塚原卜伝の生涯とエピソード 鹿島の太刀の極意を悟り、鹿島新當流を開いた卜伝はどれくらい強かったのか?

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塚原卜伝の生きた時代

 塚原卜伝(1489~1571)の生きた時代は、応仁の乱(1467~1477)の勃発から、全国を統治していた室町幕府の権威は全くなくなり、下克上の風潮が日本を席巻し、各地に戦国大名が割拠して覇権を争うという時代でした。

実力のあるものが権勢をふるうという時代の中で、実権を握る者も次から次へと交代していきました。

民衆も発言力を増してきて、徒党を組み一揆をおこして自分たちの主張を通そうとするようになりました。

 混乱の戦国時代へ入っていく中で、刀などの武力を用いることが重要視されました。

そのような価値観の中で塚原卜伝の得意としていた刀もあらゆる場所で重んじられることになり、卜伝は数々の高名な弟子を持つことになりました。

 各地で有力な戦国大名が出現して時には大合戦を繰り広げていて時代は混沌としていました。

いつ滅ぼされるかもしれないという不安と身分が低くても実力さえあれば権力を握れるという希望が同居して入り混じっていた感覚がこの時代の最大の特徴かもしれません。

 1560年に桶狭間の戦いで今川義元を破り、一躍名を上げた織田信長が「天下布武」を掲げてまさに武力で天下取りへと動き出した時代に塚原卜伝はこの世を去りました。


<応仁の乱>

塚原卜伝の生涯

生い立ち

塚原卜伝は、鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢)の次男として常陸国鹿島(現・鹿嶋市宮中)に生まれました。幼名は朝孝。

時期は不明ですが、後に覚賢の剣友である塚原安幹の養子となります。同時に名を高幹とし、新右衛門高幹と改めました。

ちなみに、塚原氏の本姓は平氏で、鹿島氏の分家であります。のちに、土佐守または土佐入道とも称しました。

卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部を由来としています。

実父・覚賢からは鹿島古流を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学びました。

『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」も養父の安幹から伝授されたといわれています。

第一回廻国修行

廻国修行に出た卜伝は、京都の清水寺の近くで初めての真剣勝負を行い相手を倒しています。

その時から15年にわたり長い期間、たくさんの戦いを行い、剣の腕を磨いたと思われます。

よく言われる「真剣の試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚を取らず、矢傷6ヶ所以外に傷一つ受けず、立会って敵を討取ること212人」というエピソードの大体が、この第1回の廻国修行の時のものであるといわれています。。

さらに、初めての各地を回る修行は、京都を中心とするもっとも戦乱の激しい中での廻国であり、死を目前にすることも非常に多く、あまりのはかなさにやがて心を病み、修行を終えたといわれています。

卜伝の心のすさみようを見て、父は我が子を、鹿島の松本備前守政信に卜伝を預け、鹿島神宮へこもるように助言しました。

 卜伝はすさんだ心を安らかにして、自分の剣の道を見つけようと修行に励み、鹿島の神様から心を新たにして先へ進めという啓示を受け、ト部伝統となっている剣の道を世に伝えるということでト伝を名乗ったと考えられています。

第二回廻国修行

 その後ト伝は備前守のすすめで大永3年(1523)に廻国修行に再び出ます。

このときは、都を越えて西日本の方へも行き、山陰地方や九州まで足を運んだものと考えられています。

この第二回の廻国修行は、世名を知られるようになる前のことであったので、確かなことは分かりません。

しかし、この武者修行ではト伝は行く先々で人々に自分の悟りを開いた剣の道を教えていたものと想像されています。

東北では子供たちから猿を救ったため、その猿に危険に陥ったところを助けられたというエピソードも残っています。

第2回の廻国修業中に実父の死が伝えられてト伝は修業を終え、故郷へ戻ります。

そして、塚原城の城主となり、天文2年の頃、妙という女性と結婚して城下の繁栄と弟子に指導することに全力を注ぎます。

第三回廻国修行

 10年程充実した年が過ぎ、天文13年(1544)妻が亡くなってしまうと、ト伝は養子である彦四郎幹重に塚原城を譲り、弘治3年(1557)3回目となる全国巡りの旅に出ます。

