2018年放送のNHK大河ドラマ「西郷どん」で、西郷隆盛の右腕として活躍したことが描かれた桐野利秋。
中村半次郎といった方がピンとくる人もいるかもしれません。
そんな桐野利秋は、「幕末の三大人斬り」人斬りの一人に数えられています。
今回は、桐野利秋について
- 桐野利秋の生い立ちや家族を紹介
- 桐野利秋の性格がわかる面白エピソードとは
- 桐野利秋の人物像が分かる面白い逸話とは
を紹介します。
これを読めば、桐野利秋の生い立ちや家族構成・エピソード・逸話などがわかります。
桐野利秋が命をかけて守りたかったもの、生涯貫いた志などを知ることができます。是非、ご覧ください。
【過労死問題受け】来年のNHK大河『西郷どん』、話数を減らす方針https://t.co/GzU4ka71gl
50回の放送枠に変更はないが、関連番組を数回放送するという。職員の負担を軽減する狙いとみられる。 pic.twitter.com/LER35OLtlS
— ライブドアニュース (@livedoornews) 2017年11月29日
桐野利秋の性格はどんな人物像?生い立ちやエピソード・逸話が面白い
桐野利秋の生い立ちや家族を紹介
桐野利秋は、江戸時代末期から明治初期まで活躍した薩摩藩士・陸軍軍人です。
初めは、中村半次郎と名乗っていました。
桐野利秋は天保9年(1838年)、鹿児島郡鹿児島近在吉野村実方(現・鹿児島県鹿児島市吉野町)に中村家の第三子として生まれました。
5人兄姉弟妹で、後に妹は島津斉彬に近侍していた伊東才蔵に嫁ぎました。
西南戦争で西郷隆盛の介錯したことで有名な別府晋介は母方の従弟にあたり、貴族院男爵議員の肝付兼行男爵は、婚姻によって生じた親戚の関係にあたります。
桐野が10歳頃、父親が徳之島に流罪に処されてしまいます。
当時、流罪は死罪に次いで重い刑罰でした。
そのうえ家禄5石を取り上げられてしまった後は、兄を助けて生活していました。
しかし、桐野が18歳の時、兄が病死、その後は、小作や畑を開墾することで家計を支えました。
父親不在で兄を亡くした後、一人ではなかったと思いますが桐野が家計を支えるのは大変だったことでしょう。
後に、帖佐小右衛門(鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の次女・ヒサと結婚しますが、戸籍上、桐野とヒサの間に実子はありませんでした。
桐野利秋の性格がわかる面白エピソードとは
長きに渡り上之園方限の郷中の士と親交を結ぶこととなる
若い頃、桐野は上之園方限(ほうぎり)の郷中に属する、石見半兵衛に決闘を申し込まれます。
しかし桐野は決闘に応じるどころか、石見の誤りを批判しました。
それ以来、長きに渡り上之園方限の郷中の士と親交を結ぶこととなりました。
しかし上之園方限の郷中出身者には精忠組の士が多くいたため、文久2年(1862年)の寺田屋事件には多くの知り合いが関わる結果となってしまいました。
桐野は直接関係しませんでしたが、苦い思いをしたのは確かでしょう。
なぜなら桐野と一番仲の良かった、弟子丸龍助がこの事件で、抵抗して命を落とすことになったからです。
この動乱の時代、仲間や友人が命を落とすことは少なくなかったでしょう。
しかし、きっと桐野も悔しかったことでしょう。
西郷隆盛など藩の中で身分の高い人物たちからも信頼を得ていくことなる
やがて諸国の志士たちと広く交際し、幕府を討つ思想を唱えるようになった桐野は、同時に家老・小松帯刀から特に強く信頼されるようになります。
その影響でから西郷隆盛など藩の中で身分の高い人物たちからも信頼を得ていくことになります。
木戸孝允や中岡慎太郎などと親交を深める
元治元年(1864年)禁門の変の起こった同年、小松帯刀から大久保利通宛にある書簡が届きます。
書簡の内容は、「桐野利秋が兵庫入塾を願っているので叶えてやってほしい」というものでした。
つまり、桐野は神戸海軍操練所で学びたいと強く希望していたということです。
しかしこの神戸海軍操練所は、翌年閉鎖となっているので、実際学ぶことができたかどうかは不明ということです。
また慶応2年(1866年)、長州藩士・三吉慎蔵は寺田屋事件の後、薩摩藩邸で静養する坂本龍馬を桐野は毎日のようにように見舞ったと証言しています。
慶応3年(1867年)には、長州藩士の木戸孝允や中岡慎太郎などと親交を深めることとなります。
「人斬り半次郎」と言われている桐野ですが、意外にも実際に記録がある暗殺はこの白昼暗殺だけ
さらに同年9月、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者・赤松小三郎を幕府の密偵として白昼暗殺しました。
「人斬り半次郎」と言われている桐野ですが、意外にも実際に記録がある暗殺はこの1件だけなんだとか。
「人斬り半次郎」という呼び名が有名すぎるが故、この事実にはびっくりですよね!
