西郷隆盛の生い立ちと経歴は?生い立ちやエピソードが面白い!

幕末

上野の公園で犬を連れて立っている大柄な人物を誰もが見たことがあるでしょう。

その銅像は、幕末から明治維新を駆け抜けるように生きた人、西郷隆盛その人です。

貧しい下級武士の身分から、誰にも慕われる性格で幕府の要人にもなった西郷隆盛の生涯はどのようなものだったのでしょうか?

ここでは

  1. 西郷隆盛の生い立ちについて
  2. 西郷隆盛の経歴は?
  3. 西郷隆盛の人柄や性格をみてみよう

 

これを読めば西郷隆盛の生い立ちや経歴、人柄や性格までよくわかります。作品をより面白く読むことができますよ。

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西郷隆盛の生い立ちとは?

西郷隆盛は、1828年1月23日に薩摩藩の下級武士、西郷吉兵衛隆盛の長男として、鹿児島城下の下加治屋町で生まれました。

 

幼名を西郷小吉、通称は西郷吉之助でした。

ここでは西郷隆盛ではなく吉之助の名前で紹介しましょう。

 

父の吉兵衛は下から数えると2番目というくらいの下級武士でした。

吉之助の下には

  • 3人の弟
  • 3人の妹
  • 祖父母

合計11人の大所帯が貧しい家に暮らしていました。

それでも家族の仲はとても良かったのでした。

 

吉之助の幼馴染に3つ歳下の大久保正助、後の大久保利通がいます。

吉之助は読書が好きで、大久保利通らと薩摩藩の造士館に通い勉強しました。

陽明学を学ぶ一方で、福昌寺の無参和尚からも学びました。

 

1839年

仲間たちとお宮参りに行った吉之助は、友人が他の郷中(ごじゅう)と喧嘩するのを止めに入りました。郷中とは、藩の武士階級の子弟の教育法で、当然相手の方が上組の郷中でした。

  • それでも吉之助の郷中では彼が最も信頼され慕われていました。
  • そんな吉之助が喧嘩の仲裁に入った時、相手の郷中の抜いた刀が吉之助の右腕の神経を切ってしまいます。
  • 3日3晩高熱にうなされた吉之助は、命は助かりましたが、この傷が元で刀を握れなくなりました。

 

武士としては悲しいことです。もう剣が持てないのですから。

それでも、吉之助は学問で身を立てようと自分を奮い立たせて決して自分の運命や、自分に切りつけた相手さえも呪うような人物ではなかったのです。

そして刀が握れないならと相撲に精を出し、誰にも引けを取りませんでした。体格の良い吉之助でしたからすもう相撲では有利だったのです。どこまでも前向きだったんですね。

そして1841年吉之助は14歳で元服したのでした。

 

西郷隆盛の経歴は?

1844年  藩の仕事につきました。ここからは西郷隆盛でお話ししましょう。

  • この頃から外国船が薩摩に来ていたので今のままでは薩摩は侵略されるのではないかと西郷は危機感を持ちます。
  • そんな時藩主島津家に高崎崩れという事件が起きます。(お由羅騒動)
  • 時の藩主島津斉興の後継者を嫡子斉彬ではなく、側室お由良の息子、久光にする動きがあり、派閥が対立しました。

 

お由良の方は江戸の町娘だったのですが斉興に見初められ側室となった人です。

当然我が子久光を藩主にしたいという思いはありました。

その上父親である斉興自身が、嫡男の斉彬とウマが合わず嫌っていました。

それでなかなか藩主の座を隠居せず40歳になった斉彬にまだ家督を譲ろうとしませんでした。

 

  • 斉彬にはたくさんの子供を授かっていましたが、その多くが早世していました。
  • 一方久光の子供たちはみな無事に成長し全く対照的でした。

 

