5年後の令和6年(2024年)、新札の発行が開始されます。
新札の肖像画には
- 近代医学に貢献し「日本の細菌学の父」として知られる北里柴三郎
- 女子英学塾(のちの津田塾大学)の創立者でもあり、女性教育者の先駆者として活躍した津田梅子
- 「日本資本主義の父」と呼ばれた実業家である渋沢栄一
が選ばれました。
今回は新五千円紙幣の肖像画に選ばれた津田梅子の生い立ちや経歴、人物像についてご紹介いたします!
【刷新】新紙幣は2024年度上期、新500円硬貨は21年度上期をめどに発行へhttps://t.co/fUsP6zjXEW
1万円札 表:渋沢栄一 裏:東京駅丸の内駅舎
5千円札 表:津田梅子 裏:藤の花
千円札 表: 北里柴三郎 裏:富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」 pic.twitter.com/OsCnKhYy9y— ライブドアニュース (@livedoornews) 2019年4月9日
津田梅子の生い立ち
現在の東京都新宿区南町で誕生する
津田梅子は元治元年(1864年)12月3日、下総佐倉藩出身で幕臣であった父・津田仙と母・初子の次女として江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)にて誕生しました。
幕臣であった父・津田仙は幕府の崩壊とともに職を失うこととなりましたが、明治2年(1869年)に築地にあったホテル館に務めるようになりました。
それに伴い津田家は牛込南御徒町から向島へと引っ越すこととなります。
父の津田仙は西洋野菜の栽培などを行っていたとされ、幼い梅子は手習いや踊などを学びながら父の栽培を手伝っていたとされています。
津田梅子の経歴
6歳で留学生となり渡米する
明治4年(1871年)、父の津田仙が明治政府が始めた事業の一環である北海道開拓使の嘱託となります。
そのため津田家は麻布へと再び引っ越すこととなりました。
開拓使次官であった黒田清隆はもともと女子教育に関心を持っていた人物であったとされ、黒田清隆は女性にもっと知識をつけてもらおうと女子留学生の募集を企画しました。
これに梅子の父・津田仙はまだ6歳の梅子に応募させ、同年梅子は岩倉使節団に随行して渡米を果たすこととなります。
この時、5人の留学生がいたとされていますが、6歳の梅子が歳少年でした。
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山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)との出会い
11月に横浜港から旅立った梅子たちは12月にワシントンに到着します。
アメリカへと渡った梅子はジョージタウンに住む日本弁務館書記で画家のチャールズ・ランマン夫妻に預けられることとなりました。
5月になると梅子を含む5人の留学生たちはワシントン市内に移り住むこととなりますが、10月には2名の留学生が日本に帰国してしまいます。
残された留学生は
- 津田梅子
- 山川捨松(のちの大山捨松)
- 永井繁子(のちの瓜生繁子)
でした。
この3人は帰国後も親しい関係であったとされ、後に梅子が「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際に山川捨松(のちの大山捨松)と永井繁子(のちの瓜生繁子)が力を貸したとされています。
留学生活の中で
梅子は再びチャールズ・ランマン夫妻のもとで以降10数年生活するようになりました。
留学中、梅子は英語、ピアノを習っていたとされ、日本に宛てた手紙もいつのまにか英文になっていました。
キリスト教の信仰にも関心を示していたとされ、明治6年(1873年)7月、梅子はフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けています。
日本に帰国する
その後、明治11年(1878年)にコレジエト校を卒業すると、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへと進学し、ここで
- ラテン語
- フランス語
- 自然科学
- 心理学
- 芸術
などを学びました。
明治15年(1882年)7月に卒業すると、同年11月に日本に帰国し、11年にも及ぶ留学生活は幕を閉じました。
日本の生活に上手く馴染めなかった
帰国した梅子でしたが、まだ日本には女性が活躍する場が乏しく、留学中に親しくなった山川捨松と永井繁子は軍人へと嫁ぐこととなります。
また約10年もの長い間、アメリカで暮らしていたため通訳が必要となるくらい日本語能力が低下してしまっていました。
このような状況であったため、日本での生活に上手く馴染めなかったとされています。