自分が悟りを開いた「一の太刀」と呼ばれる日本に再び安寧をもたらす剣の道を伝えるために、将軍足利義輝を始め、義昭、細川藤孝などに指導をしました。

あとでも述べますが義輝は剣豪将軍と呼ばれるほどの腕前でした。

その後、ト伝は伊勢国へ赴き、伊勢国司であった北畠具教に約2年もの間、剣を教え、唯授一人の「一の太刀」を具教に授けます。

具教はト伝を非常に尊敬し、具教がト伝のために建てさせた屋敷跡、塚原と呼ばれる土地、など、塚原ト伝がいたことを示すようなゆかりの名前の名所が現在でも残っています。

伊勢を離れたト伝は今度は甲斐(山梨県)へと向かいます。

甲斐への旅の途中で、白骨温泉の梓川べりに湧く温泉で再び元気になったようで、「ト伝の湯」の名前が現在まで伝わっています。

 甲斐では戦国大名である武田信玄に刀を披露し、信玄をはじめとして配下の武将たちに剣を教えたようで、ト伝をあちこちに案内した山本勘助を始め、原美濃守、などが門下に入っています。

『甲陽軍鑑』によれば、ト伝は大名の様な待遇を受けていた様子が記録されていて、どれほど武田信玄が卜伝を敬愛していたかということがうかがえます。

しばらくして甲斐を去ったト伝は下野の唐沢城の城主佐野修理太夫昌綱のところにいて、5人の子のうち3人に自分の剣を指導しました。

常陸の国に戻ってきたト伝は、江戸崎の弟子諸岡一羽のところにも足を運び、永禄9年(1566)頃、第3回の廻国修行を終えて故郷に入りました。

5年程過ぎて、元亀2年3月31日(1571)、ト伝は亡くなります。

 戦国時代という激動の時代の中で30年以上の廻国修行を果たし、平和を願った剣豪は83歳の生涯を閉じましたが、その高い剣の理想から、いつしか人々は剣聖の名を献じるようになったのです。


<塚原卜伝の墓地>

塚原卜伝のエピソード

琵琶湖にて

 卜伝のエピソードとして琵琶湖のものがあるのでご紹介します。

琵琶湖を渡る船で卜伝は若者と同じ船になり、若者は同じ船に乗っているのが卜伝だということを知って戦いを挑んできます。

卜伝は周りに迷惑がかかってはいけないと若者をなだめようとしますが若者は卜伝が恐れをなして戦おうとしないと罵言を飛ばし、挑発します。

ついに卜伝は戦いを受けることを若者に伝え、小舟に移ります。

近くの小さな島に卜伝は船を寄せようとしますが、水が浅いところまでくると若者は、はやって船を降りて小島にさっさと移動してしまいます。

 戦おうと待ち構える若者に対して卜伝は船を降りず、島から離れていきます。

だまされたことに怒る若者に対して卜伝は戦わずに勝つことこそが私の剣の真髄であると笑いながら去っていきました。

宮本武蔵との対決?