斉彬派はこの事態はお由良の呪いのせいだと考え、久光派を退けようとしました。

しかし血気盛んな斉彬派が久光派の重臣を暗殺するとの噂がたち、斉彬派の重鎮らは切腹をさせられ、その他の家臣は遠島や謹慎を命じられました。

この騒動で大久保利通の父も遠島となっています。

そして西郷隆盛の父吉兵衛が御用人をしていた赤山靱負(あかやまゆきえ)は切腹を命じられた1人でした。

  • 西郷隆盛も幼い時から赤山を慕っていました。
  • 父は赤山靱負の切腹に立ち会い介錯を務めました。
  • 西郷は父から赤山の最後の様子を聞き、また血のついた衣を見せられました。

 

この時西郷は何が何でも斉彬に藩主になってもらわねばと強く思ったのです。

この騒動を収拾すべき、将軍徳川家慶は斉興に茶器を下しました。

これは早々に隠居してお茶など嗜むと良いという命令を意味しています。

これで斉興は仕方なく42年も君臨した藩主の座を降りたのでした。

そして次の藩主にやっと斉彬の番がやって来たのです。1851年西郷隆盛24歳の冬でした。

翌年西郷は須賀という女性と結婚しました。

 

しかし、その年(1852年)

 

  • 7月に祖父の遊山が亡くなり、
  • 9月には父吉兵衛
  • 11月には母のマサまでも

 

相次いで亡くなりました。

妻に来たばかりで貧しい大所帯を支えることに見兼ねた須賀の親は娘を連れて帰ってしまいます。

この時西郷は斉彬に従って江戸にいました。

 

翌1855年  西郷は正式に家督を継いで名前を吉兵衛と改めました。

 

1856年  斉彬の養女篤姫が第13代将軍徳川家定に嫁ぎます。

斉彬は篤姫を通じ、一橋慶喜を次の将軍とし幕府を中心とした中央集権体制を実現し、開国して諸外国と渡り合おうと考えていたのでした。西郷は斉彬の配下として活動していました。

 

しかしこの目論見は井伊直弼が大老となったことでストップしてしまいます。

次の将軍は紀州藩主の徳川慶福に決まり、斉彬と意志を同じくした徳川斉昭らは謹慎となりました。

これを知ると島津斉彬は鹿児島で大きな軍事訓練をし兵を率いて江戸へと向かうつもりでしたが、志半ばで病に倒れ急死してしまいました。

すぐに島津久光の子忠義が家督を継ぎ、久光は後見人となりましたが、実権を握ったのは父の斉興だったのです。

 

西郷は斉彬の後を追って殉死しようとしましたが月照らに諭され、斉彬の意志を継いでいこうと心に決めるのでした。

その後諸藩の有志たちが井伊直弼を排斥しようと動いたことから、幕府の改革派は追われるようになり、西郷も月照を連れて鹿児島へと逃げ戻りました。

しかし幕府の追及を恐れた藩は西郷や月照を日向国に追放することにしました。これは道中で切り捨てるという意味があります。

 

  • 西郷は前途を悲観し、月照とともに海へ身投げしました。
  • すぐに助けられ西郷は一命を取り止めましたが、月照は亡くなりました。
  • 藩は西郷隆盛は死んだものとし、奄美大島へ送ります。

 

1859年のことでした。

島での生活は孤独でした。しかし大久保利通らから手紙や物資が届くなど鹿児島との交流はありました。

島では愛加那という娘と結婚しました。2人の間には菊次郎という男の子が生まれました。

 

1862年 西郷隆盛は呼び戻されます。

下関で待機する命令を受けていましたが、京都の動きが物騒なことを聞き勝手に京都へと行ってしまいます。

京都では激派志士たちが焼き討ちや挙兵の構えを見せていました。

西郷はそれを止めようとしたのですが、返って西郷が煽っていると思われ捕まってしまいます。

そんな時島津久光は浪士たちを鎮圧しようとしていました。久光の命を受けて寺田屋に集まっていた有馬新八らは説得を聞かなかったため彼を含む8名が上意討ちとなりました。

これを寺田屋騒動といいます、この浪士たちの中に西郷隆盛の弟 信吾(後の西郷従道)もふくまれていました。

 

