九州薩摩の島津家の名前って皆さんご存知ですか?私が学生時代歴史の勉強で知っていたのは
- 鎌倉時代 蒙古襲来で御家人として撃退に加わった
- 安土桃山時代 豊臣秀吉の九州征伐で戦う(ゲームとかに使われてるのはこの時代)
- 江戸時代 討幕から明治維新までの、薩摩藩志士の活躍
くらいでした。皆さんはいかがでしたか?
島津家は『島津に暗君なし』と言われる武家でも名門の家です。歴代当主に何人も、その時代キーマンになった人物がいますので、この表現がよくわかります。そのなかで、今回は戦国時代に活躍した島津義久の人物像にせまります。
内容としては
- 島津義久の生い立ちは?
- 島津義久の経歴と武将としての強さとは?
- エピソードにみる島津義久の人物像は?
について書いていきます。
こちらを読めば、島津義久の生い立ち・経歴・性格や人となりが分かります
『島津の陣風~義久の深謀、義弘の胆力』などの義久についての作品もさらに楽しめるようになります。ぜひご覧ください。
島津義久の生い立ちは?
島津家とは
ここで簡単に島津家について説明します
- 京都近衛家の家司だったので、近衛家とは深いつながりがあった
- 鎌倉時代に源頼朝から薩摩・大隅・日向三か国の守護職を任命される
- 源頼朝に三か国守護に任命されて明治まで約700年南九州を領有した
- 義久が生まれたころは、薩摩の一部地域にまで領地を縮小していた
鎌倉時代から始まる守護家が室町時代には、支配地域が縮小していたという話はよくあります。島津家もこれに当てはまりますが、「頼朝公に三州太守に任じられた家」の誇りは引き継がれます。島津家や薩摩出身者の団結力って、この長い歴史からきてるんでしょうね。
義久が誕生したころの島津家
次に義久誕生前後の島津家につて説明します
- 「島津家中興の祖」の祖父島津忠良は、島津本家出身でない(伊作島津家)
- 父島津貴久は、島津本家14代の島津勝久の養子になり15代当主になった
- 家督を譲ったはずの、勝久がクーデター起こすなど、一族の統一はされていなかった
この様な状況で、祖父や父は薩摩統一のために一族や国衆との戦いを繰り広げていました。
そうしたなか、父貴久が当主の間に島津家はもちろん日本を揺るがす出来事が起こります。
- 1542年 種子島へのポルトガル船による鉄砲伝来
- 1549年 サンフランシスコ・ザビエル来訪
鉄砲の登場により、戦の形はそれまでと変わります。キリスト教の布教を条件にした、南蛮渡来品や鉄砲を全国の大名は求めます。そうした、大きく時代が動き始めた薩摩に義久が誕生します。
義久の誕生、幼少時代
薩摩の島津家15代島津貴久の嫡男として生まれます。幼名は虎寿丸。
この貴久には、子供が四人います。
- 1533年生 義久
- 1535年生 義弘
- 1537年生 歳久
- 1547年生 家久
義久は、子供のころはおとなしい性格でした。祖父の島津忠良からは「三州の総大将たる材自ずから備わる」と評価されています。
子供のころから、贔屓はあったとしても祖父にそう言わせる何かがあったのでしょうね。
島津義久の経歴と武将としての強さとは?
初陣から三州統一
- 1554年 岩剣城攻めで三人の弟と一緒に初陣をはたす
- 1566年 父から家督相続し、16代島津家当主になる
- 1570年 薩摩の統一がこの頃達成する
- 1572年 木崎原の戦いで、伊東家の軍勢を撃退する
- 1574年 大隅の国衆を帰順させ大隅の統一達成
- 1576年 日向の統一、三州統一し名実ともに三州の太守になる
- 1578年 耳川の戦いで、伊東・大友連合軍に勝利する
木崎原の戦いは、日向の伊東氏との戦いで『九州の桶狭間』ともよばれる戦いです。
島津勢300名で、伊東勢3000名に寡兵で勝った戦いでした。戦いのあと日向を島津家が統一すると、伊東家は豊後の大友家を頼って落ち延びます。
頼られた大友家と島津家の戦いが、耳川の戦いです。この戦いに勝ったことで、九州統一への戦いに進んでいきます。
九州統一へ
- 1581年 肥後 相良家降伏
- 1582年 沖田畷の戦いで、龍造寺家に勝利 → 龍造寺家降伏
- 1582年 肥後 隈部家、筑前 秋月家など降伏
- 1585年 肥後 阿蘇家降伏
- 1585年 豊臣秀吉より惣無事令(九州での戦争禁止令)届く
- 1586年 惣無事令を無視し、大友家領に侵攻
- 1587年 戸次川の戦いで豊臣軍先遣隊に勝利する
- 1587年 豊臣家の九州征伐軍の前に、薩摩の川内の泰平寺で島津家降伏
耳川の戦い以降快進撃を続け一時は、豊後国とほかの一部を除く九州全域を版図にくわえます。大友家が豊臣秀吉に、救いの手を求めるほど九州統一まであと一歩までせまります。
むかうところ敵なしの島津家でした、関白に任じられた秀吉の軍門に降ります。
