年(729年)2月、聖武天皇の元に「長屋王が国を傾けようと計画を企んでいる」という密告が入ります。

これに危機感を覚えた聖武天皇は、すぐさま藤原宇合という人物を長屋王討伐のために長屋王のもとに派遣しました。

こうして長屋王は藤原宇合の兵に屋敷を包囲され、自害し亡くなりました

これを長屋王の変と呼びます。

この長屋王の変は、長屋王を排除し光明子を立后させるために、光明子の異母兄である藤原四兄弟(藤原不比等の息子)が計画したものとされています。

長屋王が亡くなり、反対勢力がいなくなったため光明子は立后されました。

天平9年(737年)になると平城京内で疫病が流行ります。

この疫病によって藤原不比等の四兄弟で知太政官事であった

  • 藤原武智麻呂
  • 藤原房前
  • 藤原宇合
  • 藤原麻呂

が亡くなりました。

このようなことから、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任命し、政府の体裁を整えさせました。

天平12年(740年)には藤原広嗣の乱がおこります。

この藤原広嗣の乱とは、政権への不満を抱いた藤原広嗣が同年8月頃から大宰府から平城京に向けて挙兵するも、結局、同年11月1日官軍によって鎮圧された乱です。

聖武天皇は藤原広嗣の乱が鎮圧されたという報告を待たずに伊勢国、美濃国などを行幸すると、同年12月15日に平城京から恭仁京に遷都しました。(現在の京都府木津川市加茂地区)

国家鎮護を目的とした政策を行う

天平13年(741年)聖武天皇は、疫病の流行や天災が続いたため、国分寺建立の詔を発します。

この国分寺建立の詔とは、仏教による国家鎮護を目的としたものでした。

天平15年(743年)になると、聖武天皇は国分寺建立の詔と同様に国を安定させたいと強く願い、東大寺盧舎那仏像の建立の詔を発します。

この詔によって建立されたのが、現在目にすることができる奈良の大仏です。

その後、聖武天皇は天平16年(744年)に恭仁京から難波京に遷都し、墾田永年私財法を制定しました。

この墾田永年私財法とは、自分で新しく開拓した土地の永年私財化を認めるという法令です。

この法令は当時

  • 墾田は3代までの間だけ私有化が認められていたが、3代の私有化が解消されると、国に墾田を返さなければならなかったため、民の墾田意欲はあまりなかった
  • 私有化の解消期限が迫ると墾田は手入れされなくなり、そのため荒地となった墾田がたくさんあった

このような問題を解消するため、開拓した墾田の永年私財化を認めました。

同年1月13日、聖武天皇と県犬養広刀自の息子・安積親王が亡くなります。

このことによって聖武天皇は男子の子供を失うこととなりました。

天平17年(745年)になると、もともと離宮であった紫香楽京に遷都します。

しかし紫香楽京に遷都した同年5月には再び、平城京へと遷都を行いました。

天平勝宝元年(749年)7月2日、聖武天皇は男子の子供がいないため、妻・光明皇后の娘・阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位します。

聖武天皇の最期

天平勝宝4年(752年)4月9日、聖武天皇は天平15年(743年)から制作が行われていた東大寺大仏殿が完成したため、東大寺大仏の開眼法要を行います。

天平勝宝6年(754年)には、唐から来日した僧・鑑真に光明皇后とともに会います。

天平勝宝8年(756年)になると、聖武天皇は妻・光明皇后を残して56歳で亡くなりました。

【エピソード】聖武天皇の人柄や性格が分かる逸話

聖武天は当時流行していた疫病や、天災また政府内の混乱を鎮めるため仏、法、僧といった三法の力をもって国家鎮護のため東大寺盧舎那仏像の詔を発しました。

この東大寺盧舎那仏像の詔は、多くの資金や人材が必要となります。

実際

  • 260万人にも及ぶ民が工事に関わった
  • 現在の価格にすると約4657億円相当の建造費

であったとされています。

このような大がかりな工事をするにあたって聖武天皇は民に対し、「私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。…たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。」

と述べました。

引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

つまり、聖武天皇は民に対し、大仏の建造を命令したのではなく、協力するよう訴えかけたということです。

このような聖武天皇の訴えによって、260万人にも及ぶ民が建築に協力し、無事、大仏は完成となりました。

その後、大仏は

  • 斉衡2年(855年)に地震によって大仏の首が落ちるも修復される
  • 治承4年(1180年)平清盛に命じられ、平重衡らが南都焼討を起こした際、東大寺の伽藍の主要部分が焼失、その後、修復される
  • 永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いで大仏と大仏殿が焼失、元禄4年(1691年)に再興される

とこのような歴史がありました。

現在、私たちが目にしている奈良の大仏は2度の焼失を経て、さらに昭和に行われた大修理がなされたものとなります。

聖武天皇は、国家鎮護のため、

  • 国分寺建立の詔
  • 東大寺盧舎那仏像の詔
  • 数回の遷都

などを行いました。

国を安定させるために必死でこのような政策を行っていた聖武天皇は真面目な性格であったと感じます。

まとめ 聖武天皇はどんな人?大河ドラマや映画はある?

聖武天皇の生い立ちや経歴、性格やエピソードをご紹介いたしました。

簡単にまとめると

  • 藤原不比等の娘・光明子を妻に持つ
  • 国分寺建立の詔、墾田永年私財法を発す
  • 東大寺盧舎那仏像の詔を発す
  • 56歳で亡くなる

現在、奈良の大仏を目にすることができるのは、聖武天皇が国を思い東大寺盧舎那仏像の詔を発したおかげです。

現在開催されている正倉院展では、そんな聖武天皇の愛用の品や、東大寺大仏の開眼法要で使用された道具などが展示されています。

聖武天皇亡き後、妻・光明皇后が夫の大事にしていた愛用品を仏に捧げようと納めました。

聖武天皇と光明皇后の夫婦仲は良かったことがわかります。

そんな聖武天皇が登場する大河ドラマや映画はありませんでしたが、NHKによって制作されたドラマ「大仏開眼」に聖武天皇は登場しています。

この作品では

  • 聖武天皇を俳優の國村隼さん
  • 光明皇后を女優の浅野温子さん
  • 阿倍内親王を女優の石原さとみさん
  • 藤原宮子を女優の江波杏子さん

が演じられています。

これを機に聖武天皇に興味を持った方はNHKドラマ「大仏開眼」を見てみてください。

以上「聖武天皇の性格と経歴、生い立ちやエピソード」のご紹介でした。

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