西郷隆盛は沖永良部島へ遠島となります。その途中徳之島に滞在していた時に愛加那が2人目の子供 菊草を産みました。

愛加那は2人の子供を連れて西郷のもとに行きます。わずかな親子の対面でした。

すぐに西郷は沖永良部島へ送られます。風雨にさらされた牢の中で西郷はどんどん弱って行きました。

しかし間切横目(まきりよこめ)(警官のこと)の土持政照が自費で牢屋敷を作ってくれたので、西郷の身体は少しずつ回復していきました。

 

元気になると塾を開き1864年には生徒が20名にまでなっていました。

そして赦免の話が来ると、

 

  • 与人役大躰」(よひとやくだいたい)
  • 間切横目大躰

 

を書いて役人の心得とさせました。

そして西郷隆盛は再び本土へと戻って行ったのです。

西郷隆盛が京都に着くと、薩摩藩の悪評が多いことに驚きました。

薩摩藩は密貿易をしていると風評があったからです。

このせいで薩摩藩の船が長州藩に撃沈されたりする事件も起きていました。

池田屋事件のあと、長州藩などの浪士が皇居を襲おうとした禁門の変が起きます。

この時西郷隆盛は長州勢と戦い撃退しています。

西郷隆盛は中立の立場をとったのですが、久坂玄瑞などの犠牲者を出した長州藩からは「薩奸会賊」と呼ばれ薩摩と会津は敵視されました。

第一次長州征伐の命令が出されましたが、西郷隆盛は勝海舟と話し、強硬策を取るのをやめます。

三家老と四参謀の切腹と藩主の謝罪文という寛大な処分でした。

 

1865年一度薩摩藩に戻り藩主に報告をしたあと、人の勧めで岩山イトと結婚しました。3度目ですね。

  • 長州藩は騎兵隊で知られる高杉晋作が主導権を握ります。
  • このままではまた長州藩が暴れ出すと、坂本龍馬らが薩摩と長州の仲を取り持つ働きをします。
  • ここで西郷隆盛は桂小五郎と話し、ついに「薩長同盟」が結ばれるのです。

 

この後第二次長州征伐の命令が出ますが、西郷隆盛は鹿児島から長州征伐反対の意思を示し、出兵を断る文書を出しました。

幕府は将軍徳川家茂が病死し、孝明天皇も崩御したためこの戦いは終わりました。

この間に西郷隆盛には嫡男の寅太郎が生まれています。

 

1867年将軍徳川慶喜は大政奉還をし、王政復古がなされたのです。

 

1868年鳥羽伏見の戦いが始まりました。「戊辰戦争」の始まりです。

徳川慶喜は江戸へ逃げていました。

西郷隆盛は東海道先鋒軍の参謀になり、箱根を占領しました。その後江戸総攻撃の命を受けて江戸へ戻ります。

そして勝海舟の尽力により「江戸城無血開城」がなされたのです。

その後

  • 東北戦争
  • 上野戦争

 

と戦い続けました。この頃から身体を壊し、鹿児島で湯治をしていました。そんな中で東北戦争の状況が悪く、再び西郷に召集がかかり越後柏崎へと向かいます。

そこで弟の吉二郎の訃報を聞かされたのでした。

庄内藩や会津藩などが降伏すると東北戦争は終わりを告げました。

西郷隆盛は鹿児島に戻りまた湯治をしていましたが藩主の島津忠義に請われて藩に戻り、藩政の改革などに励んでいました。

箱館戦争の応援に出向いた西郷でしたが、五稜郭が開城し戦争は既に終わっていました。ここで戊辰戦争の終わりとなります。

 

1871年大久保利通や木戸孝充らと廃藩置県を協議し、また新政府の内閣人事にも加わりました。

西郷隆盛は

  • 木戸孝充、
  • 板垣退助、
  • 大隈重信

 

らとともに参議の役についたのです。

岩倉具視らが主要なメンバーと欧州へ使節団として出向いた際には留守内閣として様々な政策を行なっています。

  • 府県の統廃合
  • 学校の制定
  • 太陽暦の採用

 

など西郷が行ったものでした。

 