英語教師として活躍
明治16年(1883年)梅子は外務卿・井上馨の屋敷で開かれた夜会に招待されます。
ここで伊藤博文から私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介されました。
日本の結婚観に疑問を抱き、生涯未婚を誓う
梅子は華族女学校に約3年英語教師として通っていたとされていますが、この間、上流階級的気風に馴染めなかったとされています。
また梅子は良き妻として夫に尽くすといった日本の結婚観に疑問を感じていたとされています。
いくつもの縁談が梅子に薦められていましたが、日本の結婚観に疑問を持つ梅子は全ての縁談を断り、生涯未婚を貫くことを誓いました。
2度目の留学
明治21年(1888年)、留学時代の友人であるアリス・ベーコンが来日します。
この際、アリス・ベーコンは梅子に再び留学するよう勧めたとされ、梅子はこれを受け2度目の留学を決意し、明治22年(1889年)7月、再び渡米しました。
留学した梅子は名門ブリンマー・カレッジで生物学を学び、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆します。
梅子の友人アリス・ベーコンはもともと日本女性に関する研究を行っていたとされ、アリス・ベーコンがアメリカに帰国し『日本の女性』を出版した際には、手助けを行ったとされています。
この経験は梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけとなったとされており、梅子は日本の女子留学生のための奨学金を設立し、公演や募金活動などを行い始めました。
明治25年(1892年)8月に日本に帰国した梅子は、再び華族女学校で務め始めます。
その後
- 明治27年(1894年)明治女学院でも講師として勤め始める
- 明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任
「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を開校
このころになると世間に女子教育の必要性が広まるようになっていました。
明治33年(1900年)7月、梅子は
- 父・津田仙
- アリス・ベーコン
- 大山捨松
- 瓜生繁子
- 桜井彦一郎
らの協力のもと、「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を東京麹町区に開校し、塾長となります。
梅子は「女子英学塾」(現在の津田塾大学)で華族平民といった地位に関わらない平等な教育を志しました。
梅子の開いた「女子英学塾」(現在の津田塾大学)は、これまで行儀作法の延長として行われていあ女子教育とは違い、自由でレベルの高い授業が行われていました。
そのため、授業についていけない生徒も多く脱落者が相次いだとされています。
津田梅子の最期
塾の経営基盤が整うと大正8年(1919年)1月に梅子は塾長を辞任しました。
その後、昭和4年(1929年)脳出血のため64歳で津田梅子は亡くなります。
梅子は生涯、独身を貫いたのでした。
梅子亡き後、「女子英学塾」(現在の津田塾大学)は「津田英学塾」と改名します。
しかし、戦争が勃発し校舎は失われてしまったため、「津田英学塾」として正式に開校したのは梅子が亡くなってから19年後の昭和23年(1948年)のことでした。
まとめ:新札に採用された津田梅子が登場する有名な大河ドラマはある?
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新五千円紙幣の肖像画に選ばれた津田梅子の生い立ちと経歴についてご紹介いたしました!
簡単にまとめると
- 6歳でアメリカに留学
- 2度の留学を経験
- 日本の結婚観に疑問を抱き、生涯未婚を貫いた
- 生涯、女子教育に力を注いだ
- 「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立した
- 64歳で脳出血のため亡くなった
津田梅子は女子教育に力を注いだ人物でした。
そのため「女性教育者の先駆者」と呼ばれています。
そんな津田梅子が登場する有名な大河ドラマは
- 2013年に放送された「八重の桜」
- 2015年に放送された「花燃ゆ」
です。
「八重の桜」では女優の河北麻友子さんが、「花燃ゆ」では女優の知花くららさんが津田梅子を演じらていますよ。
これを機に津田梅子に興味を持った方はぜ大河ドラマ「八重の桜」「花燃ゆ」を見てみてください。
以上「新札に採用された津田梅子とは、どんな人物?生い立ちと経歴についてご紹介!」でした。
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