左手中指と薬指を失う
また同年10月に坂本龍馬が暗殺され、桐野は犯人探しや海援隊・陸援隊との連絡などに奔走しました。
そして葬儀の直後、龍馬の甥・高松太郎や坂本清次郎と墓参りに赴いています。
また、西郷と勝海舟との会談にも同席し、上野の徳川慶喜の警護などを目的とされ結成された部隊・彰義隊との戦いの際も西郷の指揮のもと攻撃に参加しました。
この戦いに後、湯屋からの帰り道、3人の刺客に襲撃され、1人を斬ったものの左手中指と薬指を失ってしまいます。
この傷の悪化により、桐野は横浜軍陣病院で療養することになります。
松平容保から人を介し宝刀を贈られる
さらに後の会津藩降伏後の開城の式では、新政府軍を代表して城の受け取り役を務めました。
イギリス公使館の通訳官、アーネスト・サトウは、会津若松開城の知らせを受けた際、同時に「城の引き取りに行った中村半次郎は男泣きに泣いた」と聞いたと書き残しています。
この時桐野本人は、「涙を禁じ得なかった」と語りました。
また桐野は城中の会津藩士に親身になって接したといいます。
この桐野の行為に感謝をの意を示し、後に松平容保から人を介し宝刀を贈られました。
何だか、桐野の人柄が分かるエピソードですね!
桐野利秋の人物像が分かる面白い逸話とは
明治6年(1873年)11月、鹿児島へ帰郷した桐野は、鹿児島郡吉田郷本城村(現・鹿児島本城町)にある久部山の原野を開墾して日々を過ごしていました。
明治7年(1874年)、辞職軍人有志で鹿児島の青少年の教育のためにつくられた私学校では、桐野は翌年つくられた吉野開墾社を指導、率先して開墾事業に励みました。
かつて人斬りとして恐れられた桐野が、刀ではなく、開墾事業に励んだというとこが何だか意外な気がしましたが、幼かった頃、小作や開墾畑で家計を支えていたことが生きているのかなと思いました。
そんな中、明治10年(1877年)、西南戦争が勃発し、桐野は四番大隊指揮長となり総司令も兼ねて戦いました。
味方が相次いで銃弾に倒れていく悲惨な光景のなか、桐野は勇戦しましたが、最後は、額を打ち抜かれて40歳という若さで戦死しました。
死後、正五位を追贈され、名誉が回復される
明治10年に持っていた官位を剥奪され、死後、大正5年(1916年)に日本の位階及び神階における位のひとつである正五位を追贈され、名誉が回復されました。
おしゃれな人物であった
またおしゃれな人物としても有名で、陸軍少将時代には懐中時計やフランスの香水を愛用しており、戦死した際にも遺体からは愛用していた香水の香りがしていたといわれています。
ちなみに、桐野利秋の墓は西郷の右腕と呼ばれた男にふさわしく、西郷隆盛の墓の右側に位置しています。
まとめ:桐野利秋はどんな人?分かりやすいおすすめ作品
桐野利秋の生い立ちや家族、面白エピソードや逸話について紹介しました。
最後に桐野利秋についてまとめておきますね!
- 父親が流罪になり、兄が病死した後は小作や開墾畑で家計を支えた。
- 戸籍上、妻・ヒサとの間に実子はいなかった。
- 上之園方限郷中の士と親交を深めるが、後の寺田屋事件で多くの知人を失うが、本人は事件に関わっていない。
- 寺田屋事件の後、薩摩藩邸で静養する坂本龍馬を毎日のように見舞った。
- 特に小松帯刀に信頼され、西郷隆盛など藩の重臣からも重用されるようになる。
- 彰義隊との戦いの後、湯屋の帰りに刺客に襲われ左手中指と薬指を失ってしまう。
- 会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務め「涙を禁じ得なかった」と語る。
- 西南戦争で40歳で戦死。死後、賊軍の将として遇されたが、大正5年(1916年)に正五位を追贈され、名誉が回復した。
根っからの人斬りだと思っていた桐野利秋ですが、会津藩降伏後城内にいた会津藩士に親身になって対応したり、故郷の開墾事業に力を入れていたりと実に人間味溢れる人物だったんですね!
残された桐野のエピソードからは、彼の優しさが伝わってくるようです!
桐野利秋の更なる魅力に触れたいという方には、この2作品がおすすめです。
- NHK大河ドラマ「西郷どん」(2018年・NHK/演・大野拓郎)
- 映画「半次郎」(2010年/演・榎木孝明)
ぜひ、ドラマなどでは語られない桐野利秋の新たな魅力を感じてみてください!
以上、「桐野利秋の生い立ちや家族、面白エピソード・逸話」でした。
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