あなたは藤原秀衡という人物を知っていますか?
奥州藤原氏3代目であり、平泉文化の全盛期に活躍した人物です。
源平合戦で大活躍した、あの源義経を鎌倉の源頼朝から守った人でもあります。
今回は藤原秀衡について
・藤原秀衡の生い立ちとは?
・藤原秀衡の経歴や最後は?
・【エピソード】藤原秀衡の人柄や性格が分かる逸話
を紹介します。
こちらを読めば藤原秀衡の生涯や逸話がわかりますよ。
是非、読んでみてください。
1、奥州藤原氏 3代目・藤原秀衡
①平泉の奥州藤原氏は秀郷流藤原氏か? 渡来系弥生人か?
②藤原秀衡の兄弟、子供たち
③藤原秀衡 鎮守府将軍、陸奥守に任命される。
④奥州藤原氏の政庁・平泉館
⑤北方の王者 藤原秀衡
⑥藤原秀衡が、源義経をかくまった理由
⑦奥州平泉政権・藤原秀衡 対 鎌倉政権・源頼朝
⑧ミイラから推測される藤原秀衡の死因
2、【エピソード】 藤原秀衡の人柄や性格
3、まとめ 藤原秀衡はどんな人? 大河ドラマに登場している?
奥州藤原氏 三代目・藤原秀衡
藤原秀衡は、保安3年(1122年)に
・父は、藤原基衡(奥州藤原氏2代目)
・母は、安倍宗任の娘か?
(※異説あり、生母は藤原基衡が家督継承以前の妻ではないか?)
の次男として生まれました。
(秀衡の通称が次郎で兄がいたと言われるが、詳しくは不明)
藤原秀衡が生まれた頃は、まだ奥州藤原氏・初代の清衡が存命中で、平泉文化の基礎ができた時期でもある。
(清衡が中尊寺、基衡が毛越寺を建立)
実際、藤原秀衡が当主となったのは2代目・基衡が没した保元2年(1157年)、秀衡36歳の頃である。
家督を相続すると共に奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となった。
同じ頃、都は、保元の乱・平治の乱を経て、平家全盛期になっていた。
平泉全盛期に家督を受け継いだ藤原秀衡だが、源平に激動の波に徐々に巻き込まれていくことになる。
平泉の奥州藤原氏は秀郷流藤原氏か? 渡来系弥生人か?
藤原秀衡が何者であるかは、奥州藤原氏のルーツを知るとわかってきます。
奥州藤原氏の初代は藤原清衡でありますが、その父は藤原経清といいます。
・平泉の藤原氏を藤原秀郷の子、千常の子孫としている。
(※藤原秀郷は、平将門を討ちとったことで知られる/承平・天慶の乱935年頃)
・実際、藤原氏を名乗ったのは、奥州藤原氏、初代・藤原清衡からです。
中央の摂関家と結び、秀郷流藤原氏を公に認められたのでしょう。
・学者によっては奥州藤原氏4代を渡来系弥生人と呼ぶ人もいます。
ミイラが残っていることもあり、渡来系弥生人的な頭蓋骨の特徴があるからでしょう。
・真偽はさておき、中央に認められている秀郷流藤原氏が歴史的には、正しいと言わざるを得ません。
藤原秀衡の兄弟、子供たち
兄弟は、男子(長男)、秀衡、十三秀栄、樋爪俊衡(ひづめとしひら)、徳姫(岩城則通 室)がいます。
・藤原秀衡の弟、秀栄は分家して十三湊に住み、十三秀栄と名乗った。
・樋爪俊衡は、弟とされているが、従兄弟と言う説もある。
・徳姫は妹と言われているが、初代・藤原清衡の娘で秀衡の伯母(叔母)にあたるという説もある。
または清原真衡(※藤原清衡と兄弟関係)の娘で清衡の養女とも2代・基衡の養女と言う説もある。
藤原秀衡の子供たちは、国衡、泰衡、忠衡、高衡、通衡、頼衡、娘がいます。
・藤原秀衡の家督は、正室の子で次男の泰衡(4代目)が継ぎます。
側室の子で長男の国衡は『愚管抄』に「武者柄ゆゆしくて、戦の日も抜け出て天晴れ物やと見けるに」と庶子とはいえ評価が高く家督は告げなかったものの存在は無視できるものではなかった。
・藤原秀衡には、娘がいたともされ鎌倉の源頼朝と婚姻させるつもりだったとされますが、系図には存在していません。
藤原秀衡 鎮守府将軍、陸奥守に任命される
藤原秀衡は、家督相続のとき奥六郡の主となり出羽国・陸奥国の押領使になる。
これは、両国の軍事・警察の権限を司る官職で武士団17万騎を統率するものである。
都では平家が全盛期を迎えていたが、奥州藤原氏は平泉で独自の勢力を持っていた。そして財力である奥州名馬、金を使い中央政界に影響を与えて、嘉応2年(1170年)、従五位下 鎮守府将軍に叙任された。
その理由は後白河上皇が平清盛への牽制(けんせい)という意味もあった。(藤原秀衡49歳)
その後、従五位上 陸奥守に任ぜられたのは養和(ようわ)元年(1181年)のことだった。
称号は、形骸化していたものの地方武官としては最高位で、実質はともかく形式上は大変名誉だった。(藤原秀衡 60歳)
藤原秀衡は、平泉政権の抜きんでた経済的実力で容易に周りが介入できない奥羽の地を反映させていった。
しかし、これが中央の権力抗争や歴史の転換期に巻き込まれる原因になった。
奥州藤原氏の政庁・平泉館
奥州藤原氏の居城はどこにあったのでしょうか?
