藤原定家は小倉百人一首の撰者として有名ですが、その他はどんなことをした人なのでしょうか?
国語や社会の授業に名前が出てきて、名前だけは聞いたことがあるけれど、実際に何をした人なの・・・?
こう思っている人も多いかもしれませんね。
- 藤原定家の生い立ちは?
- 藤原定家の経歴と作品
- 藤原定家の性格は?
今回はこれら3点を紹介していきます!
こちらを読めば、藤原定家の生い立ち・経歴や作品・性格や人となりが分かって、作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。
藤原定家の生い立ちは?
藤原定家は1162~1241年、平安時代の末期から鎌倉時代の初期という激動期を生きた人です。
藤原北家御子左流(ふじわらほっけみこひだりりゅう)の家に生まれました。
ちなみに、藤原北家には
- 藤原道長
- 紫式部
など、多くの著名人がいます。
藤原定家は、政治家としては最終官位を正二位権中納言まで上げており、
- 京極殿
- 京極中納言
と呼ばれました。
このように見ると、定家はスーパーセレブのお家に生まれて、官位も思うがまま・・・
と思われがちですが、意外にも、定家は政治の世界では思うような成果を出せていなかったようです。
最終的には正二位権中納言までは上り詰めていますが、そこにたどり着いたのは71歳の時。
かなり時間を要したことが分かります。
そして、念願の職に就けたにも関わらず、結局は更迭されてしまい、権中納言の座を去ることに・・・
翌年には出家しています。
本当は政治の世界でもっと華々しく活躍したかったようですが、その願いは叶いませんでした。
出家して8年後、80歳でこの世を去っています。
しかし、鎌倉時代で80歳まで生きるって、すごい!
良い家柄出身ですので、良い暮らしができていたんですかね。
しかし、天皇でも早く亡くなる人はいるので、定家の生命力が強かったということでしょうか・・・
藤原定家の経歴と作品
さぁ、では、藤原定家が文芸の道でどのような活躍をしたのかを見ていきましょう。
藤原定家には大きく分けて3つの顔がありました。
- 歌人として
- 古典の編集者として
- 作家として
この3つの顔についてそれぞれ見ていきましょう。
1.歌人としての藤原定家
藤原定家は、歌人としての顔が一番有名です。
本人も和歌を詠んでいますが、それ以上に、
- 歌集の選出
- 歌論書の執筆
に力を入れていました。
勅撰集は
- 『新古今和歌集』
- 『新勅撰和歌集』
の選出に携わりました。
勅撰集以外には、
- 『定家八代抄』
- 『小倉百人一首』
- 『拾遺愚草』
があります。
『小倉百人一首』は有名ですよね。
これは、息子の妻の父親である宇都宮頼綱に、別荘のふすまに貼る色紙絵を依頼されて選んだものです。
今や超有名な『小倉百人一首』が、まさかふすまに貼るためのものだったなんて・・・
『拾遺愚草』は定家の私家集で、定家の代表作がほとんど載っています。
これは新古今時代の優れた6つの家集である「六家集」の一つに選ばれています。
定家は優れた和歌を選出するだけでなく、歌論書も多く残しています。
- 『毎月抄』
- 『近代秀歌』
- 『詠歌之大概』
などがあります。
本歌取りなどの技法や、心と詞の関わりを論じています。
どうですか?勅撰集から私家集、そして歌論書にいたるまで、どっぷりと和歌漬けの日々ですよね。
このようにして、定家は御子左家の歌道における地位を盤石にしていき、日本の歌道の代表として語り継がれています。
2.古典の編集者としての藤原定家
藤原定家は、古典を書写したり、注釈したりする作業もしていました。
印刷技術の無かった平安時代や鎌倉時代は、誰かが書いたものは、書き写して広めるしかなかったんですよね。
字を書ける人もそこまで多くはなかったので、本はとっても高価なものでした。
原本を写して、それが誰かの元に渡り、それをまた別の人が写して・・・を繰り返していくので、その過程で字を間違えたり、少しストーリーが変わってしまったりするんですよ。
定家は
- 『源氏物語』
- 『土佐日記』
- 『古今和歌集』
- 『伊勢物語』
- 『更級日記』
などなど、多くの古典を書き写し、注釈を加えていきました。
定家が書き写したものは「定家本」と言われており、書写本の中核をなしています。
例えば、
この文は、『源氏物語』の定家本を参考にしています。
といった具合に使います。
優れた作品を後世に残すことに一役買ったことは、定家の素晴らしい業績の一つです。
古典作品を書き写して、注釈を付けてだなんて、しっかりとした教養がないとできないことですよね。
定家のような人がいたおかげで、私たちは今、1000年も昔の物語などを読むことができるんですね。
ありがたいです。
3.作家としての藤原定家
定家は人が書いたものを書き写すだけでなく、自らも作品を残しています。
- 『明月記』
- 『松浦宮物語』
などを記したとされています。
『明月記』は定家の18歳から74歳までの克明な日記で、2000年には国宝に指定されました。
日記は当時の様子がありありと分かるので、歴史的価値がすごく高いものです。
1000年ほど前の人が、どのような暮らしをしていたのかが分かるってすごいですよね!