この時に、義久は剃髪し「龍伯」と改名し秀吉に面会しています。
義久が秀吉に降伏した後も、弟の義弘と歳久など抵抗している家来がいましたが義久が説得し正式に降伏します。九州征伐の戦後処理で島津家の領地は、薩摩・大隅・日向の一部となります。
薩摩の島津
- 1592~1593年 文禄の役
- 1597~1598年 慶長の役
- 1600年 関ケ原の戦い
その後、豊臣政権下での朝鮮出兵では島津家も出陣し、その強さから相手の明や朝鮮から「鬼島津」と恐れられる武威をしめします。
日本だけでなく、外国でもその強さが認められた戦いです。
島津家の強さで有名なのは、あとは関ケ原の戦いでの『島津の退き口』も有名です。
- 始めは東軍側につくはずだった義久の弟義弘率いる島津軍ですが、ひょんなことから西軍として戦います。
- 関ケ原の戦いで、島津がその強さをみせつけたのは西軍敗北が濃厚になってからでした。
- 軍の撤退に、徳川軍の中央を突破しつつ退却していったのです。
- 追い詰められた島津軍を追撃した、家康の四男松平忠吉と徳川四天王の一人井伊直政はこの時に重傷を負います。
- 同じく四天王の一人本多忠勝も落馬します。数を減らしつつも、大阪から薩摩に帰還します。
ここで注目は、多くの島津家の戦闘は義久から任された義弘達信頼できる弟と家臣団が行ったことです。
義久は本営にあって、全体を把握しながら指揮命令を下しています。
任せた一族や家来が力をつけて独立したり、主家に下剋上することが多くあった戦国時代です。
信頼できる優秀な弟達一族や、有能な家臣団を持っていたことが義久当時の島津家の強さの一因です。
関ケ原での戦後処理として、家康に島津討伐を計画されます。
義久の巧みな外交手腕や島津家と昔から縁のある、京都の摂関家近衛家の取り成し等もあり所領安堵されます。
- 関ケ原合戦では、裏切りの約束をしていても改易されたり、あとあと難癖付けて改易したりといった処罰が下されています。
- この大事な局面を乗り越えたから、幕末の薩摩藩があったんですね。
- 晩年は弟義弘の子、忠恒に当主の座を譲ります。実際は幕府などとやり取りがあるなど影響力を死ぬまで持っていました。
1611年79歳で、領国で病死します。
エピソードに見る、島津義久の人物像は?
エピソード1.過去の悪人から自分を戒めていた島津義久
義久は自分の部屋に歴史に名を残す悪人の絵を飾っていました。
家来が見て不思議に思い、義久に理由をきくと意外な返事が返ってきました。
「善い行いは意識すればできるが、悪い行いは知らず知らずやってしまうものだ。この悪人達の顔を見て同じ轍は踏むまいぞとおもえば、そう道は誤るまい」と答えます。
- 人間成功していけば、独善的になり諫言を受け入れなくなったりします。
- 結果的に進言する人がどうしてもいなくなり、事業がこけたりします。
- その危険を防ぐ方法でこんなことをして、常に自分を戒めていた義久はすごい。
なかなか真似できませんね。
エピソード2.あの家康をうならせる、島津義久
徳川家康に軍功話を請われた時に「私は弟や家臣たちを派遣して合戦に勝ったのであって、自分の手柄ではない」と謙遜して言っています。
これに対して家康は「自ら動くことなく勝利を収めるのは大将の鑑であり、源頼朝に並ぶ器だ」と絶賛しています。
まとめ 島津義久の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード
島津義久の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。
- 子供の頃は、おとなしい性格だったが祖父忠良には「三州の総大将の器がある」とその資質を見抜かれていた
- 16代として名門島津家当主を継ぎ、九州の大半をその版図にし島津家領土の最盛期を築く戦略家だった
- 豊臣秀吉の九州征伐や徳川家康の関ケ原戦後処理で、外交力を駆使し幕末まで続く薩摩藩の元を作る
- 権勢をもっても、先人の失敗を学び同じ失敗をしないようにしていた
- 戦国時代には珍しく義久と優秀な弟達は強い絆で結ばれていた
- 『島津に暗君なし』どうり、瞬く間に九州を席巻した島津義久はすごかった。
最後に島津義久の書いてある本を紹介します。興味を持たれたら、一度手に取ってみてください。
- 島津義久~九州全土を席巻した智将 桐野作人著 PHP文庫
- 島津奔る 池宮彰一郎著 新潮文庫
- 島津の陣風~義久の深謀、義弘の胆力 片山洋一著 朝日新聞出版
最後まで、読んでいただきありがとうございました。
以上、「島津義久の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソード」でした
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