藤原秀衡はどこに住んでいたのでしょうか?
藤原氏政庁「平泉館」跡推定地(柳御所遺跡)の発掘調査でわかってきています。
この遺跡は北上川の西岸の高館から続く段丘上に位置しています。
(岩手県西磐井郡平泉町高館にあったとされる奥州藤原氏の居館)
藤原秀衡が鎮守府将軍そして陸奥守に任じられてからは奥州藤原氏の居館としてだけでなく公的機関としての機能が充実されていた様子が伺われます。
その証拠として使い捨ての食器「かわらけ」が膨大な量で出土されていて、宴会の源流を思わせられます。
この他に輸入陶磁器、国産陶磁器はもちろんのこと各種工具類や溶解した金が付着した石も出土し工房もあったことが実証されています。
やがて藤原秀衡は常の居所として加羅御所を造営しましたが、範囲は推定の域をでません。
平泉町全域が12世紀の遺跡であり、各地の調査で多数の遺物が出土しますが、そこには京都や太宰府以外に例を見ない輸入陶器が多数含まれており、生活文化の質の高さに現代の我々は驚かされます。
いずれにしても12世紀の日本では、平泉以外にこれほどの質の高い文化を持った地方都市は太宰府ぐらいしかありません。
しかし、太宰府は国家の出先機関の所在地であり、一地方の一勢力よって築かれた平泉は特に素晴らしいものです。
藤原秀衡という存在は平泉文化の全盛期を作った人物ですが、奥州藤原氏4代は日本的の枠に収まらず世界的に誇る文化を持っていたと評価されてもいいと考えられます。
奥州藤原氏の平泉文化は、豊かな農作物と砂金や馬に代表されるような特産物を有効に利用することに支えられ英知・仏教を根底に据えた施政よって繁栄がもたらされていた。
平泉文化全盛期を生きた藤原秀衡もこの繁栄を力に中央政界に影響力を持つことができたと考えられます。
北方の王者 藤原秀衡
藤原秀衡の収める平泉は、都(平安京)に次ぐ人口を誇り、仏教文化(中尊寺金色堂など)を成す大都市になっていた。
藤原秀衡は、中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進をして評価を高め、さらに院近臣(鳥羽院、院政を行う治天の君の側近)・藤原基成の娘と婚姻して益々、繋がりを強めていった。
藤原秀衡は、外交力は大陸との貿易も行う程に力があった。
一方、承安4年(1174年)平泉に下った源氏の御曹司・源義経を養育している。
源義経は6年平泉で過ごしていたが、治承4年(1180年)に彼の兄・源頼朝が『平家打倒』ために挙兵したことを伝え聞いた。
源頼朝の元に馳せ参じる義経に秀衡は佐藤継信・忠信の兄弟を近習として付けるなど協力を惜しまなかった。
藤原秀衡の庇護を受けていた源義経の活躍は歴史に興味のある方でも、あまり知らない方でも、ご存知でしょう。
この後、起きる源平合戦で一ノ谷戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなど、彼の活躍は凄まじいものを天下に見せつけました。
一方、養和元年(1181年)には、藤原秀衡が2万余の軍勢を率いて白河の関を出たため武蔵・相模の武士が源頼朝に背いたという噂が都に流れ出ました。
そして平泉が中央の抗争に直接巻き込まれることになったのは、鎌倉の源頼朝と不仲になった弟・源義経を奥州に招いたからだと考えられます。
藤原秀衡はなぜ反逆者になった義経をかくまったのか?