【エピソード】藤原定家の性格はどんな人?
これほどすごい功績を残した藤原定家は、どんな人だったのでしょうか?
エピソードを紹介しながら見ていきましょう。
エピソード1:美への執念がすごい!
藤原定家は、
- 美の使途
- 美の鬼
- 歌聖
などと呼ばれることがあるほど「美」を愛した人でした。
19歳の定家は、源頼朝が挙兵する際に、
政争は自分の関与すべきことではないから書きとどめない(現代語訳)
と『明月記』に記しています。
これは、俗世に背を向けて美的世界に自分は生きるのだという宣言だと言われています。
時代は鎌倉幕府ができるかどうかの瀬戸際の動乱期。
こんな時に、公家でありながら、自分は争いになんか参加しないよ~だなんて・・・
そりゃ~出世が遅れちゃうよねと思ってしまいます。
エピソード2:気性が激しく強情!
美的世界に生きている人って、なんだか優雅でのんびりとしているイメージがありませんか?
実は定家は、気性が激しく強情な一面を持っていたようです。
ロウソクで人を殴って官職を除籍となり、父が後鳥羽天皇に許しを請い、なんとか許してもらったエピソードが残っています。
この時、定家は23歳です。
もういい大人が何やってるんでしょうか。
しかも、しりぬぐいをお父さんがしてくれるだなんて・・・
また、このようなエピソードも。
「優れた父親の和歌でさえも良しと思わないのだから、他人の和歌なんで問題外である」
「傍若無人も度を過ぎていて、他人の言葉を聞き入れもしない」
これは後鳥羽院御口伝に記されているものを、私が意訳したものです。
他人の和歌を認めず、他人の言葉を聞き入れない様子が分かります。
後鳥羽院もこんなことを残しているくらいなので、定家の強情さは有名だったんでしょうね。
しかし、他人の和歌を軽んじる定家が、勅撰集や小倉百人一首をよく選んだなと思いませんか?
前後の流れがよく分からないので、何とも言えませんが、定家は和歌において、独自の基準をしっかりと持っていたんでしょうね。
エピソード3:実は身体が弱かった!?
79歳まで生きているので、健康そのものだったのかなと思っていたのですが、実は病弱だったようです。
定家の日記には
- 心神不快
- 心神迷惑
- 心神常に違乱
といった言葉が出てきます。
特に、咳病や風病が頻繁に出てくるので、冬になると毎年のように風邪に悩まされていたようです。
このような症状で苦しくなった時には、写経や書写をして、不快感を克服していました。
自分が好きなことをしていたら、しんどい気持ちが少し和らぐ感覚、とってもよく分かります。
それが写経や書写だったなんて、学がある人はやはり違いますね~
まとめ:藤原定家の性格と経歴は?生い立ちとエピソードが面白い!
藤原定家の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。
いかがでしたか?
簡単にまとめておきますね。
- 藤原定家は美を愛し、歌人、古典の編集者、作家として活躍した
- 藤原定家は官人としては思うように出世ができなかった
- 藤原定家は気性が激しく、強情な面もあった
- 藤原定家は長生きをしたが、実は病弱だった
- 藤原定家は後世に多くの古典を残した立役者だった
藤原定家がいなかったら、日本の文学界はどうなっていたのだろうかというほど、多くの功績を残していますね。
和歌集の編纂はもちろんですが、古典の写本は本当に素晴らしい功績です。
そんな藤原定家が、気性が激しく、強情だったということを知って、少し残念な気持ちがしている自分もいますが・・・
最後に、藤原定家に関わるおすすめ本を紹介しておきますね!
- 『新古今和歌集 上』『新古今和歌集 下』角川ソフィア文庫
- 『定家明月記私抄』『定家明月記私抄 続篇』堀田善衛
『明月記』はとても難解な内容ですので、解説付きのものを読むことをおすすめします。
藤原定家の私生活に踏み込みことができますよ。
(藤原定家のイメージががらっと変わってしまうかも!?)
以上、「藤原定家の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした。
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