1873年全ての役を降り鹿児島へ帰りました。

 

1874年湯治をしているところへ佐賀の乱で敗れた江藤新平が訪ねてきました。

彼は士族を焚きつけて乱を起こした人物です、この人物が後に薩摩の士族の反乱へとつながり西郷隆盛を巻き込んでいくのでした。

政府を離れた西郷隆盛は私学校を作ります。しかしそこには不満を募らせた士族が集まってきたのです。

危険を感じた政府は、武器弾薬を回収して状況をみていました。

そして政府は西郷隆盛暗殺を企てていることを知ります。

もう薩摩の士族たちを止めるものはいませんでした。

おいの体は差し上げもそ

西郷隆盛は決意をしたのです。

 

1877年薩摩軍は熊本へ向けて進軍しました。西南戦争の始まりです。

田原坂の激戦を突破した新政府軍は熊本城へ向かいます。

西郷軍は撤退して、鹿児島に上陸した新政府軍と激しく戦いますが、一転して宮崎を目指しました。ここでも新政府軍に阻まれます。

最初13000人いた西郷軍はわずか300人になっていました。

西郷隆盛は潜んでいた城山の洞窟から出ると、腹を撃たれてしまいます。

晋どん、もうここらでよかろ

そう言って西郷隆盛は自刃して果てたのです。享年51歳(満49歳)でした。

  1. お由羅騒動が起きる
  2. 島津斉彬が家督を譲られたあと、最初の結婚をする
  3. 斉彬は養女篤姫を徳川将軍家に輿入れさせるが、志半ばにして急死する
  4. 西郷隆盛は奄美大島に流罪となり、2度目の結婚をする
  5. 薩長同盟を成立させる
  6. 大政奉還、王政復古がなされる
  7. 戊辰戦争が起き、江戸城無血開城となる
  8. 新政府で参議として務める
  9. 私学校で政府への不満が爆発し西南戦争へと発展し西郷隆盛は自刃する

 

西郷隆盛の人柄や性格の面白いエピソードは?

  1. 西郷隆盛は肥満だった
  2. 西郷隆盛は女性にモテた
  3. 天皇の前でも気取らない性格だった
  4. 西郷隆盛は人前に出るときはきちんとした身なりをする人物だった

 

西郷隆盛は身長181cm、体重は109kgもの大きな体格の持ち主でした。

ですから肥満傾向にありましたが、甘いものや肉の脂身が好物だったようです。

西郷隆盛は3人の妻を迎えました。しかしそれだけではないようで愛人を囲っていました。太った女性が好みでした。

3人の奥さんたちはどうだったのでしょうね。

 

明治天皇も同席した晩餐会で、スープを出された西郷隆盛は作法を知りませんでした。ですから皿を持ってスープを飲み干したのでした。

飾らない人柄に明治天皇はとても西郷隆盛を気に入りました。

 

上野の西郷隆盛の銅像を見た妻のイトは「うちの夫はこんな人じゃなかった」と言いました。

それは顔や体格が別人なのだと思われていましたが、そうではなく「うちの夫はこんな姿で散歩に出るような人ではなく、もっとちゃんとした人だった」と言いたかったのでした。

確かにラフな格好の西郷さんですね。

 

まとめ 西郷隆盛はどんな人?わかりやすいおすすめ作。

西郷隆盛の生い立ちや経歴についてエピソードを加えてお伝えしました。

波乱万丈に富んだ西郷隆盛のお話はいかがでしたか。

何度も辛い目にあいそれでも這い上がってきた彼の人生は壮絶なものでした、

人に好かれ、慕われた反面敵も多かったことも事実です。

それでも懸命に生きた西郷隆盛の生涯は素晴らしいものだといえます。

 

ドラマ

NHK大河ドラマ「西郷どん」 鈴木亮平

>>大河ドラマ「西郷どん」

  • 西郷隆盛 池波正太郎(角川文庫)
  • 素顔の西郷隆盛 磯田道史(新潮新書)

 

以上、西郷隆盛の生い立ちと経歴について紹介しました。

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