おそらく義経を平泉で育て上げ情が移っている彼を見殺しにはできなかったと思われるのが自然です。
藤原秀衡が、源義経をかくまった理由
藤原秀衡が大きな経済力あったからこそ源義経は平泉で力を蓄えられた。
源義経が平泉に来たきっかけは彼の母・常盤御前のおかげである。
平治の乱で敗死した源義朝に代わって、一条(藤原)長成と再嫁した常盤御前であったが出家を拒んだ息子・源義経の将来を案じていた。
そのため夫・一条長成の親類、藤原基成(当時、衣川館に居住。平泉政権の顧問役)に義経の保護を依頼するように懇請した。
そして基成には、弟・藤原信頼が平治の乱で義経の父・源義朝を敗死させたという事実があり負い目があった。さらに彼には藤原秀衡の父・基衡と懇意であったことがこの願いに答えたいと思う気持ちに拍車をかけた。
藤原秀衡も娘婿という関係柄からそれを承諾して、源義経の奥州下りが決定したのである。
後に鎌倉の源頼朝と源義経が対立した時も秀衡はその態度を変えず奥州に受け入れた。
奥州平泉政権・藤原秀衡 対 鎌倉政権・源頼朝
文治2年(1186年)、平家を滅ぼし勢力を拡大して中央政界にも発言権を増した。
源頼朝は、「陸奥と都の交渉をしましょう」書状を藤原秀衡に送りつけてくるが、これは奥州藤原氏を源氏の下位に考え、鎌倉政権に従えという圧力でもある。
この時、思慮深く老獪な藤原秀衡は、鎌倉の源頼朝とは直接衝突は避けている。
頼朝の申し出に従い「奥州の馬と金」を直接、中央に送らず鎌倉に届けた。
秀衡は、鎌倉の源頼朝と衝突さけられないと考え、追われていた源義経を文治3年(1187年)2月に奥州平泉に受け入れた。
これが頼朝との関係を悪化させる覚悟の上での判断でした。
事実、源頼朝は奥州制覇の口実を得ることになります。
平家を滅亡させて、守護・地頭を配置し鎌倉の政権が浸透したといっても、西国は公家や寺社など都の勢力がまだまだ強く奥羽を制覇して東国を直轄下に置くことが急務だったと思われます。
そんな状況の中、源義経が平泉入りして約9か月後の文治3年(1187年)10月に藤原秀衡は死去してしまう。
北方の王者・秀衡の死後、源頼朝の奥羽制覇の工作は激しさを増していった。
藤原秀衡という存在は頼朝にとって大きな脅威だったと考えられます。
ミイラから推測される藤原秀衡の死因
奥州藤原氏4代のミイラは中尊寺金色堂に安置されている。
もちろん、藤原秀衡は全身が残っていて詳しい状況がわかる。
藤原秀衡含め4代の調査は昭和25年(1950年)8月を発端に調査されていて、平成6年(1994年)7月にも調査されている。
ここでは藤原秀衡についてだけ述べよう、
全身がミイラ化して肥満、歯槽膿漏・虫歯がある。
問題はこの二つの病気
・骨髄炎性脊椎炎(こつじえんせいせきついえん)
※細菌が骨髄に入り化膿する病気
・脊椎カリエス ※結核が原因の背骨に生じた病気
この二つのどちらかが原因で敗血症になり、程なく没したと推測される。
余談であるが、ミイラを元にした藤原秀衡の複顔模型が存在する。
【エピソード】 藤原秀衡の人柄や性格
・藤原秀衡は冷静沈着にして豪胆な人物であったと言われる。
・藤原秀衡は、鎌倉の源頼朝に追捕され、源頼朝との仲が険悪になった義経を奥州に受け入れた。
・藤原秀衡は、鎌倉の源頼朝から源義経追討を要請、都との仲介をしようと牽制されても軍事行動を起こすことはなかった。
・藤原秀衡は砂金の産出や大陸との貿易により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど北方で王道楽土を現出させるかの如き所業を遂げている。
・藤原秀衡は自らの死後、息子たち、泰衡・国衡に源義経を主君にして、3人で鎌倉の源頼朝に備えるよう言った。
そして、泰衡・国衡・義経に起請文を書かせている。
・藤原秀衡は自分の跡継ぎのことも考えて行動していたが、それは果たされず、奥州藤原氏は秀衡の死後2年で滅亡することになった。
まとめ 藤原秀衡はどんな人? 大河ドラマに登場している?
これまで藤原秀衡について紹介してきました。
まとめてみると
・藤原秀衡は奥州藤原氏、そして平泉の全盛期を生きた。
・押領使・鎮守府将軍・陸奥守と名実共に奥州の実力者であった。
・源義経を鎌倉の源頼朝から平泉で守った。
・藤原秀衡が生存中は如何に源頼朝も奥州には手だしできなかった。
・藤原秀衡は死後の政権の運営や息子たちのことも考えていた。
藤原秀衡が登場する大河ドラマには
・「炎立つ」(1993年) 渡瀬恒彦
・「義経」(2005年) 高橋秀樹
・「平清盛」(2012年) 京本政樹 などがあります。
藤原秀衡=京本政樹 (2012年大河ドラマ・平清盛)
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— 「平清盛」セリフ集 (@taiganokiyomori) 2019年12月27日
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