 卜伝と同じくらい有名な剣豪として知られるのが宮本武蔵です。

宮本武蔵と塚原卜伝が戦ったというエピソードまで残っています。それは次のようなものです。

年老いた卜伝が食事をしていると若かった宮本武蔵が卜伝に決闘を挑んで斬りかかってきます。

卜伝は鍋の蓋をとっさにつかんで盾としたというエピソードです。

しかし、これはフィクションであり、実際にあったことではありません。

なぜなら宮本武蔵が生まれたのは卜伝が亡くなった後のことであり、二人が会うということは現実にはありえないことだからです。

しかし、このようなエピソードが作られるほど後世の人々は卜伝と宮本武蔵の戦いを見てみたかったのだと思われます。

剣聖と呼ばれる卜伝と剣豪と呼ばれる宮本武蔵がもし戦ったならばどちらが勝つのか見てみたいという願望を持つ人は現在でもたくさんいると思われます。

どちらが強いのか本当のところを知りたいと考えるのは二人の剣の強さからすると当然のことです。

夢の対決が本当に実現していたらどちらが勝ったのでしょうか。

エピソードが伝えるもの

 ここまで2つのエピソードをご紹介してきましたが、これらのエピソードから塚原卜伝の人物像が浮き上がってきます。

 琵琶湖のエピソードからは卜伝がむやみやたらに決闘をするような人物ではなく、むしろ相手を傷つけずに勝つことこそが剣の真髄であると考えていたことが伝わってきます。

宮本武蔵との対決が望まれるほど強かった塚原卜伝ですが、剣で相手を圧倒することのみがすべてではないということを悟っていたのでしょう。

そうであるからこそ、塚原卜伝という人物は後世に至るまで人々に敬愛されているのだと思います。

剣の強さを見せびらかすのではなく、剣の本当の使い方を知っていた人物であるからこそ、剣聖と呼ばれるほどになったのです。

塚原卜伝の弟子

足利義輝

剣豪将軍として知られた室町幕府13代将軍です。

有名なエピソードとして、松永久秀や三好三人衆に二条御所を攻められた時、義輝は、幕府の権威により手にしていたたくさんの名刀を畳に突き刺し、その刀を駆使して最後まで奮闘したと言われています。

義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗しましたが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害されました。

最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害したとも、または槍で足を払われ、倒れたところを上から刺し殺されたともいわれています。

事件の際に在京していた山科言継の『言継卿記』には、義輝が「生害」したと記されており、討死したとも自害したともとることができます。

塚原卜伝から教えられていなければ、これほどの後世に伝わるほどの奮闘はできなかったでしょう。

剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人であります。

奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかと言われています。

ただし、卜伝はこの他に「 一之太刀 」を北畠具教や細川藤孝などにも授けており、足利義輝が必ずしも奥義を極めたとは断言できず、免許を皆伝したという記録もありませんので、そこは留意しておきましょう。


<足利 義輝>

北畠具教

 先ほども述べましたように、伊勢国司の北畠具教のところに、塚原卜伝は2年間滞在して自身の剣を教えていました。北畠具教も相当の力量の持ち主だったのでしょう。

具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護・援助していました。

自身も塚原卜伝に剣や兵法を学び、彼は卜伝から奥義である一の太刀を伝授されたといわれています。

他にも上泉信綱からも剣を学んだようです。

具教は大和の柳生宗厳とは剣を通じて親交があり、上泉信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたといわれています。

織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたといわれています。

その他の弟子

全国を回り剣を教えた塚原卜伝には数々の弟子がいたといわれています。

弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)のほか、諸岡一羽や真壁氏幹(道無)、斎藤伝鬼房(勝秀)ら一派を編み出した剣豪がいます。

また、将軍にもなった足利義昭や武田家軍師山本勘助にも剣術を指南したといわれています。

2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公の明智光秀も織田信長に仕える前は足利家に仕えていました。

この点を考慮すると明智光秀も卜伝から何らかの教えを受けていたとも考えられます。

まとめ 塚原卜伝に関するテレビドラマ、本

 塚原卜伝は有名な人物であるだけに数々の小説や卜伝を主人公にしたドラマも制作されています。

2011年には BS時代劇枠で、毎週日曜日に「塚原卜伝」が放映されました。

津本陽の歴史小説「塚原卜伝十二番勝負」を原作としており、脚色も加えられています。

主役の塚原卜伝を堺雅人が演じています。

BS時代劇 塚原卜伝の動画視聴・あらすじ | U-NEXT
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本ではテレビドラマの原作となった津本陽著 「塚原卜伝十二番勝負」 が塚原卜伝の戦いの数々を迫力をもって描き出しています。

津本陽歴史長篇全集 (第3巻)

小島英記著「 塚原卜伝 古今無双の剣豪 (日経文芸文庫) 」は塚原卜伝の生涯を読みやすい形で描いています。

塚原卜伝 古今無双の剣豪 (日経文芸文庫)

池波正太郎著「 卜伝最後の旅 (角川文庫)」は卜伝の三回目の廻国修行に焦点を当てて卜伝という人物に迫ろうとしています。

卜伝最後の旅 (角川文庫 い 8-16)

塚原卜伝は戦乱に明け暮れる時代に生きていました。

剣を究めていてとても強かったことは明らかですが、それだけではありません。

 琵琶湖のエピソードに象徴されるように人を傷つけずに戦いに勝つにはどうしたらよいのかを追求した人物でもありました。

数々の戦いを経て卜伝は本当に平和な世の中が来ることを誰よりも望んでいたのかもしれません。

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